おまけ 『SM二元論の主張』パロディ(後編)
『SM二元論の主張』http://ncode.syosetu.com/n5746j/(作者:りきてっくすさん)のパロディです。
「SMプレイ中にハッスルしすぎて窒息死、成仏できずに下界をさまよう若い女性の幽霊」という設定をお借りしました。
「ただいま戻りました」
「ちょっと淑子さん! 今何時だと思ってるの」
暗澹たる気持ちで玄関の扉を開けると、上りがまちに仁王立ちの姑が待ち構えていた。正式名称不明の緩いパンチパーマは、怒りのためか、通常の一,五倍に膨脹している。
「あなたねぇ、長ネギひとつ買うのにどれだけ時間かければ気がすむの。こんなことなら犬猫にでも頼んだほうが早いんじゃない? まったく愚図なんだから」
腕組みをして機関銃のようにまくしたてる姑の憤怒の形相に、
(んんー、いいっ! 絵に描いたような鬼姑っぷりじゃないの。あたし俄然やる気が湧いてきちゃったわん)
女がきゃっきゃとはしゃぐ。
憑依した女の声は頭蓋骨内にこだまし、そのあまりの異物感に、淑子は思わず髪をかきむしりそうになった。脳の表皮が細かく振動しているような、無数の羽アリが這い回っているような、これまでの人生で経験したことのない感覚に生理的嫌悪をもよおす。
「ひょっとしてあなた、わたし一人に夕飯の支度をさせて自分だけ楽しようって魂胆じゃないでしょうねぇ」
姑は教育ママふうの三角眼鏡をくいっと押し上げると、薄紫色のレンズ越しに訝しげな視線を投げた。
「すみません。買い物の途中で具合が悪くなってしまって、しばらく近くの公園で休んでいたんです」
「はあぁ、情けない。そんなことだからいつまでたっても子供ができないのよ。あなたどこか悪いんじゃない? 一度、病院で診てもらいなさいよ」
大仰に溜め息をつくと、姑は踵を返し、あえて聞こえるか聞こえないかの音量で、
「まったく、紳一郎もどうしてこんな欠陥女なんて嫁に貰ったのかしらね」
と、吐き捨てた。淑子はその後ろ姿をねめつけ、歯茎から血が噴き出しそうなくらいぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
現在では不妊の原因は男女同数程度と知られているが、それでもやはり姑という人種はその原因を嫁に押し付けたがるものだ。決して、自分の息子が不能だとは疑わない。また夫も同様で、自分は健康体で問題は妻の側にあると思っているから、原因の特定がなされず、結果、妻ばかりが辛酸を嘗めることになるのだ。
淑子の場合も、もう長いことセックスレスなので妊娠のしようがないのだが、姑は淑子を石女と非難する。それどころか、それを周囲に愚痴るのだから堪らない。けれど夫婦生活を姑や他人に把握されるのも気持ちが悪いので、なにを言われてもただ黙って、現状に甘んじるしかなかった。
(ああんっ、屈辱的だわ。欠陥女だなんて普通、思ってもなかなか口に出せないわよね。そんなこと言ったら神経疑われちゃうものね。あんたの姑、ただ者じゃないわね)
女が鼻息荒く言う。恍惚の表情で腰をくねらせている様が目に浮かぶようだ。女は、意気消沈する淑子のことなどどこ吹く風で、
(ねえ、どう? 興奮しない? エクスタシー感じちゃったりしない?)
(いえ、まったく。今のやりとりのどこにどう興奮すればいいのか皆目見当もつきません)
(んもうっ、あんたってば不感症? っていうか、そんなふうにはなから否定してかかったら感じるものも感じられなくなるわよ。さあ、心を開いて。オープンユアハート! 自分の身体に正直になりなさい。ほぉら、子宮の辺りがぎゅーうっと締め付けられて、体の芯から熱いものが込み上げてこない?)
言われるがまま、淑子は腹部に神経を集中させた。
(……ああ、確かに。はらわたが煮えくり返って熱いものが込み上げてきました)
「ちょっと淑子さん! なにぼさっとしてるの、早くいらっしゃい! まだ夕飯の支度すんでないのよ」
廊下の曲がり角で姑が怒鳴る。淑子は慌てて姑の後を追った。
しかし、仏間にさしかかったところで淑子の足が止まった。正確には、淑子に取り付いた女がその足を止めさせた。膝はおろか指の関節すら曲げることができない。それはまるで腰から下をギプスで固められてしまったようで、思いどおりにならない焦燥感と麻痺による不安、恐怖。ぶわっと全身に鳥肌が立ち、血の気が引いた。
自分の下半身が自分の意思で動かせなくなってはじめて、淑子は事の重大さを理解した。そもそも女には、出会ったばかりの淑子のために親身になって動く義理などない。立派なドMに開発してあげる、などと突拍子もないことを言っていたが、実はこうしてこちらを油断させておいて、身体を乗っ取ることが目的だったのだ。少し考えればわかりそうなものなのに、なぜあの時、自分は死に物狂いで抵抗しなかったのだろう。
きっとこれから身の毛もよだつ恐怖を味わうことになるにちがいない。仏間の前で立ち止まったということは、先祖の霊でも呼び出そうとしているのだろうか。舅は淑子が嫁ぐ前に他界していて面識はないが、この姑と一緒になったくらいだから姑を上回る根性悪か、逆に尻に敷かれて羊のようにおとなしいか。いずれにせよ最悪の結末しか想像がつかない。
「ひっ」
今度は勝手に、淑子の手が障子に向かって伸びた。やっぱりそうだ、仲間を呼ぶつもりだ。淑子は心の中で必死に、うろ覚えの念仏を唱えた。
「申し訳ありません、お義母さま!」
だが予想に反して、淑子の口が、淑子の声で、淑子の意思ではない言葉を発した。突然呼び止められて、姑は何事かと振り返る。淑子もまた、女の真意を測りかねて戸惑っていた。
つうっ、と人差し指が障子の桟を撫でたかと思うと、おもむろにその指の腹を姑の方へと向けた。
「こんなにホコリが……。あたくしったら掃除も満足にできないグズでダメな嫁ですわ。どうぞお義母さま、あたくしのことをうんときつくお叱りになって。あぁ、ぶってくださっても結構よ!」
(なっ、なに言いだすんですかあなた!)
淑子は狼狽した。姑が目玉を剥いて口をわななかせるのが見えた。
(仏間の掃除は姑の日課なんですよ。それをそんなふうに言ったら、まるで私が喧嘩を売ってるみたいじゃないですか)
(あらやだ、そうなの? せっかくいびられるチャンスだと思ったのに。っていうか、あんた達なに仲良く家事分担なんかしてんのよ。口は出しても手は出さない、嫁が掃除するそばからゴミを落として歩く、ってのが鬼姑の正しい姿ってもんでしょうが)
女は悪びれる様子もなく、さらりと言い放った。
(なに言ってるんですか。そんな非効率的なことをしていたらいつまでたっても掃除が終わらないじゃないですか)
(あんたこそなに言ってんのよ。そもそも嫁いびりなんてもの自体、非生産的な行為なんだから効率なんて関係ないでしょう)
鼻で笑って女は、淑子の指先の埃をふうっと吹き飛ばした。
姑がまなじりを吊り上げ、えらい剣幕でがなりたてながら引き返して来る。ドスンドスン、と重量級の地響きが猛然と近付く。
「淑子さん! あなた、わたしの掃除にケチつけるつもり? 嫁の分際で生意気な口きくんじゃないわ……ぶっ」
バシンッ、と大きな音がして、掴みかからんばかりの勢いで向かって来た姑の顔面がぐりんと左に弾かれた。淑子の手が、買い物袋から長ネギを抜き出し、姑の横っ面を殴打したのだ。
もちろん淑子の意思ではない。淑子の肉体はもはや完全に女の傀儡と成り果てていた。意識ははっきりとしているのに、まったくもって身体の制御が利かない。脳と身体の神経が分断され、このまま自分は精神と肉体の狭間に放り出されてしまうのではないかという底知れぬ恐怖に襲われた。
「ああらぁいやだわ、お義母さま。ハタキをかけようとしたら急に目の前に飛び出して来るんですもの。危なくってよ」
おほほ、と笑って女は、長ネギの葉先でぱたぱたと桟の埃を払って見せた。
姑は二、三歩後ろによろめくと、焦点の定まらない目を見開いて、酸欠の鯉のように口をぱくぱくとさせていた。衝撃でずり落ちて斜めになった眼鏡のつるに千切れたネギの葉が引っ掛かっている。
辺り一面にネギの刺激臭が充満し、障子や掃き出し窓には飛び散ったネギの残骸がへばり付いていた。窓ガラスに飛んだネギのぬめぬめ部分が、ナメクジが這った跡のような粘液の筋を残しながら、ずるずると滑り落ちてゆく。狭い廊下は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「……あ、あ、あ、あなた、なんてことするの! 旦那にもぶたれたことなかったのに」
しばらくして、姑が、真っ赤になった頬を両手で押さえてヒステリックに叫んだ。嫁の豹変にそうとう動揺しているらしく、気の毒なくらい声が裏返っていた。
「あらよかったじゃない、人生何事も経験っていうでしょう。その歳になって初体験できるなんて幸せなことよ。おめでとう、今日がわたしのビンタ記念日。なーんちゃって」
「よ、よ、淑子さん? あなた……どうしちゃったの?」
げらげらと哄笑する淑子を、姑は化け物を見るような目で見た。潤んだ瞳にはありありと恐怖の色が浮かんでいる。
「さてと、掃除もすんだことだし、夕食の支度をしましょうか。ねえ、お義母さま」
女は躁気味に大声を出して、家畜を追い立てるように姑の二の腕や尻をネギでバシバシと叩いた。姑はひぃぃ、と喉を鳴らし、転がるように台所へと逃げる。女は牧童さながらネギを振り振り、その後を悠然とついて行く。
淑子は卒倒しそうになった。こんなことならいっそ意識ごと乗っ取られていたほうがましだった……。
「なによこれ、鍋じゃないの」
ガスコンロにかけられた土鍋の蓋を開け、女が不満げな声をもらした。
「はい、キムチ鍋です。暑いときには熱いものを食べたほうがいいってテレビでやっていたので……」
台所へ到着するころには、姑はすっかり畏縮して、淑子の顔色を窺うようになっていた。淑子が少し手を動かすだけで、びくっと肩を震わせるほどの怯えようだ。これまで散々、淑子をいびり続けてきた姑の無様な姿を目にして、淑子は複雑な心境になった。
「あんた、あたしのことバカにしてんの? そんなの見りゃわかるわよ」
「す、すみません」
姑が首をすくめる。
「まったくなっちゃいないわねぇ、なんでよりによって鍋なのよ。鍋っていったらあれでしょ、一家団欒の象徴みたいなもんでしょう。肉ばっかり食べてないでちゃんと野菜も食べなさい、とかなんとか言いながら和気あいあいと食べるもんでしょう。嫁姑問題が勃発してる家庭の食卓ってものはねぇ、もっと殺伐としてなくちゃダメ!」
女は怒声を上げ、スパルタ教師よろしくネギでテーブルを連打した。酷使されたネギはやがて、見るも無残な有様になった。女はそれを鍋に突っ込むと、代わりに、まな板の上に転がっていた菜箸を手に取った。
ペシペシと左手の掌に当てて、そのしなり具合や使い心地を確かめながら、
「いい? 嫁のおかずだけ量が半分だったり、一品少なかったり、ぱっと見て虐げられてる感が漂ってなきゃダメなのよ。そうそう、愛憎料理も忘れちゃなんないわね。たわしをコロッケに見立てたり、牛革の財布をステーキに見立てたり、そういう独創的な料理も並んでなきゃ」
菜箸を振り回して熱弁をふるう淑子を前に、姑はどう反応してよいのかわからない様子で、はあ、と気の抜けた返事をした。途端、女は姑の脇腹に菜箸を突き立て、ぐりぐりとえぐった。
「……ったく、あんたってば察しの悪い女ねぇ。この話の流れであんたがやるべきことは一つしかないでしょう」
「え?」
「三秒以内に用意しなさい。できなかったら百叩きの刑!」
姑は顔面蒼白になって流しの下を漁ると、買い置きのたわしを探し出し、大慌てで皿に盛ってテーブルに載せた。
「んもぅ、やればできるじゃない」
女が褒めると、姑は安堵の表情を浮かべた。だがそれも束の間、女は菜箸を振りかぶると、
「でも遅いのよ、このグズ! 三秒以内って言ったでしょう!」
罵倒しながら姑の腕やら背中を容赦なく叩いたのだった。
結局、女が当初の目的を忘れて姑いびりを満喫していただけだと気付いたのは、夫が帰宅する直前、女が淑子の身体から出て行った後だった。
「話は母さんから聞いたよ」
脱いだ背広をハンガーに掛けながら夫が言う。クローゼットの方を向いているので、ベッドの端に腰掛けた淑子の位置からではその表情を窺うことはできない。だが、低く抑えた声音は怒気を孕んでいるように聞こえた。
「そうですか」
「凄かったらしいね」
あの姑のことだ、きっといつものようにあることないこと大袈裟に吹き込んだにちがいない。もっとも今回ばかりは、誇張してもお釣りがくるくらい酷い事態だったので弁明のしようもないのだが。
「すみませんでした」
一言謝罪して、淑子は俯いた。女の幽霊に身体を乗っ取られていた、と正直に話しても、気が触れたと思われるのがおちだ。
「いや、俺のほうこそすまなかった。君がそこまで思い詰めていたのに気付いてやれなくて」
「……あなた?」
淑子は驚愕のあまり、夫の背中を食い入るように見つめた。この男は本当に自分の夫なのだろうか。いつもなら煩わしそうに生返事をするか、不機嫌になって冷ややかな言葉を浴びせるかするのに。ひょっとして、夫もどこぞの幽霊に憑依されているのではないだろうか。
離婚を覚悟していたところに想定外の言葉をかけられ、淑子は疑心暗鬼になった。
「でも君も、我慢してないで言ってくれたらよかったのに。俺たち夫婦だろ」
振り返った夫は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。その笑顔を目にした瞬間、淑子の中に芽生えた疑念は雲散霧消した。
「ええ、そうね。あなたの言うとおりだわ。私たち夫婦なんですもの、自分ひとりで抱え込まずにきちんと相談するべきだったんだわ」
夫の言葉を噛み締めるように、淑子は何度も頷いた。感極まって涙があふれる。ぽろぽろとこぼれ落ちる大粒の涙とともに、脳裏に渦巻くどす黒いものや、胸中に澱のように溜まったどろどろしたものや、そういう鬱屈したものの一切合切が洗い流されてゆくような気がした。
夫の手が伸びてきて、淑子の頬を伝う涙を優しく拭う。久しぶりに触れた夫の温もりに淑子はときめいた。初めて求められた夜のことを想い出して胸が高鳴った。肌と肌との接点から熱が波紋を描いて広がり、全身が火照る。
「俺は君のことを見誤っていたんだな。君は性に関して消極的で、とてもじゃないがアブノーマルな行為を受容できるとは思わなかった。だから俺も自分の性癖を打ち明けることができなかったし、打ち明けようとも思わなかった」
「え?」
「こんなことなら、最初から正直に告白しておけばよかったよ。この八年損したな。ははっ。――まあ、今までの分もこれから楽しめばいいか」
言って夫は、にたぁ、と好色な笑みを浮かべ、スラックスから革のベルトを抜き取って淑子の手に握らせた。
「スパンキングしてくれよ、なあ、淑子」
淑子は自分の手の中のベルトを、呆然と見つめた。




