2-5 決別
「それで、私たちはなんでこんなところに来ているんですか?」
一ノ瀬は、怪訝そうに周囲を一瞥した。
首都を出た二人が降り立ったのは、首都と燈弥の故郷のちょうど中間地点にあたる、地方の中枢都市だった。再開発の波から取り残されたような、どこか煤けた空気が漂っている。
燈弥は、彼女の疑問に答える代わりに、指をさした。
「一ノ瀬、あのビルが何か分かるか?」
指さした先には、コンクリートの肌が剥き出しになった雑居ビルがそびえ立っていた。昭和の熱量をそのまま閉じ込めたような風貌のその壁面には、剥げかけたフォントで幾つかの聞き慣れない社名が並んでいる。
「何って・・・ただのオフィスビルじゃないんですか?」
「ああ。今はな」
「今はって・・・」
その含みのある言い方に、栞は一瞬、思考を巡らせる。やがて、彼女の目が驚きに大きく見開かれた。
「私聞いたことあります。ウチの会社・・・いえ、ソーサリー・ライツって旧オフィスがあったって。まさかここが?」
一ノ瀬の答えに燈弥は、満足げに頷いた。
「ああ。俺たちはこのビルの三階、わずか十坪の一角を借りて始まったんだ。・・・ほんの七年前の話だ。この時代をを知っている奴はもう片手で数えるほどしかいないだろうな」
そう言う燈弥の姿は懐かしんでいるように見えた。そして自らを奮い立たせようとしているようにも見えた。
「でも今回ここ来た目的地は元建屋じゃない。今回の目的地は・・・ここだ」
「居酒屋ですか?」
燈弥が訪れたかった場所。それは、都市開発の波から取り残されたような古い木造建築の居酒屋だった。軒先には、脂の匂いを吸い込んだ赤い提灯がいくつも吊るされ、湿った夜風に揺れている。
「あぁ。ここは俺たちの『溜まり場』だったんだ」
提灯の赤い光が、燈弥の瞳に小さな火を灯したように見えた。
「・・・溜まり場ですか?」
「ああ。事あるごとにここに逃げ込んでは、朝まで『戦って』いたんだよ。同期率がコンマ数パーセント上がっただけで、あそこのカウンターで泣きながら祝杯を挙げて。逆に行き詰まれば、泥水みたいな安酒を煽りながら理想論をぶつけ合った。で、結局ベロベロの頭で新しい回路のアイデアをひねり出すんだ。
まあ、今ならコンプラ違反で即アウトだろうけどな」
燈弥の視線は、脂で曇った居酒屋のガラス戸に吸い寄せられていた。
「あそこは、俺たちの『魂』が最も熱く叩き上げられた場所なんだ。
本社を移しても行き詰まったら玲司と何度か来ていたんだけどな。もう2年くらい来ていなかったな」
「そうですか・・・」
2人の沈黙が広がる。そして一ノ瀬は口を開いた。
「ここは、先輩にとって、ここは『始まり』そして『再出発』の場所なんですね」
その言葉に目を丸くする燈弥。そしてゆっくりと頷いた。
「『始まり』『再出発』の場所・・・。そうだな。確かにそうだな」
燈弥は自嘲気味に笑い、自分の指先を見つめた。かつてここで、玲司と二人でキーボードを叩き潰す勢いでコードを書き、同期率のコンマ数桁に一喜一憂していた指だ。
その時だった。居酒屋の引き戸がガラリと開き、白髪混じりの店主が顔を出した。
「おや・・・星野くんじゃないか。久しぶりだね」
「ご無沙汰してます、大将」
店主は提灯の下に立つ燈弥の姿を認めると、驚いたように目を細めた。そして、少しだけ声を潜めて言った。
「惜しかったね。 結城くんも、ついさっきふらっと一人で来て、あんたがいつも座ってた席をぼんやり眺めて帰ったよ。二人とも、ずいぶんと出世したってニュースで見たけど、相変わらず忙しいんだねえ」
その言葉に、燈弥の心臓が微かに跳ねた。
(――あいつも、来ていたのか)
彼もまた、迷っているのだろうか。探しているんだろうか。あの完璧な論理の鎧の裏側で。
「・・・また、飲みに来ますよ。いつか、必ず」
「そうか、そうか。ゆっくりしていきな。今日はいいスジが入ってるよ」
使い込まれた木製カウンターの端。かつて玲司と座った定位置に、今は一ノ瀬が座っている。
燈弥は深く息を吐き出した。
「一ノ瀬」
「はい」
「俺はあいつに・・・玲司に、もう一度だけ教えなきゃならない。ロジックだけじゃ辿り着けない場所が、まだこの世界にはあるんだってことを」
提灯の赤い光が、曇りガラス越しに二人を照らしている。
これから向かうのは、成功の保証などどこにもない、火薬と泥にまみれた故郷の工房だ。
「乾杯しましょう、先輩。私たちの、とんでもなく不自由で自由な未来に」
栞が差し出したグラスに、燈弥は自分のグラスを軽く当てた。
カチン、という乾いた音が、静かな宣戦布告のように夜の路地に響いた。




