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3-1 前途多難

 三国の冬を孕んだ重い海風が、建物の隙間を抜けてヒュウと鳴る。

 二人が辿り着いたのは、首都の喧騒とは無縁の、潮風がアスファルトの匂いを運んでくるような場所に建つ煤けた木造の平屋――燈弥の父が遺した工房だった。


「―――ここが、私たちの新しい『開発ラボ』ですね!」


 一ノ瀬栞は、その煤けた空間に臆することなく、弾けるような笑顔で土間に足を踏み入れた。

 最新鋭のデバイスを詰め込んだ重いバックパックを、火薬の粉が染み付いた作業台にドサリと置く。その振動で、埃が白く舞い上がった。


「ラボ、か。お前の目にはそう見えるのか」


 燈弥は自嘲気味に呟きながら、ゆっくりと中へ進んだ。

 足裏に伝わる土間の冷たさが、かつての記憶を呼び覚ます。彼は入り口近くの太い大黒柱に歩み寄り、そこに刻まれた無数の傷跡を指先でなぞった。


「・・・何ですか、その柱。経年劣化の記録?」

「いや。親父が俺の背を測った跡だ。これが中3の頃の俺で、これが親父のだ」


 燈弥の静かな声に、一ノ瀬はキョトンとした顔で、手近な木箱を指先で検分しながら答えた。


「へぇ!なんかノスタルジックですね!てか中3の頃の先輩って私よりも小さいじゃないですか!それから先輩大きくなりましたね・・・物理的にも、社会的にも」

「社会的地位なら、昨日二人でゴミ箱に捨ててきただろ」

「あ、そうでした。今は二人して無職の不法侵入者同然ですね」


 一ノ瀬はケラケラと笑いながら、バックパックからノートPCを取り出した。


「それにしても、すごいですね。ここにあるもの全部、アナログ。時計までゼンマイ式じゃないですか。魔法同期用のサーバーどころか、Wi-Fiの電波さえ死んでますよ」

「だから言ったろ。ここは『ラボ』じゃない。ただの古い工場だ。・・・さて、一ノ瀬。何から始める? まずは環境構築、掃除からしたいんだが・・・」

「いえ、先輩。環境よりも先に『情報』です」


 一ノ瀬はパン、と乾いた手拍子を打った。

 彼女は手際よくPCを開き、電源を立ち上げる。


「まずは、このプロジェクトを定義しましょう。私たちの資産と、目指すべきゴール。それを明確にしないと、エンジニアは動けませんから」


 煤けた工房の暗がりに、青白い液晶の光が唐突に割り込んだ。それは、この古い場所に無理やり未来を突きつけるような、異質な輝きだった。


「では、第一回・戦略会議を始めます! 星野クリエイティブディレクター!

 まずはプロジェクトの核となる『新型花火』の共有をお願いします!リバースエンジニアリングの足掛かりとして、先日目撃したという試作品の映像データ、もしくは分光スペクトルデータ・・・まあ、ログなら何でもいいです。それがないと、解析もシミュレーションも始まりませんから」


 テキパキと尋ねる一ノ瀬。だが、燈弥は作業台に置かれた父の古いノミを手に取ったまま、視線を上げずに答えた。


「いや、撮ってない」

「・・・・・・はい?」


 一ノ瀬のタイピングが止まる。その完璧な笑顔が、ぴしり、と固まった。


「撮ってない。あの光に圧倒されて、スマホを出すなんて発想、これっぽっちも湧かなかったんだ」

「・・・・・・・・・はぁ?」


 一ノ瀬は、ゆっくりと、儀式のような丁寧さでノートPCを閉じた。それから満面の笑みのまま、しかしこめかみをピクピクと震わせながら燈弥にじりじりと詰め寄る。


「・・・なんですか、それ。なんですか、それ!! 先輩は、この現代社会において! 再現不能な奇跡を目撃しておきながら! その一次記録すら確保しなかったと!?

 科学を志す者の基礎がなってません! というか、クリエイターなら、最高の演出を前にして手が動くのが普通じゃないんですか!」

「落ち着け、一ノ瀬。無理なんだよ。あの光を前にして、レンズ越しに世界を見るなんて、それはもう『冒涜』に近い感覚だったんだ」

「そのポエムみたいな言い訳、エンジニアにとっては『データ破損』と同じ意味なんですよ!

 じゃあ、何があるんですか! 頼みの綱は、先輩のその曖昧模糊とした、感傷的な『記憶』だけなんですか!?」

「まぁ。そうなるな」


 一ノ瀬はわなわなと震えながら、天を仰いだ。だが、流石は元エース。数秒で無理やり気を取り直すと、再び営業スマイルを張り直した。


「・・・分かりました。映像がないのは、もう、一億歩譲って仕方ありません。

 では、プランBです。これまでの先輩のご経験から、構造を推定していきましょう。先輩は、お父様の工房で英才教育を受けてこられたんですよね? 火薬の配合比率は?」

「・・・知らない」

「・・・・・・・・・はい?」

「いや、だから、知らない。見てただけだ。掃除とか、手伝いくらいはしたけど」

「・・・え、じゃあ。貝殻の成形は? どのくらいの厚みで、どの程度の強度が必要か・・・」

「やってない」

「・・・星の乾燥は? 湿度の管理ログとか・・・」

「取ってない」

「・・・・・・まさか、導火線の取り回しくらいは・・・」


 燈弥はノミを置いて、ようやく彼女を真っ直ぐに見た。


「一ノ瀬、いいか。親父は絶対に俺に火薬を触らせてくれなかったんだ。『火薬は生き物だ。半人前が触れば、光る前に死ぬだけだ』・・・ってな。俺が調合台に近づこうとすると、いつも竹箒で追い払われたよ。

 つまり、技術に関しては俺もお前と同じ、素人だ」


 一ノ瀬の笑顔が、今度こそ完全に死んだ。


 彼女は、まるでこの世の終わりのような絶望を顔に張り付かせ、その場にへなへなと座り込んだ。最新鋭のPCも、彼女の頭脳も、入力する「ゼロ」という数値の前では無力だった。


「終わった・・・。映像データなし、実務経験ゼロ。あるのは無職の男一人の、曖昧なポエムだけ・・・私、何のためにあの高額年収と福利厚生をドブに捨ててきたんでしたっけ?」


 膝から崩れ落ち、埃っぽい土間に指で「絶望」の二文字を書き込みそうな勢いでぶつぶつと呪文を呟く一ノ瀬。

 そんな彼女の頭頂部を、燈弥は「なぜこの子はこんなところで床の強度を確かめているんだろう」と言わんばかりの、至極きょとんとした顔で見下ろした。


「一ノ瀬。何を今更、悲劇のヒロインを気取ってるんだ? 埃が舞うから立ってくれ」

「気取ってません! 被害届を出したいだけです! こんなの無謀とかチャレンジャーとかいう次元じゃないですよ、ただの無策です! どうして会社を辞める前に、一言『僕は火薬すら触ったことがありません』と注釈を入れてくれなかったんですか!」


 涙目で食ってかかる一ノ瀬。鼻先に埃がついているのも気づかないほどの必死さだった。しかし、燈弥はまるで行き過ぎたクレーマーを諭す敏腕コンサルタントのような、非情なまでの正論をスッと言い放った。


「はあ? そもそもだ、一ノ瀬。お前が勝手に辞めてついてきたんだろう。俺はあの時、確かに『会社に残れ』と止めたはずだぞ」

「なっ・・・・・・!? それは、あれは、先輩が寂しそうにしてたから、美学的に・・・!」

「美学で食っていけるなら、今頃俺たちは港にプライベートビーチでも所有してる。

 いいか一ノ瀬。何も確認せずに、勢いとノリだけで一流企業のキャリアを投げ捨てるやつが悪いんだ。トップエンジニアなら、いや義務教育を終えた社会人だったらだ。ジョインする相手の資産状況や技術的バックボーンくらい、事前に調査しておくのが常識だろ。なんで俺がお前の人生のコンサルまでしなきゃいけないんだよ」


 一ノ瀬は、ぱくぱくと口を開閉させ、反論の言葉を探したが、何も出てこない。


「そ、そんな・・・。あんまりです、ブラック企業の極みです・・・。訴えてやる・・・どこに言えばいいのか分からないけど・・・」

「まあ、なんだ。よろしくな、一ノ瀬。最初の仕事は、そこの床の掃き掃除からだ」


 そう言うと、燈弥は、まるで十年前に戻ったかのように、楽しげに工房の道具の手入れを始めた。

 残されたのは、自分の選択が、あまりにも早計で、無謀だったと、頭を抱える天才エンジニアの姿だけだった。

 二人の、そしてチームの、前途多難すぎる船出である。

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