第六話 目覚めと決意
――――コンコン。
不意に、病室の扉がノックされ、薫はハッと我に返り、現実へ意識を引き戻された。
「は、はいっ」
不意だった為、上擦った声で返事をし、ゆきと名付けたばかりのキメラの少女を、自分の左側のマットの下へそっと下ろし、軽く毛布をかけて隠す。
「―――薫っ、薫っ、大丈夫なの…っ!?」
扉の向こうから響いたのは、ひどく狼狽した、母、詩織の声。
震える声音から、冷静さを保とうと、必死に気持ちを抑えこもうとしているのが、伝わってくる。
「母さん」
薫が返事をすると、扉がガラッと弾かれたように開き、職場から飛び出してきたのだろう、真っ青になったスーツ姿の母と、その後ろから同じくスーツ姿の父が、病室に飛び込んできた。
薫が何かを言う前に、母が娘へと飛びつくように抱きしめた。
「ごめんなさいっ!恐かったでしょう…っ!三日前に警察から、薫が家で熊に襲われたって聞いて…さっき、病院から目が覚めたって報せを受けて…本当に良かった…っ!!」
「っ、ごめんなさい母さん…心配かけて…窓ガラスだって、あんな……」
「謝らないでっ、あなたは、何も悪くないんだから…っ!」
詩織は薫の両肩を掴んで離すと、しゃがんで視線を合わせた。
普段は厳しくも、品があり穏やかな母は、両目に大粒の涙を浮かべていた。
それを見れば、この三日間、どれだけ自分を案じ、心配をしていくれていたか、痛いほど実感できる。
それ故に、薫の胸は罪悪感に締めつけられた、ただ謝る事しか出来なかった。
母の後ろから、ゆっくりしたとした重い足取りで、父が歩いてくる。
厳しくも穏やかなその顔は、普段と比べて酷くやつれて見えた。
目の下には、濃い隈が、くっきりと浮かび上がっている。
「…心配したぞ」
たった一言だけ。
だが、その短い言葉に込められたものは、恐いほどに重かった。
「…ごめんなさい、父さん」
そう返す事しかできない薫の頭に、父は無言で大きな手を乗せた。
両親の愛情の深さに、薫の瞳が潤む。
謝るだけでは、足りないのは解っている。
だからこそ「ごめんなさい」と、頭を下げるしかできない自分が、歯がゆくて悔しくてならない。
両親は、薫の繰り返しの謝罪を、否定も宥めもせず、黙ってきいてくれた。
両親への謝罪を繰り返す薫の背中を、毛布の下から、ゆきが静かに見守っていた。
三人が、落ち着きを取り戻した時、タイミングを見計らったように、警察と猟友関係者が、薫を訊ねてきた。
用件は、三日前に自分を襲った『熊』について、詳しい特徴を教えてほしいとの事だった。
――――あの怪物の死体は、塵となって消えてしまった為、状況証拠だけ見たら、熊のような、既存の大型の獣と考えるのが自然だろう。
どちらにしろ、真実を話した所で、信じては貰えないだろう。
それどころか、事態が余計ややこしくなる事は、考えなくても解る。
故に質問に対して、薫は「憶えていない」としか答えられなかった。
それだけの恐怖を味わったのだから、仕方がないと、大人達はそれ以上、なにも聞いてはこなかった。
聴取を終え、警察官達が去った後、母方の祖父母が、その後入れ替わる形で、千奈都と大和が病室へお見舞いに来てくれた。
皆、心から薫が目を覚ました事を喜んでくれた。
特に、普段は明るく、天真爛漫な千奈都は、泣きながら薫に抱きつき、良かった、良かったと何度も繰り返していた。
自分を案じてくれた、祖父母や幼なじみ達に、薫は心配かけて本当にごめんなさいと、何度も何度も頭を下げて謝った。
罪悪感と同時に、自分はこんなにも大切に想われていたのだと実感し、目頭が熱くなる。
自分が眠っていた三日間の事や、クラスの様子などを話しているうちに、面会時間が終わりを迎え、二人は帰っていった。
消灯後、薫は天井を眺めながら、ぼんやりと一日の出来事を思い返していた。
ふと、ずっと抱いていた疑問を、思い切ってゆきにぶつけてみることにし、左側へ首を傾け、毛布の下から横たわったゆきへ視線を向ける。
「…なぁ、ゆき、疑ってる訳じゃないんだ…でも、記憶が無いと言っていたけど…どうして、契約の事は知ってたんだ?」
薫の問いかけに、ゆきは少し考える素振りを見せた後、脳裏に声が響いた。
『……わかんない…でも…契約のこと…解ってることだけ、頭の中にうかんだの』
要約すると、本人も解らないが、契約の方法とその内容だけは知っていた…という事か。
医者ではない薫には、何とも言えないが、漫画やドラマなどで、記憶は失っても、自身が学んだ知識は残っていると聞いた事もあるので、多分そういう事なのだろう。
『…薫おねえちゃんは…』
今度は、ゆきの方から話しかけてきた。
『…薫おねえちゃんの、おとうさんとおかあさん、おじいちゃん、おばあちゃんも、すごくやさしそうな人たち』
「ありがとう」
薫はごろりと寝返りをうち、ゆきと向かい合う。
『…あの、おにいちゃんとおねえちゃんは、薫おねえちゃんの、おともだち?』
「千奈都ちゃんと大和君?うん、私の幼なじみで、小さい頃からずっと仲良くしてくれてる」
『みんな、薫おねえちゃん、だいすきなんだね…薫おねえちゃん、優しいから…』
「…ありがとう。でも、きっと周りの人たちが優しくしてくれてるからだと思う」
薫は指先で、そっとゆきの小さな頭を撫でた。
「私は、私がして貰ってきた事を、真似してるだけだ」
『…でも、薫おねえちゃん、やさしいのほんと』
「ありがとう…ゆきも、優しいな」
『ゆき?』
「ああ」
薫が頷くと、ゆきは嬉しそうに、照れくさそうに、目を細めた。
『…薫おねえちゃん、みんなの事好き?』
「好きだよ」
薫は迷いなく答える。
短い言葉だが、偽りなどないと胸を張って言える。
少女の右耳がピクリと震えた。
『…ゆきの、ことも?』
「うん」
躊躇いがちな、おずおずとした問いかけに、薫は頷く。
出会ってから日は浅く、まだ、友達とは呼べないかもしれない。
それでも、生命の危機を共に乗り越えた事で、芽生えた仲間意識に似た繋がりと、他者を思いやる優しい心に、好感を抱いていた。
薫の返答に、ゆきは安心したように、ほっと表情を緩め、身体の力を抜く。
『ゆき、も…ね…』
瞼が閉じかけては開き、脳裏に響く言葉も途切れがちになってくる。
『薫…おねえちゃん…だい、すき…』
その言葉を最後に、ゆきは目を閉じ、すぅすぅと、小さな寝息が聞こえてくる。
完全に、眠りに落ちたようだ。
薫は、毛布の端をそっと摘んで、ゆきに掛け直し、指先でそっと撫でてやった。
指先から伝わる、仔犬のような柔らかな質感に、思わず目を細める。
生まれたての赤子のように、あどけないゆきの寝顔を見て、薫は胸が締めつけられた。
――――こんな小さな子が、あんなになるまで、一体どこで、どんな気持ちで過ごしてきたんだ……。
脳裏に出会った日の、悲惨なゆきの姿が思い浮かぶ。
ひょっとしたら、柔らかな布団の上で、安心して眠れたのは、今夜が初めてなのかもしれない。
――――記憶が無くなっても、ゆきの幼い心には、赤く深い傷が刻みつけられている。
自分が、その傷を癒してやれるなどと、身の程知らずな事は思っていない。
自分もまだ子供で、親に養われている身だ。
なんの地位も財力も無く、そんな自分が、ゆきに安定した生活を与えてやれるのかと言われたら、すぐには頷けない。
――――そして、常に瞼の裏には、あの怪物の影がちらついている。
また、あれと似たような奴が襲ってきたら、撃退できる自信は、正直言ってない。
今度はやられるかもしれない…無関係な周りの人間を、巻き込むかもしれないという、最悪な結果ばかりが頭の中を過ぎり、心臓が握り潰されるように痛む。
……それでも
自分を好きだと言ってくれた、無垢で純粋な信頼を、裏切る事だけは、絶対にしたくなかった。
(……ごめん、ゆき。私は、ゆきが思っている程、頼りになる人間じゃない。窮屈で、不便な思いも、きっと沢山させてしまう……それでも…)
守るなどとは、簡単に言えない。
だが、自分に出来る事は、何でもしてやりたい。
この先、どんな事があっても、けして、この子の手を離したりはしない。
――――いつか、ゆきが心から安心できる居場所を見つけるまで、自分がこの子を傍で見守っていこう。
あどけない寝顔を見つめながら、薫は胸の内で、密かに決意を固めた。




