第六章:それぞれの距離
第六章
編入初日の授業が始まる。
進明高校の授業は、ヒロキがこれまで知っていたものとはまるで違っていた。
生徒全員に支給されたタブレットと、教室前方の電子黒板。
タブレットには教科書も資料も入っていて、授業中の板書までそのまま共有される。
何もかもが整いすぎていて、無駄がない。
授業内容自体はそこまで難しくない。
ただ、ひとつだけ問題があった。
タブレット操作に慣れていない。
指を滑らせる動きがわずかに遅れ、画面の切り替えにも一瞬迷う。
そんなぎこちなさに気づいたユジュが、隣からさりげなく画面を指し示して教えてくれた。
ヒロキは軽く会釈する。
ユジュも、それに小さく笑って返した。
その瞬間、教室のどこかから、鋭い視線がいくつも飛んでくる。
男子だ。
その意味はすぐに分かった。
嫉妬。
今まで、何度も向けられてきた感情だった。
ヒロキはそこで初めて理解する。
『こいつ、結構人気あるんだ』
隣で少しやり取りしただけでこれか、と内心うんざりする。
そしてさっきユナのクラスを聞いたのも、面倒の種になった気がしてきた。
ヒロキは小さく舌打ちして、低く吐き捨てる。
「……めんどくせえ」
その声は隣のユジュに聞こえた。
ユジュが心配そうにヒロキを見る。
だがヒロキは気づかず、だるそうに教室の前を眺めるだけだった。
そして三時間目の数学。
担当教師が電子黒板に問題を映し出す。
すると、教室の空気が一段と重くなった。
「じゃあ、この問題を誰か解いてくれ」
静まり返る教室。
誰も手を挙げない。
答えが分からないのに、前に出たい生徒などまずいない。
間違えればなおさらだ。
まだ四月のこの時期に、わざわざ悪目立ちする必要はない。
教師は教室を見渡した。
そこでぼんやりと前を眺めているヒロキへ目を留めた。
「えーと、そこの……」
名簿を確認する。
「パク・ヒロキ。この問題、解いてみなさい」
女子たちの間に、一瞬かわいそうという雰囲気が流れた。
今日来たばかりの編入生を当てるのか、という顔だ。
一方で男子たちは違った。
露骨に口にはしないが、恥をかけばいいと思っている顔がいくつもある。
ヒロキはそれを察しつつも、特に気に留めなかった。
「……はい」
電子黒板にヒロキのタブレット画面が映される。
問題を一度見ただけだった。
迷いのない手つきで解答を書き始める。
解き方を探っているのではない。
答えまでの道筋が、最初から見えているようだった。
教師が思わず声を漏らす。
「……正解だ。すごいな、やるじゃないか」
教室が小さくさざめきはじめる。
ユジュも小さく目を瞬かせた。
思っていたより、ずっとあっさり解いてしまったからだ。
三時間目が終わり短い休憩に入る。
ヒロキは席を立ち、教室の外へ出た。
その間、教室内ではさっきの出来事がすでに話題になっていた。
「さっきのすごかったね」
「あの見た目で頭いいってチートだろ」
少しして戻ってきたヒロキに、ユジュが隣からスマホ画面を見せる。
〈さっきの問題よくわかったね〉
「ああ」
短く返して、ヒロキは自分のタブレットに目を落とした。
そのそっけない返事に、ユジュは距離を感じ、表情を曇らせる。
だが、ヒロキは気づいていた。
また同じような男子の視線が向けられていることに。
そしてめんどくさそうにため息を吐いた。
午前の授業が終わり、昼休みに入る。
チャイムが鳴ると、教室内が騒がしくなる。
廊下にはすでに人が集まり始めていた。
噂の編入生を一目見ようと、他クラスの生徒だけではなく、上の学年の生徒までやってきている。
「やば~、超イケメン」
「話しかけてみよっかな」
「え、でもめんどくさがられないかな?」
教室の外ではそんな声が飛び交い、教室の中も落ち着かない様子だった。
ヒロキは無言で立ち上がり、教室を出た。
それだけで、周りの目が集まる。
ユジュは心配そうにその背中を見送った。
廊下を歩くだけで視線がついてくる。
同学年、上級生、男女も関係ない。
とにかく目立った。
ヒロキは煙草が吸えそうな場所を探す。
だが、そう簡単には見つからない。
屋上は当然のように閉鎖されており、校舎の外も、監視カメラが多すぎて吸える場所ではなかった。
あてもなく階段を下りていった先で、ヒロキはひとつの物置部屋を見つけた。
部屋の周りにはうっすら埃が溜まっている。
一目で人の出入りが少ない場所だとわかった。
ヒロキは扉に手をかけた。
鍵はかかっていない。
少しずつ開けると、古いワックスの匂いと、壁に埋め込まれた換気扇の回転音が漏れてくる。
それに混じって、かすかな煙草の匂いもした。
中に入ると、換気扇の下に煙草をくわえた男子生徒が立っていた。
二人の目が合う。
だが、どちらも言葉を発しない。
数秒、見つめ合う時間が流れる。
男子生徒はとにかく大きかった。
ヒロキよりかなり背が高く、体つきも分厚い。
二メートル近くあるのではないかと思うほどの巨体。
坊主頭に、強面、老け顔。
おまけに髭まで生えている。
一瞬、教師かと思ったが、制服を見て生徒だと分かった。
男子生徒も、突然入ってきたヒロキに少し驚いていた。
煙草を後ろに隠そうとしかけたが、制服を見るなり、そのまま吸い続けた。
ヒロキは中に入り、扉を閉める。
そして煙草を一本取り出した。
火をつけようとしたが、ライターが点かなかった。
それを見た男子生徒が、自分のライターを無言で投げてよこした。
ヒロキはそれを受け取り、火をつけ、軽く会釈して返す。
そして沈黙のまま煙草を吸い始める。
言葉はない。
なのに、不思議と居心地は悪くなかった。
今日一日の中で、初めて静かな場所に来た。
先に吸い終えたのは男子生徒の方だった。
火を消し、近くに置いてあったカップ型の灰皿に吸い殻を落とす。
それから棚に置いていた消臭スプレーを手に取り、自分に軽く吹きかけた。
そして男子生徒が部屋を出る直前、消臭スプレーをヒロキに差し出した。
ヒロキはそれを受け取り、また軽く会釈する。
何も言わない。
けれど、「使ってから出ろ」という意味くらいすぐ分かった。
男子生徒はそのまま物置部屋を出て、階段を上がっていった。
一人になったヒロキは、煙草を吸いながら、さっきの男子生徒のことを思い出す。
名前も素性も知らない。
それなのに、不思議と嫌な感じがしない。
今日会った人間の中で、一番自然に同じ空間にいられた気さえする。
ヒロキは煙草を消し、消臭スプレーを自分に吹きかける。
それから物置部屋を出た。
階段を上がり、二年生フロアに出る。
周囲のざわつきや視線も感じていたが、足は止めなかった。
「ねえ、あれ編入生の子じゃない?」
「超タイプなんだけど~」
「何しに来たんだろ。迷ったのかな?」
「……あれが噂の」
「なんか気にくわねぇな」
ヒロキはそれらを全て無視して、二年A組の前まで歩いた。
扉を開け、中に入る。
騒がしかった教室内の声がすっと止み、クラス中の視線が一斉に向く。
ヒロキは教室の中を見渡す。
そこで、ユナと目が合った。
ユナの心臓が、小さく跳ねる。
初めて制服姿のヒロキを見た。
少し着崩しているのが気になったが、それ以上に妙に似合っていた。
ヒロキは真っ直ぐ教室の中を進んでくる。
何か用なのか。
どう反応すればいいのか。
ユナが少し動揺した、その時。
ヒロキの目がユナから外れる。
次の瞬間、その足は別の少女へと向かっていた。
向かった先にいたのは、席に座っているリナだった。
ヒロキとリナの視線がぶつかる。
直接顔を合わせるのは、少年院の面会以来だった。
リナが見たヒロキの目には、しばらく見ていなかった虚無と冷たさが残っていた。
それなのに、不思議と引き込まれてしまう。
数秒、二人はそのまま動かなかった。
するとヒロキが、リナの前に立っている男子へ顔を向ける。
その男子は、向けられた殺気に全身が強張る。
鳥肌が立つのを抑えられない。
急に、自分だけが場違いな存在になった気がした。
ヒロキが口を開く。
「誰?」
その男子は、目の前の相手が噂の編入生だとすぐに分かった。
だが分かったところで、どうすればいいのかまでは分からない。
「に……二年D組の……カ、カン・ミンジェ」
「あっそ」
それだけ言って、ヒロキはさらに問いを重ねる。
「なんか用?」
声の温度は低いままだった。
だが、その目に宿った圧だけが一気に鋭くなる。
ミンジェだけでなく、教室中がその雰囲気に息を呑んだ。
ミンジェは何も言い返せず、首を横に振るしかなかった。
「じゃ、どけよ」
ヒロキの言葉にミンジェは反射的に頷き、一歩下がる。
ヒロキは空いていた椅子を引き、そこへ腰を下ろす。
そしてリナをまっすぐ見て、日本語で話し始めた。
「よぉ、リナ。元気そうだな」
背が伸びていて、体つきも前より大きくなっている。
けれど、声は変わっていなかった。
ぶっきらぼうで、気だるげで、それでもリナをちゃんと見ている声。
その声に、リナは一瞬だけ安心した。
「おかえり、ヒロキ」
やっと本人に向けて言えた。
リナの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
だが、胸の奥に引っかかっていたものは、まだ残っていた。
ヒロキが口を開く。
「リナ、金貸してくれ」
リナの声の温度が、一段上がる。
「は?」
沈黙が落ちる。
そしてヒロキはまっすぐリナを見つめたまま続けた。
「少年院出たばっかで金ない」
「久しぶりに会って言うことがそれ?」
リナは大きくため息を吐いた。
腕を組み、足も組んで、椅子にもたれかかる。
「あんたって、たまにめっちゃ頭悪いよね。もっと他に言うことあるでしょ」
「例えば?」
リナは信じられないものを見るような顔をした。
「連絡しなくてごめん、とか」
「有馬から連絡行ってただろ」
「本人から言うのとは別でしょ」
即座に返される。
ヒロキは別の言い訳を探すように言った。
「忙しかった」
「たった一言、〈出たよ〉って送るだけが?」
言い返す言葉をなくしたヒロキは、わずかに間を置いてから言った。
「悪かったな、連絡しなくて」
ぶっきらぼうな謝り方。
リナはもう一度、大きくため息を吐く。
するとヒロキが、懲りずにまた言った。
「金貸してくれ」
今度はその一言が、しっかりとリナを怒らせた。
リナはヒロキの足を思いっきり蹴る。
「痛ぇよ」
そう言いながらも、表情はほとんど変わらない。
「あたりまえでしょ」
リナは鞄から財布を取り出し、中の現金を確認する。
「今あるの、これだけ」
「ああ、十分。ありがとな」
ヒロキが受け取ろうとすると、リナはわざと手を引いた。
「今週末、予定は?」
「特にない」
「じゃ、付き合って」
「断ったらもらえないの?」
「当たり前でしょ」
「土日どっち?」
「両方」
「いいよ」
ヒロキが金を受け取ろうとする。
だがリナはまた手を引いた。
「忘れたら許さないよ」
「忘れたことねぇよ」
その言い方に、リナはようやく納得して金を手渡した。
「じゃ、戻るわ」
ヒロキが立ち上がる。
「ねぇ」
リナが呼び止めた。
「何?」
「新しい生活、どう?」
ヒロキは少し考えた。
そして短く答える。
「違う」
「何が?」
「お前がいない」
その返事でリナの中で引っかかっていたものが、少しだけ外れた気がした。
ヒロキが離れようとすると、まだ目の前にミンジェがいた。
「どけよ」
さっきまで消えていた殺気が、また戻る。
ミンジェは反射的にまた一歩下がる。
ヒロキはそのまま教室を出ていった。
扉が閉まってすぐ、ジア、スミン、ハユンが一斉にリナを見る。
今まで飲み込んでいた疑問が、まとめて爆発した。
「ちょっと待って、何今の!?」
真っ先に声を上げたのはハユンだった。
「え、どういうこと!?リナ、あの子とどういう関係なの!?」
ジアもすぐに身を乗り出す。
「しかも何で急に日本語?普通にそこも気になるんだけど」
スミンまで珍しく間髪入れずに続いた。
「説明して。今すぐ!」
三人とも、あからさまに動揺していた。
同じ疑問は当然クラス全体にも広がっていく。
さっきまで張りつめていた緊張が、一瞬にして騒がしさへ変わる。
「何、知り合い?」
「ていうか日本語だったよね?」
「リナ、あんな顔するんだ……」
そんな声が、あちこちから飛ぶ。
その中で、ユナは黙ったまま立ち尽くしていた。
二人の関係は知っていたし、何が起きたのかも見ていた。
ヒロキが自分ではなくリナの方へ向かったことも、そこに迷いがなかったことも。
ちゃんと会いに行ったのだと分かって安心した。
けれど、それだけではなかった。
ヒロキのリナを見る目、そしてリナの表情。
そのどちらも、自分の知らない時間の積み重なりを、そのまま見せつけてくるようだった。
まだ出会って数日なのは分かっている。
それでも目の前にあった二人の距離は、ずっと近く、深かった。
自分といる時よりも、リナといる時の方が自然なのではないか。
リナの隣にいる方が、ヒロキにとってしっくりくるのではないか。
そんな考えがよぎって、ユナは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
安心したはずなのに、苦しさもある。
ユナの表情がわずかに曇った。
そんな中、リナは三人に詰め寄られながらも、ふっと笑った。
「内緒」
一瞬、三人とも固まる。
すると、さっき以上に騒がしくなる。
「いやいやいや、それが一番ダメなやつでしょ!?」
ハユンが真っ先に食いつく。
「その返しは反則でしょ。気になるに決まってんじゃん……」
ジアも呆れたように言う。
「隠されると、なおさら気になるんだけど」
スミンは静かな口調のまま続けた。
「ていうか、あの子とリナの空気、普通じゃなかったよね?」
今度はジアが真顔で言う。
「分かる!あれ絶対ただの知り合いじゃないって!」
ハユンがすぐに被せる。
「しかもリナ、あんな顔するんだって思った」
スミンがじっとリナを見たまま言う。
リナはそれでも答えない。
ただ、口元に残った笑みだけが、今までとは明らかに違っていた。
それがまた三人の混乱を煽る。
「いや絶対なんかあるって!」
ハユンが確信したように言う。
「あるに決まってるでしょ。あれで何もないは無理」
ジアも強く頷く。
「少なくとも、最近知り合った感じではなかったよね」
最後にスミンが静かに言った。
そのやり取りを聞きながらもリナは何も答えず、笑顔で窓の外を眺める。
リナは、ただ彼氏を作らなかったわけではない。
最初から、他に想う相手がいたのだと。
今まで見たことがなかったリナの表情から、三人はそう察した。
そしてそのすぐそばで。
さっきから一言も発せないまま立ち尽くしていたカン・ミンジェが、リナの見せるその笑顔に、またしても勝手に心を持っていかれていた。
第六章
完




