32.アルカディアからの逃走
そこは、魂の中。
色も音も匂いもない、ただ広がる虚無の空間だった。
「…ここは?」
「ここは其方の精神空間だ。」
声のする方を見る。
そこには、サーナトスがいた。
ティシアはすぐに姿勢を正す。
「サーナトス様。なぜ私はここに?」
「其方が、我の力の破片を取り戻したからだ。」
ティシアは、先ほど神翼の羽が自分の身体へ吸い込まれたことを思い出す。
「すみません私、今逃げている途中なんです。早く戻らないと。」
「安心しろ。この中では、時間の流れは遅い。」
サーナトスは淡々と答える。
「我が其方の感覚を強化しているからな。」
ティシアは少し考える。
「では、いくつか質問してもいいですか?」
「申せ。ただし、あまり時間はないぞ。」
「サーナトス様の力の破片は、羽の形をしていました。」
ティシアは先ほどの三つの羽を思い出す。
「他の破片も、同じような形をしているのですか?」
「我の力の破片は、基本的に羽状だ。」
「では、どこにあるのかも分かりますか?」
サーナトスは少しだけ黙る。
「我の力の大元である心臓は――アルジャが持っているであろう。」
ティシアの表情が変わる。
「アルジャが……サーナトス様の心臓を?」
「ああ。」
サーナトスは静かに答えた。
「それこそが、我の力を取り戻す上で最も重要なものだ。」
サーナトスは続ける。
「ただ、それ以外の破片がどこにあるのかまでは分からん。」
「そうですか……。」
ティシアは少し考える。
「だが、我の力は強大だ。」
サーナトスの声が、精神空間に響く。
「ゆえに、何者かが破片を見つけ、どこかの国で保管している可能性もある。」
「我の力を利用しようとする者がいても、おかしくはない。」
ティシアは黙り込む。
もし本当にそうなら、まだ世界のどこかに存在している。
「……探してみます。」
ティシアはそう呟いた。
「我が目覚めたとき、力の破片も活発になり始めた。」
「その力を回収すれば、その分、其方の力も強化されるであろう。」
ティシアは、サーナトスが以前言っていたことを思い出す。
「サーナトス様は、この力を『呪い』とおっしゃいましたよね。」
ティシアは少し考えてから、言葉を続ける。
「それは、なぜですか?確かに、死ねないというのはとても苦しいことです。」
ティシアは自分の手を見る。
ゴブリンキングとの戦いを思い出す。
「何度死んでも、痛みだけは残る。……それが苦しいことも分かっています。」
それでも、ティシアは顔を上げる。
「でも、この力があったから助けられた命もあります。」
「だから僕は……この力を、ただの呪いだとは思えないんです。」
サーナトスは沈黙する。
しばらくして、静かに口を開いた。
「……其方にこの力を与えたとき、我の力はほとんど残っていなかった。」
ティシアは黙ってサーナトスを見る。
「それゆえ、力を与える代わりに代償を加えたのだ。」
「代償……?」
「ああ。それは───」
その瞬間。
空間に、ひびが入った。
「時間だな。」
サーナトスは静かに空を見上げる。
「これは、次に会ったときに話そう。」
「…………。」
ティシアは何も言えなかった。まだ聞きたいことはたくさんある。
だが、サーナトスの姿が少しずつ遠ざかっていく。
「我は、其方の旅路を見守っているぞ。」
その言葉を最後に、サーナトスの姿が消えた。
そして――。
ティシアの意識は、現実へと引き戻されていった。
────────
「ティシア! 神翼の羽が吸い込まれたのです。大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫。早く逃げよう。」
ティシアは立ち上がり、足を引きずりながら歩き出す。
(ダメージが……蓄積してる。)
心臓を貫かれた胸に手を当てる。
(心臓がないから……血液もまともに巡っていない。身体が重い。)
一歩進むだけでも、身体が鉛のように重く感じる。
それでもティシアは止まらない。
「ノア、行こう。」
「……はいです。」
ノアはティシアの身体を支えながら、歩き続ける。
やがて、二人は西門へたどり着いた。そこには、門番さんが立っていた。
「門番さん!」
ティシアが叫ぶ。
「門を開けてください。お願いします!」
門番さんは二人の姿を見る。
聖女の衣をまとったノア。
そして、胸を貫かれ、片腕を失ったティシア。
「……聖女様?」
門番さんの表情が変わる。
「時間があまりありません。早く。」
ノアが焦った声で言う。
門番さんは一瞬だけティシアを見る。
そして、自分の持っていた槍を首元に当てた。
「何してるんですか!?」
ティシアが驚く。
門番さんは首を少しだけ傷つけると、わざとらしく声を上げた。
「お前らに脅されたんじゃ、開けるしかないな!」
そう言って、門を開く。
「さあ、早く行け。」
ティシアとノアが門を抜けようとする。
その背中に、門番さんが声をかけた。
「次に来るときは、ちゃんとした聖印で来いよ。」
ティシアは振り返る。
門番さんは、いつものように何食わぬ顔をして立っていた。
────────
人気のない路地裏。
そこには、倒れたベータと、それを見下ろすヴァレンがいた。
ベータは傷だらけになりながらも、楽しそうに笑っている。
「あなた……想像以上に面白いわね。」
ヴァレンは何も言わず、ベータを見下ろす。
「身体強化に感覚増強。」
ベータは自分の身体を起こそうとしながら、笑みを浮かべる。
「魔法使いや戦士にとって基本的な魔法しか使っていないのに……」
「これほどまでに力の差があるなんてね。」
ベータは、まるで新しい玩具を見つけた子供のように笑った。
「それに……あんなものを持ってるなんてね。」
ベータはヴァレンの手へ視線を向ける。
「あれは何?」
「先ほどのものですか?」
「私が考案したものですよ。凄まじいでしょう?」
「……まだ未完成ですが。」
ベータは目を細める。
「未完成で、あれ?」
「ええ。」
ヴァレンは眼鏡を押し上げる。
「完成すれば、もう少し面白いものになるでしょうね。」
ベータは楽しそうにヴァレンを見つめる。
「あなた、かわいいわね。戦ってるときはあんなに淡々としているのに……」
ベータは口元を緩める。
「興味のあるものの話になると、子供みたいに喋るのね。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。」
ベータは笑う。
「でも――」
ベータは懐から小さな袋を取り出した。
「反撃の隙を与えちゃ、ダメでしょ?」
次の瞬間。
ベータはそれをヴァレンへ投げつけた。
ヴァレンは反射的に剣を振るう。
「――!」
刃が投げつけられたものを真っ二つに斬った。
パァァン────!
凄まじい量の砂煙が辺り一面に広がった。
「……なるほど。」
ヴァレンは落ち着いたまま剣を振るう。
巻き上がった砂が払い落とされ、少しずつ視界が開けていく。
しかし――。
そこに、ベータの姿はなかった。
「逃げましたか。」
ヴァレンは剣を鞘に収める。
「……なかなか面白い方ですね。」
ヴァレンは周囲を見渡す。
「さて、私はティシアさんの遺体を回収しますか。」
眼鏡を押し上げる。
「聖女さんが運んでいても、血の跡を辿ればすぐに分かるでしょう。」




