4-1 突き進む
ひかりの小さな足音が遠ざかり、工房に再び静寂が戻る。
しかし、先程までの重い絶望とは違う、もっと張り詰めた、覚悟を試すような沈黙だった。
燈弥は、ひかりから受け取った手作りのチケットをそっと作業台の上に置いた。
その瞬間、それまで押し黙っていた一ノ瀬が、堰を切ったように声を上げた。
「・・・本気、ですか?先輩」
その声は、震えていた。怒りと、そして呆れの色が濃くにじんでいる。
「本気で、やるつもりなんですか!?たった四ヶ月で!?何のあてもないのに!?」
「ああ。本気だ」
燈弥は、きっぱりと頷く。その揺るぎない態度に、一ノ瀬の感情がさらに昂った。
「無責任です!それは優しさなんかじゃありません、ただの無責任な虚言です!あの子に、もう一度絶望を味わわせるだけです!ただでさえ、私たちのリソースは枯渇寸前なんですよ!?それなのに、不可能なスケジュールを何の相談もなく・・・!」
「じゃあ、どうすればよかった?」
燈弥の静かな問いが、一ノ瀬の言葉を遮った。
「じゃあ、あの時、あの子になんて言えばよかったんだ。『ごめんね、俺たちには無理なんだ』ってか?『親父との約束は、諦めてくれ』ってか?違うだろ、一ノ瀬」
燈弥は、ゆっくりと一ノ瀬に向き直る。その瞳の奥には、先程ひかりに向けたのと同じ、燃えるような光が宿っていた。
「俺たちの仕事は、ただの工業製品を作ることじゃない。人の心を動かし、笑顔にするためのもんを作るのが、俺たちの仕事だろ。親父が、あの子とした約束を、俺が継いで、笑顔にする。それが、今の俺たちが絶対にやらなきゃいけないことだ。エンターテイメントを作るものとしてのプライドだ」
それは、あまりにも真っ直ぐで、青臭いほどの正論だった。
しかし、その言葉は、一ノ瀬の胸の奥に確かに届いた。そうだ、忘れていた。自分たちは、ただのエンジニアじゃない。人の心を動かすクリエイターなのだ。
一ノ瀬は、ぐっと唇を噛みしめ、反論の言葉を飲み込んだ。そして、かろうじて、最も現実的な問題を口にする。
「・・・ですが、時間があまりにもなさすぎます」
「ああ、ないな」
「物理的に、不可能です」
「可能にするんだよ」
燈弥は、こともなげに言うと、少し考えるそぶりを見せ、そして、とんでもないことを口にした。
「一つ、時間を捻出する合理的な方法がある」
「方法、ですか?」
「ああ。一ノ瀬、俺と一緒に住んでくれ」
「・・・・・・・・・へ?」
一ノ瀬の思考が、完全に停止した。
い、今、なんて・・・?
一緒に、住む・・・?
せ、先輩と、私が・・・?
ど、同棲・・・!?
一ノ瀬の顔に、カッと熱が集まるのが、自分でも分かった。心臓が、あり得ない速度で脈打ち始める。
な、な、な、何を言い出すんですか、この人は!?こんな、追い詰められた状況で、そ、そんな不純なことを・・・!
「い、いきなり、何を言い出すんですか!わ、私と先輩が、そ、そんな・・・!」
しどろもどろになる一ノ瀬を、燈弥は不思議そうな顔で見つめた。
「そんな、ってなんだ?俺たちの工房は、町の中心部から少し離れてる。お前のアパートからの往復の時間、食事の準備をする時間、全部無駄だ。一緒に生活していれば、一分一秒でも長く開発に時間を充てられる。生活の全てを、この四ヶ月間、花火だけに捧げるんだ。最も合理的で、効率的な判断だろ?」
「・・・・・・・・・」
その、あまりにも業務的な、一ミリの邪念も感じられない瞳。
一ノ瀬の沸騰していた頭は、一気に氷水を浴びせられたように冷えていった。
肩透かし、という言葉が、脳裏をぐるぐると回る。
そうだ。この人は、こういう人だった。
目的のためなら、全てを合理的に判断し、最短距離で突き進む。かつて、伝説のタッグと呼ばれた頃から、何も変わっていない。
一ノ瀬は、一つ、大きな大きなため息をついた。
そして、まだ少しだけ赤い顔を隠すように俯きながら、呟いた。
「・・・わかりました。やりましょう」
「そうか」
「ただし、言っておきますけど、私は家事とか、一切できませんからね!」
「問題ない。俺もだ。秘策がある」
「え!?なんですか?もしかして、家事代行とか!?」
「こんな田舎にそんなサービスはない」
悪びれもせずに言い切った燈弥に、一ノ瀬は思わず顔を上げて、二人で顔を見合わせる。そして、どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれた。
工房を支配していた重い空気は、消えていた。
ーーーーーーーーーー
「で、なんで私は今から先輩の家に来てるんですか?」
「いやー。やはり家事の時間って無駄だろ?なら、母さんに協力してもらったほうがいい」
「・・・・・・は?」
一ノ瀬の理性の糸が、今度こそ、ぶっつりと音を立てて切れた。
「お、お母さん、ですか!?先日、お父様のご葬儀で十年ぶりに再会したばかりなんですよね!?さっさと帰って、その後、連絡もなしだった息子が、いきなり謎の女を連れて現れて、『住まわせろ、飯を作れ』なんて・・・!」
「大丈夫だ。うちの母さん、そういう細かいことは気にしない」
何の根拠もない「大丈夫」に、一ノ瀬はもはや反論する気力も失っていた。
工房から歩いて十分。手入れの行き届いた一軒家。
燈弥は躊躇なく玄関の引き戸を開けた。
「ただいま」
奥から、割烹着姿の母・早紀が顔を出す。彼女は、息子の隣にいる見知らぬ女性に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに燈弥に視線を戻した。
「・・・おかえりなさい。忘れ物でもしたの?」
その声には、十年という空白期間が生んだ、まだ少しだけぎこちない距離感が滲んでいた。
「いや」
燈弥は、ごくりと喉を鳴らすと、母の目をまっすぐに見つめ返した。
「母さん、頼みがある。これから四ヶ月、親父の工房を使わせてくれ」
その、あまりにも唐突な申し出に、早紀の目がわずかに見開かれる。
「親父がやり残したことがあるんだ。そのために、この工房で少し研究がしたい」
「何かしてるのは知ってたけど、わかったわ・・・それより」
そこで初めて、燈弥は隣にいる一ノ瀬に視線を移した。
「こいつは、一ノ瀬栞。俺の仕事のパートナーだ。俺一人じゃ、何もできない。だから、こいつもこの家に住み込みで働いてもらいたいと考えている。だから俺たちが研究に集中できるように俺と一ノ瀬2人をここに住ませてくれ。母さん、力を貸してくれ」
「は、始めまして!一ノ瀬栞です!!よろしくお願いします!!」
早紀は、何も言わなかった。
ただ、息子の瞳の奥に宿る光が、家を飛び出していった十年前と同じ、どうしようもなく頑固で、まっすぐな光であることを見て取っていた。
やがて、彼女は、はぁ・・・と、天を仰ぐような、深くて長いため息をついた。
「・・・本当に、あなたって子は・・・」
その声には、怒りよりも、盛大な「呆れ」の色が滲んでいた。
「そういう大事なことを、玄関先で言うものじゃないのよ、馬鹿」
早紀は、やれれやれと言わんばかりに首を振ると、そこで初めて、息子の隣で石のように固まっている一ノ瀬に向き直り、悪戯っぽく微笑んだ。
「ごめんなさいね、一ノ瀬さん。うちの息子、昔からこうなのよ。口下手で、不器用で、自分のやりたいことしか見えなくなる、ただの馬鹿」
「あ・・・い、いえ!そんなことは!(だいたい合ってますけど!)」
「さ、立ち話もなんだし、お上がりなさい。燈弥が帰ってくるって聞いて、晩ごはん、たくさん作っちゃったから、手伝ってくれると嬉しいわ」
その、どこにでもあるような、温かい夕食への誘い。
一ノ瀬は、張り詰めていた全身の力が抜け、なんだか無性に泣きたいような、笑いたいような気持ちになった。
こうして、十年という空白を抱えた親子の、ぎこちなくも温かい共同生活が、突然始まったのである。




