第四話 契約と覚醒
どれくらいの時が流れたのだろう。
数秒か、数分か、それすら満たなかったのかも知れない。
そんな刹那さえ、長く引き伸ばされ、計測も曖昧な時間の流れの中、両者はただ互いを見つめ合う。
拮抗が崩れたのは、一瞬だった。
「……ぅっ」
少女の幼い顔がくしゃりと歪み、唇が震え、磨りガラスのような瞳が潤む。
それを見て、薫は、はっと我に返った。
硬直したまま動かない自分を見て、拒絶されたと思われたのかも知れない。
「ち、違う違う違うっ!ちょっと、びっくりしただけで…っ」
実際は、驚きのあまり、声すら出せなかっただけで、少女に対し、恐怖も嫌悪も抱いていない。
薫は再びしゃがんで、少女と目線を合わせ、できる限り優しい声で話しかける。
「だ、だから、泣かないでくれ…えぇっと…」
薫は、困ってしまった。
小さい子供は苦手では無いが、接し方が解らない。
キョロキョロと意味もなく周囲を見回し、不意にある物に目が止まった。
それは、カモミールに似た白い草花だった。
薫は名も知らぬその花を一輪、摘み取ると、震える少女の前に、ややためらいがちに、そっと差し出した。
「…?」
眼前の花に気づいた少女は、泣くのを止めて、涙に濡れた瞳で、薫の手の中の花をじっと見つめた。
「……?」
顔を上げ、何かを問いかけるような視線を薫に向ける。
薫が静かに頷き、差し出された花が引っ込められないのを見て、少女はおずおずと一回り小さな両手を伸ばし、花を受け取った。
「……ぅ」
花を見つめていた少女の唇から、小さな吐息が漏れ、表情が柔らかく綻んだ。
それを見た薫は、ほっと張り詰めていた息を吐いた。
しかし、問題はこの後、である。
(何者なんだろう、この子…この後、どうすればいいんだ…)
有り体に言えば、反射的に助けただけで、自分とこの子は何の関係もない。
いじめっ子を追い払っただけで、手助けは十分した。
薫に、これ以上してやれる事はもう無いのだ。
ここで別れて、自宅に戻り、何事もなかったように、いつも通り過せばいい…。
そう考えながらも、薫はちらりと、少女を見る。
受け取った花を小動物のように両手で持ち、不安げに、こちらを見上げる少女。
―――もし、自分が去った後、別の誰かが来て、少女を見つけたら?
―――少女の耳や翼が、本物だと気づかれたら?
間違いなく、大騒ぎになるだろう。通報されるどころじゃ、絶対にすまない。
少女を置いて、家に帰った後の事を想像する。
TVをつけると、画面に飛び込んでくる、臨時ニュースのテロップ。
それには、『緊急速報。松代町にて、未確認の人型生物発見』と書いてあり、キャスターが、興奮を抑えられない口調で、ニュースを読み上げる。
画面が切り替わり、無数のカメラを構えた報道陣に囲まれ、ギラギラと瞬く無数のフラッシュに照らされて、檻に入れられた少女の姿が映る――――。
そこまで想像した所で、薫は頭を振った。
少女のそんな姿は、絶対に見たくない。
薫は、胸の奥の鉛のような躊躇いを振り払うように、一度大きく深呼吸をしてから、再び少女へと向き直り、しゃがんで、目線を合わせる。
「行く所が無いんだったら…家に来ないか?」
そっと、手を差し伸べれば、少女は前髪の隙間から覗く瞳を大きく見開き、薫の顔と手を、戸惑うように交互に見た後、薫の手の平を見つめたまま、じっと考え込むように動かなくなる。
やっぱり、恐いよな…と薫は内心申し訳なく思った。
助けて貰ったとしても、見ず知らずの相手の家に招かれれば、警戒するのは当然だろう。
無理矢理連れて行く事は当然しないが、かと言って、このまま此処に置き去りにする事もできない。
「……」
短い沈黙の末、薫のものより小さな少女の手が、恐る恐る恐ると、手の平に乗せられる。
小枝のように細い指先についた爪は、普通の人間とは違い、肉食獣のように先が長く鋭利に尖っている。
しかし、手の平越しに伝わってくる温もりは、人間と全く同じだった。
薫は、そっと包み込むように少女の手を握る。薫の手を支えに、少女がゆっくりと立ち上がる。
少女の爪が微かに食い込むのを、手の平越しに感じながら、薫は少女を見守った。
「…じゃあ、行こうか」
そう声をかけ、少女の歩幅に合わせ、薫はゆっくりと歩き出す。
様子を見る為、薫がチラッと視線を斜め下に下ろすと、こちらの顔色を窺うように、俯きがちに見上げていた少女と目が合い、ぱっと顔が伏せられた。反対の手には、薫が差し出した、草花が握られていた。
こうして、薫と少女は、静かに公園を後にした。
――――数分後、少女を連れて、自宅にたどり着いた薫は、自転車を駐輪所に仕舞い、鞄から取り出した鍵を開けて、玄関の扉を開いた。
「おいで」
薫が優しく手招くと、少女はおずおずと、周りを見渡しながら、玄関に足を踏み入れる。
扉を閉め、少し待っているように声をかけてから、先に靴を脱いで、玄関を上がった薫は、手早く給湯機のスイッチを押し、自室に言って、適当なTシャツを選び、お風呂場の脱衣所の棚にバスタオルと一緒にセットする。
その後、台所に置いてあったカップ酒の瓶に水を注ぎ、少女の元へと持っていく。
「お待たせ…上がる前に、その花、ここに差しな。しおれちゃうだろ」
薫が、水の入った瓶を差し出すと、少女は手に持っていた花を、そっと瓶に差した。
瓶を靴箱の上に置き、そのまま少女を脱衣所へと案内する。
「まずは、汚れを落とすから、服を脱いでもらって良いか?」
同性とはいえ、見知らぬ他人に、裸を見られるのは、抵抗があるかも知れない。
しかし、少年達に同調する訳では無いが、少女の全身は野良犬の方がマシという程汚れ、匂いも酷い。
衛生面も勿論心配だが、何処か怪我をしていないか、確認する必要がある。
薫の言葉の後、少女の背中の翼が、しゅるしゅると音もなく、まるで空気の抜けた風船のように、縮み始めた。
そんな事も出来るのかと、薫が目を見開いていた。
この少女は、既存の生物とは逸脱した存在なのだと、改めて思い知らされた。
髪の毛の中に隠れるほど、翼を小さく縮めた少女が、辿々しい手つきで服…というより、ほぼボロ布に近いそれに手をかけ、脱いだ。
「…っな」
薫は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、息を呑んだ。
ボロ布の下、肋の形がくっきりと浮き出た、やせ細った身体には、赤黒く変色した、大小様々な痣や擦り傷が、痛々しく刻まれていたのだ。
位置や大きさから、転んだりぶつけたりして、自然についたものとは、考えにくい。
「…っ、さっきの子たちか?」
掠れた問いかけに、少女は無言で、ふるふると首を振る。
少年達からは、突き飛ばされたりはしたが、ここまで、酷い暴力は振るわれてはいなかった。
少女も否定しているので、少なくとも彼らの仕業では無いのだろう。
…が、少女が想像するのも悍ましい悪意の只中で生きていた事は、この傷を見れば、嫌でも理解してしまう。
「…綺麗にしような」
全身が震える程の怒りが湧き上がるが、大きく息を吐いてそれらの感情を外へ押し出し、少女と一緒に浴室へ入る。
洗う前に首のチョーカーも外したかったが、何故か少女にも薫にも外せなかった為、そのままにしておいた。
椅子に座らせ、お湯の温度をぬるめに調整してから、レバーを捻ると、シャワーヘッドから、夕立のように水が噴射され、驚いた少女がビクッと身体を震わせる。
手で、水がぬるま湯に変わるのを確認し「濡らすから、耳を塞いで、頭を下げてくれ」と声かけを行なってから、毛先からお湯をかける。
髪が濡れた瞬間、一層濃くなった獣臭に似た悪臭が室内に立ちこめ、少女には悪いと思いつつ、薫は「うっ」と呻き声を漏らしてしまった。
リンスインシャンプーを両手でこすって泡立ててなら、少女の髪につけるが、泡は拡がらず、瞬く間にヘドロのように、真っ黒に変わる。
すぐにシャワーで洗い流し、また新しくシャンプーを泡立て、髪につける。
少女の髪の状態は外見以上に酷く、汚れが癒着して出来た固い毛玉が、所々出来ており、中で絡まっていた小枝や枯葉の欠片や小石、虫の死骸らしきものなど、大小様々なゴミが浮き出てきた。
しかし、何度も洗ってはすすぐを繰り返していくうちに、毛玉は柔らかく解れ、泡が白くなるのに比例して、本来の色と輝きを取り戻していった。
時間をかけて髪を洗い終え、今度は少女の身体を洗っていく。
傷に障らないように、ボディソープの泡で、肌を優しく撫でるように洗うが、やはり滲みるのか、少女がビクリッと身体を震わし、尻尾と翼がピンッと立ち、痛そうに顔をしかめていた。
「ごめんな、痛むか?」
「…」
少女はぎこちなく、首を横に振る。
こちらを気を遣っているのは、明らかだった。
できる限り傷に触れないよう、細心の注意を払いつつ、身体を洗う。
人間には無い部位…翼と尾がある為、長い髪同様苦戦したが、何とか洗い終え、シャワーで全身の泡を流す。
「…おお」
泡を流し終え、レバーを締めてお湯を止めた薫は、無意識に感嘆の声を漏らした。
眼前には、ゴミ捨て場のぬいぐるみのようにみすぼらしかった少女が、生まれ変わったように綺麗な姿になっていた。
―――否、本来の姿を取り戻したと言うべきか。
齢の頃は、八、九歳くらいか。
分厚い垢と泥を落とした事で、精巧なビスクドールのような、幼くも無垢で儚げな顔立ちに、宝石を嵌め込んだような、鮮やかな真紅と澄んだ水色の瞳がよく映える。
一際目を引かれたのは、雫が滴る少女の長い髪だった。
汚れや濁りなどは一片も混ざっていない、透き通るような純粋な白の髪。
光を反射してではなく、毛先の一本一本が内側から淡い光の粒子を放っているかのような、幻想的な輝きを纏う。
「…雪」
薫が無意識のうちに呟く。
少女の輝く純白の髪は、北国の大地を地平線まで染め上げた雪を想わせた。
「…っくしゅ」
小さなくしゃみに、少女の髪に見惚れていた薫は、はっと我に返った。
急いで少女を連れて脱衣所に戻り、バスタオルで、少女の濡れた髪と身体を拭く。
「尻尾触るけど、大丈夫か?」
「…っ」
頷いたものの、やはり触られるとくすぐったいのか、尻尾を触る度に、ビクリッと震えた。
「とりあえず、今はこれを着てくれ」
拭き終わった後は、薫のTシャツを着せてやる。
少女の翼を出せるよう、背中には事前にハサミで穴を空けてある。
似たようなシャツは他にもあるし、あまり着ていなかったやつなので、特に問題はない。
シンプルなTシャツなのに、少女が着ると裾が太腿のつけ根辺りまで覆い隠し、まるでワンピースを着ているようで、とても可愛らしく感じる。
洗面台の前で、ドライヤーで髪を乾かし、それを終えると、ヘアブラシで梳かせば、少女の髪はふんわりと、緩やかなウェーブ描く毛先が、ふんわりと太腿にかかった。
「さ、終わったよ」
少女は、キョロキョロと自分の姿を見下ろしたあと、髪を一房摘んで、クンクンと匂いを嗅いだ。
その仕草が可愛らしく、薫は思わず笑みを漏らす。
少女の手を引いて脱衣所を出た薫は、ダイニングルームへ向かい、ソファーに少女を座らせ、ウーロン茶を注いだコップをテーブルに置いて、後片付けに入る。
浴室の排水溝の網に溜まったゴミを取り除き、事前に少女から、処分して良いと許しを得て、服代わりのボロ布を外の倉庫のごみ袋に放り込み、廊下の泥の足跡を雑巾でふき取って、雑巾を洗って片付け、手を洗ってから、再びリビングへ戻る。
少女はソファーの上で、膝を抱え丸くなって座っていた。
その姿勢は、薫がリビングを出た時と、殆ど変わっていなかった。
不意に、目が合った少女は、小動物な素早さで膝の間に顔を埋めて隠す。
テーブルの上に置かれた、コップの中のウーロン茶は、殆ど減っていない。
特に何を言う訳でもなく、薫はキッチンへ向かい、来客用の菓子鉢を取り出し、キッチンペーパーを敷いてから、そっと息を吐いた。
とりあえず家に連れて帰り、汚れた身体を綺麗にし、服を着せる事は出来たが、これから先、少女をどうするか…まだ何にも考えつかなかった。
犬猫を拾ってくるのとは、訳が…否、桁が違いすぎる。
(…そう言えば、小四の時に、学校帰りに仔犬拾ってきたんだけど、うちじゃ飼えなくて、父さんの会社の部下さんちに引き取ってもらったんだっけ、元気かな…)
懐かしい幼少期の思い出が蘇り、浸っていると、現状を思い出し、我に返る。
(いや、今は現実逃避している場合じゃない……っ!)
今回拾ってきたのは、仔犬ではなく、キメラの少女だ。
仕事を終え、帰宅した両親が、少女を見た時、どんな反応が返ってくるか、予想も出来ない…というより、恐くてしたくなかった。
かと言って、今更外へ放り出すような真似は出来ないし、したくもない。
(…そもそも、あの子は何者なんだ?一体何処から来たんだ?)
薫はチラリと、横目でソファーの方へ視線を向けた。
背もたれの上から、少女の白い獣耳が見える。
―――まさか、漫画やラノベによく出てくる、この地球とは異なる別世界からやって来た…もしくは迷い込んだとでも言うのか。
それこそ「なんのラノベだ」とツッコミたくなるような、あまりにも現実味に欠けた、突拍子のない想像だが、実際ファンタジー作品から、そのまま飛び出してきたような容姿の少女が、今、目の前にいる。
今後、異世界だの魔法だの、一般常識を覆す存在が現れても、可笑しくはない。
……出来れば、これ以上は、ご遠慮願いたいが。
そこで、薫は重大な事実を忘れていた事に気づく。
(まだ、あの子の名前訊いてない…)
そして、自分も少女に名乗っていなかった。
少女の正体が衝撃的過ぎたのと、誰かに見られる前に早く帰りたくて、そこまで頭が回らなかった。
せめてそれだけでも、教えてはくれないだろうか。
薫は、菓子鉢に蒸し饅頭とどら焼き、レーズンバターロール、バナナを、盛れるだけ器に盛った。
客に出すには、あまりに大雑把というか、彩りに欠けるが、緊急時なので仕方がない。
菓子鉢を両手で持ち、少女の座るソファーに近づく。
少女の正面のテーブルに、食べ物を盛った菓子鉢を置き、薫はテーブルを挟んで、斜め右の少し離れた位置に腰を下ろす。
「…お菓子、食べるか?有り合わせで、申し訳ないけど…」
薫が優しく声をかけると、少女は目の前に菓子類を盛られた器をチラリと一瞥し、すぐに膝に顔を埋めて丸くなる。
薫は、少女の枯れ木の様に痩せた衰えた身体を思い出す。
お腹が空いていないようには、到底思えない。
それでも、手をつけようとしないのは、あの痣や傷と共に刻みつけられた、深い恐怖心からなのだろう。
その証拠に、少女の小さな肩が、微かに小刻みに震えていた。
――――詳しい事情は、なにも解らない。
…だが、この子が他者から向けられてきた感情が、決して温かく優しいものでは無かった事は、容易に想像がつく。
薫はそっと腰を上げ、ソファーの右隣の床にそっと腰を下ろす。
少しの間、言葉を探すように考え込み、遠慮がちに口を開く。
「…私、薫…小鳥遊薫って言うんだ。君は?」
薫の言葉に、少女がの肩がピクリッと跳ね上がる。
それきり、石の様に固まって、動かなくなる。
顔を膝に埋めたまま、長く白い髪だけが、僅かに震え、狼の耳もしおしおと垂れ下がる。
「……っ」
もしかすると…もしかしなくても、余計なことを言ってしまったようだ。
「……ごめん」
謝っても、少女から返事はなかった。
薫は小さく息を吐き、視線を菓子鉢へ向けた。
「……お腹、空いてるよな」
あばらが浮き出るほど痩せた身体。
腕も、脚も、驚くほど今にも折れてしまいそうなほど細い。
あんな身体になるまで、一体どのくらいの間、食べ物を口にしてこなかったのだろう。
少女の境遇を想像すればする程、胸の奥が痛み、苦しくなる。
けれど、今の少女に「食べていい」と何度言っても、きっと駄目なのだ。
食べ物や飲み物を目の前に置かれても口にできず。
優しく声を掛けられても、身体が強張る。
―――――それだけ、少女の心の傷は深いものなのだろう。
理由を覚えていなくても。
誰に何をされたのか、自分でも分からなくても。
身体だけは、それを覚えている。
薫は、少女を見つめ、ふと思った。
この子にとって、自分も恐怖の対照なのだ。
手を差し伸べた。
家に連れてきた。
身体を洗った。
髪を洗った。
服を着せた。
薫は親切心からしている行為でも、少女からすれば、見知らぬ人間に、突然身体を触れられたことに変わりはなかった。
今まで逆らわなかったのは、自分が受ける痛みが何倍にもなって返ってくるだけだから。
それでも…自分からついて来たのは、ほんの僅かでも、希望に縋りたいという、気持ちもあったからかもしれない。
「……そっか」
薫は、小さく呟く。
「怖いよな」
少女の肩が、また僅かに震えた。
「私のことも……怖いよな」
少女は顔を上げない。
それでも、否定もしなかった…それが答えだった。
「……うん、いいよ」
薫は、ほんの少しだけ笑った。
「今は、私のことを怖いと思ってていい」
少女の耳が、ほんの僅かに動いた。
「無理して仲良くならなくてもいい。話さなくてもいい。信用できなくてもいい」
薫は、少女から視線を逸らし、手と腕を使い、身体をずらして距離をおく。
至近距離から見つめ続けることすら、この子には怖いかもしれないと思ったからだ。
「……ただ、ここにいていいから」
静かな部屋に、薫の声だけが落ちる。
「ここでは、誰も君を殴ったりしない」
少女の指先が、ぎゅっと服を握り締めた。
「嫌だと思ったら、逃げていい。私が近づいて怖かったら……離れていい」
薫は、少しだけ間を置く。
「だから……今は、それだけ覚えてくれればいい」
少女は動かない。
相変わらず、顔は膝に埋めたままだ。
けれど。
さっきまで震えていた小さな肩が、ほんの少しだけ落ち着いていた。
薫はそれに気付いた。
けれど、敢えて何も言わなかった。
話しかけて、また緊張させてしまうかもしれなかったからだ
だから、今はただ少女の近くにいる。
触れない。
見つめすぎない。
何かを強要もしない。
ただ、そこにいる。
しばらくして。
少女の白い髪の隙間から、桃色の瞳がほんの僅かに覗いて、薫を見た。
が、すぐに目を逸らす。
それでも、もう一度だけ。
今度は、ほんの少し長く。
薫は気付いていた。
けれど、あえて気付かないふりをした。
少女の前に置かれた菓子鉢へ手を伸ばし、その中から、レーズンバターロールの袋を手をとって開ける。
「……これ、美味しいぞ」
そう言って、薫は自分で一口かじった。
「うん。普通に美味い」
少女の耳が、また小さく動く。
「……まあ、市販のやつだし、私が作ったわけじゃないけどな」
薫が苦笑すると――
ほんの一瞬。
少女の口元が、僅かに緩んだように見えた。
薫も、それ以上何も言わなかった
――――その時だった。
「……っ」
不意に、少女の頭頂部にある獣耳が、ピクリと震えたかと思えば、ばっと顔を上げ、庭に面する大窓を見つめた。
「…?どうし……」
急な変化に、薫が訊ねようとした、その直後だった。
――――ガッシャアァンッ!!
「っ!?」
凄まじい衝撃と耳をつんざく破壊音と同時に、窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。
ガラスの破片が弾丸のように飛来し、薫は咄嗟に少女に覆い被さる。
「っな、何だ!?」
粉塵がもうもうと立ち込め、ぞっとする程冷たい外気が室内に流れ込んできた。
その向こうには、熊ほど大きさの、巨大な影。
――ズ……ズズ……。
何かを引きずるような音と共に、砕け散ったガラスを踏みながら『それ』はゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
薫の背筋を、ぞくりと悪寒が駆け抜けた。
「……何だ、あれ……」
煙の向こうから現れたのは、熊などでは無かった。
それどころか、既知の生物にはどれも当てはまらない。
例えるなら、獣と虫のハイブリッドのような、漆黒の甲殻に覆われた巨大な四足獣。
前脚だけが異様なほど長く、床を掻く爪は一本一本が刃物のように鋭い。
顔には赤い瞳が幾つも並び、その中央で、縦に裂けた巨大な口が開いた。
――ギィィィィ……。
金属を擦り合わせたような、耳障りな鳴き声が室内に響き渡り、牙の間からこぼれ落ちた涎が、ボタボタと床に落ちる。
まさに、怪物としか言いようがない、異形の化け物が、そこにいた。
その時、怪物の複眼が、ある一点へと向けられる。
その視線は、薫の腕の中、異形を見て小さく息を呑んだ少女へと向けられていた。
凶暴な視線に射抜かれ、幼い顔立ちは青ざめ、その小さな身体が、小刻みに震え始めた。
薫は、その反応を見逃さなかった。
(あいつ、この子を狙っているのか…?)
その怪物が、一歩、こちらへ踏み出した。
薫は、反射的に自身の身体で、少女を隠すように抱き寄せる。
――――その瞬間、怪物が床を蹴って突進してきた。
薫は少女の身体を抱きかかえ、、そのまま床を横へ転がる。
怪物の爪が、先ほどまで少女が座っていたソファーを、豆腐のように切り裂いた。
「ぐっ……!」
床に散らばったガラス片で、身体のあちこちを切り、目が回って吐き気がこみ上げてくる。
頭を振って、痛みと気持ち悪さを無理矢理呑み込み、怪物の行方を視線で追った。
怪物は、真っ二つになったテーブルと、ソファーの残骸を踏みつけるようにして、薫達を睨んでいた。
「――――――ッ!!」
金属を引っ掻くような、耳障りな咆哮と共に、怪物の前足が振り上げられる。
その翼を掠めるように、黒い爪が走った。
「……ぅっ!」
少女の口から、声にならない悲鳴と共に、床に倒れる。
赤い飛沫が飛び、斑に染まった白い羽根が数枚、宙を舞った。
「……!」
薫の顔から血の気が引く。
「大丈夫かっ!?」
薫は膝をつき、少女へ手を伸ばした。
血に汚れた白い羽根が数枚、床に散っていた。
少女の翼の根元には、赤い血がじわじわと滲み出ていた。
その光景に胸を締めつけられながら、薫は少女を起こそうとする。
床から顔を上げた、少女の表情が凍りついた。
不意に影が落ち、ゆっくりと、薫が振り返る。
二人のすぐ背後に、怪物が、立っていた。
鮮血を固めたような、赤い複眼が、眼下の獲物を捉えている。
そして――
ゆっくりと、前足を持ち上げた。
夕陽を受けた巨大な鉤爪が、ぬらりと赤く光る。
その爪先から、少女の血が一滴。
床へ落ちた。
「……っ」
薫の喉が鳴った。
考えるより先に、身体が動いていた。
「……っ!
咄嗟に左腕をあげ、少女を背中に隠す。
次の瞬間――
――――ザシュッ!!
「うぁ……っ!」
死神の鎌のように振り下ろされた鉤爪が、薫の左肩を容赦なく切り裂いた。
「――――っ!!」
鮮血が飛び散る。
あまりの激痛に、声すら出なかった。
身体が大きく揺らぎ、その場に膝をつく。
「……っ、ぐ……!」
左肩を押さえる。
だが、止まらない。
脈打つたびに傷口が焼けるように痛み、生温かな血が指の隙間から次々と溢れ出していく。
胸元を、腕を伝いそして床へ。
ぽた、ぽた、ぽたと、赤い雫が重く床に滴り落ちる。「……っ!」
少女が息を呑んだ。
すぐ傍に膝をつき、薫の傷を見つめる。
あまりにも深く、流れる血の量も多い。
左右異なる瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「……っ」
唇が震える。
何かを伝えようとしているが、声にならない。
少女の中で、自責と罪悪感が膨れ上がっていた。
――自分のせいだ。
自分がこの人のところへ来たから。
この人が傷ついた。
少女は無意識に、身体を縮こまらせる。
そして。
薫の服を、震える指でほんの少しだけ掴んだ。
ただただ、謝りたくて、申し訳なくて。
「……君の……せいじゃない……」
言葉はなくても、少女の気持ちは伝わる。
薫は荒い息の合間から、どうにか言葉を絞り出した。
「……違うんだ……」
額には脂汗が滲んでいる。
痛みと出血で、頭がくらくらし、顔からは、すでに血の気が引き始めていた。
それでも。
少女を安心させるように、無理やり口元を緩める。
「……私が、勝手に……庇っただけだ……」
嘘ではない。
少女を守ろうとしたのは、自分自身の意思だった。
だから――
「……君は、悪く……ない……」
少女の目から、大粒の涙が零れた。
その涙を見た時、薫は強く思った。
―――せめて、この子だけでも、逃がしてやりたい。
―――自分も怪我をしているのに、他者を案じる、この優しい少女だけは。
少女達の後ろで、怪物がゆっくりと、緩慢に見える仕草で腕を上げる。
急ぐ必要などないと言わんばかりに。
獲物が逃げられない事を、確信した冷酷な捕食者のように。
トドメとばかりに、巨大な前足が振り下ろされようとした、まさにその瞬間。
それは起きた。
――――カァッ!!
「……っ!?」
薫の身体から、眩い光が溢れ出す。
それに呼応するかのように、床に複雑や記号や文字が描かれた円陣が浮かび上がり、見たこともない無数の文字が、蝶の群れのように宙を舞い踊った。
「なっ、なんだよ、これ…っ!?」
全く状況が読めず、薫は無数の文字を目で追いながら、上擦った声を上げる。
驚き、戸惑っているのは、薫だけではない。
薫に寄り添っていた少女は、目を見開いて、周囲を見回し、怪物は不意をつかれたように後ずさる。
そして。
薫の頭の中へ、どこからともなく声が響いた。
男とも女ともつかない、機械で再現されたような、無機質で人間味に欠けた声。
『契約条件を確認』
「……え、は?」
『契約対象――種族名、合成魔導生命体■■■』
抑揚のない声の後、少女の身体が淡く輝く。
『契約条件は満たされています。契約を締結しますか?締結の場合、あなたの名前と、同意の意思をご提示願います』
「…っは?契約ってなんだ?私は何も…」
薫がふらつきながら立ち上がり、問いかけても、返事はこない。
ただ、押しつけるように、無機質に同じ質問を繰り返すだけ。
『――――繰り返します。契約を締結しますか?』
一体何が起きているのか、まったく解らない。
だが、迷っている時間もない。
目の前では、今にも襲いかかってきそうな怪物。
このままでは、二人とも無惨に引き裂かれ、殺される未来しかない。
―――ならば、選ぶ道は一つ。
「…っ私は、小鳥遊薫っ!!契約する!!」
迷いを振り払うように、一縷の望みを託すように、薫は叫んだ。
――――ドクンッ!!
次の瞬間、その言葉を待っていたかのように、心臓が一際大きく脈打ち、燃えたぎるように熱い血液が、一瞬で血管を駆け抜けていき、それが身体全体を満たした瞬間、自身の中で何かが外れたのを、薫は感じた。
前髪と左右のもみあげが、本来の銀色へ戻るのと同時に、黒曜石の瞳が透き通るような琥珀へと変化し、獣のように、瞳孔が縦に裂ける。
周囲を、飛び交っていた文字列が、薫の手首に集まりはじめ、ぐるぐると渦を巻くように回り出す。
やがて、回り出した文字は重なり合い、溶け合って光の輪となり、それは泡のように弾けた。
現れたのは、本体の中央に嵌め込まれた、小さな液晶画面の周りを、大小の白金の歯車を模した装飾が縁取り、その下に桃色と空色のグラデーションが美しい小さな宝石が埋めこまれた、白金の腕輪だった。
「これは…」
薫が右腕を上げた直後、液晶画面が光りを放ち、目の前に雷雲のような渦が出現する。
(…この中に、何かある?)
何かに促されるように、中に手を突っ込むと、指先に棒状の固い何かが触れた。
思わず掴んで引き抜くと、現れたのは、薫の身長を有に超える長さの、一振りの薙刀だった。
漆黒の柄の先に取り付けられた、銀月の形をした刀身は、見据えるだけで、身が切られるような冷たく鋭利な光を放っていた。
金属を引っ掻くような、耳障りな唸り声に、薫はビクリッと肩を震わせる。
思わぬ形で武器が手に入ったとはいえ、状況は全く好転していない。
「――――ッ!」
今まで様子を伺うように、距離をとっていた怪物が、痺れを切らしたのか、咆哮と共に床を蹴って襲いかかってきた。
「っ!」
突進してくる巨体に、薫はとっさに、片手で薙刀を払うように振る。
それは、技とは呼べない、飛んできた虫を払うかのような、乱雑で正確さのない素人の動き。
力も大して、込められていないように見えるそれは――――
―――――ザンッ!
「ギ、イイイイ―――ッ!!」
耳障りな絶叫が上がり、どす黒い体液をまき散らしながら、鍬形虫の大顎の先端が宙を舞う。
薙刀の刃は、怪物の強固そうな顎の片方を、まるで野菜でも切るかのように、いとも容易く切断してしまった。
痛みか驚きか、それとも両方か、怪物が後ろ足で立ち上がり、大きく仰け反った。
怪物が大きく隙を見せている。
薫は、怪物の絶叫に硬直しかけた頭と四肢に喝を入れ、見様見真似で薙刀を斜め右に構えて、右脚を前に出して、踏み込むように腰を落とす。
ぐっと両足に力を入れ、右脚を軸に全力で床を蹴る。
薫の両足は、まるで強靭なバネのように、一瞬で弾丸並みの速度を生み出し、怪物との距離を零にした。
「わあああああっ!!」
悲鳴とも怒号ともつかない叫びを上げ、薫は全身全霊を込め、薙刀を袈裟斬りに振り下ろす。
虚空に、雷を想わせる紫色の残光が奔る。
粘土のように、重く湿った感触が柄から手の平を伝い、刃は怪物の胴体を、左肩から右脇腹を通り抜けた。
一瞬の痙攣の後、怪物はピタリと動きを止めた。
汗に濡れた手から、握っていた柄から滑り落ち、薙刀が床へ落ちた。
薫の目の前で、怪物の巨体が、ゆっくりと斜め左下へずり落ちる。
泣き別れになった上半身が床に落下し、遅れて下半身が力なく倒れ伏す。
その際、まるで地震のように室内が揺れ、薫は思わず尻もちをついた。
薫の全身は小刻みに震えて、冷や汗が滝のように全身を滴り落ちる。
荒い呼吸を繰り返し、手足を使って後退りながら、不安とも祈りともつかない心境で、怪物を見つめる。
不意に、変化は起きた。
怪物二つに別れた身体から、黒い煙…いや、塵のようなものが立ち昇り始めた。
塵は徐々に増えいき、それに比例して、怪物の身体はみるみる形を失っていく。
まるで、強風の中に晒された砂山のように崩れていく身体に、薫はようやく怪物の死を確証できた。
不意に、こみ上げてきた吐き気に、薫は口元を抑え、背中を丸めて咳き込みながら、胃の内容物を嘔吐する。
吐瀉物は、指の間や手の端から溢れて、床へと流れ落ちた。
背後から駆け寄ってきた少女が、小さな手で背中をさすってくれる。
戦いに勝ったという高揚感も、危機を脱したという安堵感もない。
ヘドロのように、べったりと手の平に重くこびりついた、肉を裂き、貫いた感触が気持ち悪さと、死から解放された反動からくる、強烈な恐ろしから、全身の震えが止まらなかった。
どれくらい、時が過ぎたか解らない。
すり減らされ続けた心身は、とっくに限界を迎え、顔を上げるどころか、指一本動かすことさえ出来なかった。
ふっと、全身から力が抜け落ち、薫はゆっくりと横向けに倒れた。
誰かが、自分の身体を擦っている。
だが、目を開く事も出来ない。思考も殆んど止まっている。
そのまま、薫の意識は底なし沼のようなの闇の中へ、深く深く沈みこんでいった―――――。




