3-3 前途多難
「・・・・・・」
「・・・・・・」
燈弥と一ノ瀬は、言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。
「・・・なるほど、先輩の言ってた通り、これは厳しそうですね」
一ノ瀬が、努めて明るい声で言う。しかし、その笑顔は、いつもより少しだけ、こわばっていた。
「・・・ああ。分かってたさ」
燈弥もまた乾いた笑みを浮かべるのが精一杯だった。十年前に父を、そしてこの煤けた世界を「古い」と切り捨てた自分が、今更どの面を下げて戻ってきたのか。源蔵の怒りは、そのまま死んだ父の無念そのもののように思えた。
「じゃあ、また工房に戻るか」
「・・・そうですね!」
しかし、彼らは立ち止まらなかった。いや、立ち止まれなかった。
工房に戻った二人は、その日から「地獄のデバッグ」を開始した。
「直接指導が不可能なら、代替手段を探すまでです。やるしかないですよ!」
一ノ瀬は、エンジニアの顔に戻ると、再び膨大な計画を立て始めた。
それからの日々は、まさしく暗中模索だった。
二人は、町の古びた図書館に通い詰め、禁帯出の印が押された、何十年も前の花火の専門書を読み漁った。
一ノ瀬は、火薬の燃焼パターンを予測するシミュレーションプログラムを構築した。
燈弥は、幼い頃の記憶の断片を頼りに、父がやっていたであろう手順を、何度も、何度も、試行錯誤した。
しかし、現実は非情だった。
図書館の本はあくまで歴史書の類であり、あまりにも古く、現代の規制に合わせて変質した材料とは噛み合わない。一ノ瀬の完璧なシミュレーションは、予測不能な要素が多すぎるアナログな化学反応の前では、ただの虚しい数字の羅列に成り下がった。
そして、燈弥の記憶は、曖昧で不確かだった。
工房にはただ黒い煤と、形にならなかった失敗作の残骸だけが、山のように積み上がっていく。
かつての二人の天才は、今や不器用な見習い以下の存在だった。その事実は、彼らの心を少しずつ、しかし確実にすり減らしていった。
その日も、二人は工房の床に座り込み、天井を仰いでいた。
目の前には、また一つ、失敗作が転がっている。それは、ただ黒い煙を上げて、しゅうしゅうと音を立てて消えただけの、火薬の塊だった。
「・・・ダメだ。もう、何が間違ってるのかすら、分からない」
燈弥が、力なく呟く。
「仮説と検証のサイクルが、完全に機能不全に陥っています。再現性のあるデータが、何一つ取れません・・・」
一ノ瀬も、珍しく弱音を吐いた。
「あーもう! この時代、制作工程の動画の一つでも残っていれば、もっと解析のしようがあるのに!
なんでネット上に『作ってみた』どころか、プロのメイキング動画すら上がってないんですか!?
情報を共有して発展させる!それが現代の鉄則じゃないんですか!?」
一ノ瀬の悲鳴に近い叫び。その「当然の疑問」に、燈弥は顔を上げると、自嘲気味に、しかしどこか冷めた目で答えた。
「国は、本気でこの文化を葬り去る気だからな」
「え・・・?」
「データだけじゃない。人も、技術もだ。
一ノ瀬、あの日から花火が消えたのは、単なる自粛じゃないんだぞ」
燈弥は、図書館で調べ上げた重い事実を、一言ずつ噛み締めるように語り始めた。
「『空の涙事件』をきっかけにして、国は『安全基準の徹底』という大義名分を振りかざした。大規模な工房に次々と狙い撃ちの立ち入り検査を入れ、少しでも設備に不備があれば即、営業停止命令。
弟子を何人も抱え、新しい技術を研究する体力があった大きな工房は、そうやって真っ先に息の根を止められたんだ」
一ノ瀬は、息を呑んだ。
「残されたのは、岩田の親父さんみたいな、国から見れば『どうせ黙っていても寿命で潰れる』と高を括られている小さな工房だけだ。映像記録だって、『テロへの転用防止』や『製造方法の秘匿』なんて適当な理由をつけて、公式アーカイブから一斉に削除された。
新しい研究データも、論文も・・・検索に引っかかるのは、魔法がいかに優れているかという比較記事ばかり。
花火っていう文化はな、一ノ瀬。今、この瞬間も、誰にも気づかれないように静かに歴史から消去されているんだ」
技術的な壁よりも、もっと冷たく、もっと重い絶望。
それは、自分たちが挑もうとしている「光」そのものが、この世界から既に「なかったこと」にされかけているという事実だった。
「じゃあ、今私たちって」
――自分たちは、既に終わった世界で、負け戦をしているのではないか。
重苦しい静寂が工房を支配した、その時だった。
「・・・すいません」
工房の入り口から、鈴の鳴るような、か細い声がした。
はっとして二人が振り返ると、そこに、あの黒いワンピースの少女。
桜井ひかりが、少しだけよそゆきの、綺麗なリボンをつけて立っていた。
その小さな手には、クレヨンで描かれた、手作りのチケットのようなものが、大切そうに握られている。
「ひかり、ちゃんだっけ・・・どうしたんだ、そんな格好して」
燈弥の問いに、ひかりは、期待と不安が入り混じった、不思議な表情で工房の中を見回した。そして、何も準備ができていない工房の様子を見て、その瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「・・・今日」
彼女の、震える声が、張り詰めた工房の空気を、静かに震わせる。
「今日、『ひかりちゃんだけのための、世界で一番すごい花火大会』の日だって・・・聡さんが、このチケットくれた時に、約束してくれたんですけど・・・」
その言葉に、燈弥も一ノ瀬も、息をのんだ。
燈弥は壁のカレンダーを仰ぎ見る。今日は、九月の最初の土曜日。そこには、小さく「ひかりちゃん」とだけ書かれていた。
「えっと・・・」
一ノ瀬が、なんとかその場を繕おうと掠れた声を絞り出す。
彼女の視線は、工房の隅に積み上げられた失敗作の山――火薬の残骸に向けられていた。
子供の瞳は、残酷なほどに真実を射抜く。今夜、この場所から光が生まれることはないのだと、彼女は一瞬で悟ってしまった。
「・・・なんてね!そうですよね。やっぱり、もう、見れないですよね。だって聡さんはもう・・・」
ひかりの掠れた声が、作業台にぶつかって静かに消えた。
一ノ瀬が「あのね、ひかりちゃん」と、なんとか場を繕おうと手を伸ばしかける。
「ごめんなさい・・・。変なこと言って。・・・お邪魔しました」
ひかりは無理に作ったような小さな笑みを浮かべ、握りしめていたチケットを胸元に隠すようにして、ゆっくりと背を向けた。
(――親父、逝くのが早すぎるんだよ)
燈弥は心の内で親父に罵声を浴びせた。
教えることも、謝らせることも、ノートすら何一つさせてくれないまま死にやがって。そして遺したのは、俺の手には負えないほど重い約束だけ。
(・・・いや、一番悔しかったのはアンタだろうな)
心臓の奥が、焼けるように熱い。
この子との約束を破ることになってしまったこと。それを抱えたまま逝かなければならなかったこと。どれほど、心残りだっただろうか。どれほどの後悔を抱えて、あの人は目を閉じたんだろうか。
(それに、このまま彼女を放置しろってのか?)
燈弥の中で、眠っていた「何か」が、猛烈な咆哮を上げた。
それは、数万人の笑顔を、一秒の狂いもなく思い通りに作り出してきた、エンターテインメントのプロとしての圧倒的な自負だ。完璧な光を操り、世界中を魅了してきた自分。そのプライドが、目の前のたった一人の少女を泣かせて帰そうとしている現状を、断じて許さなかった。
彼女を笑顔にできなくて何がプロだ。何がクリエイターだ。
親父への思いと、クリエイターとしての剥き出しの飢餓感が、燈弥の理性を焼き切った。
「待ってくれ、ひかりちゃん」
燈弥は衝動的に、彼女の前に膝をついた。
「ごめんっ! 親父との約束、今日、守れなかった。俺が、不甲斐ないせいだ」
彼は深々と頭を下げた。そして、顔を上げると、涙を浮かべた少女の瞳をまっすぐに見つめ返した。そこには、もう迷いも焦りもなかった。
「だから、約束させてくれ。四ヶ月。四ヶ月だけ、時間をくれないか」
隣で一ノ瀬が「せ、先輩!?」と悲鳴を上げるが、燈弥は止まらない。
「次の大晦日。その日に。必ず、親父が見せたかった花火を、君のために打ち上げてみせる。・・・だから、それまで待っていてくれないか」
「本当?」
「あぁ。もちろん本当だ」
根拠など何もない。技術も、確信もない。
けれど、燈弥は、ひかりの手からクレヨンで描かれたチケットをそっと受け取った。
「これは、俺が預かっておく。必ず、最高の『特等席』に換えてみせるから」
「・・・わかった。楽しみにしてるね」
ひかりはそう言って笑った。
もう、後戻りはできない。
四ヶ月。たった、四ヶ月。
その絶望的な時間の中で、奇跡を起こすしかない。
燈弥は、ひかりの手から、クレヨンで描かれたチケットを、そっと受け取った。
それは、彼にとって、何よりも重い、未来への約束手形だった。




