第38話 三千対三万
地平線が、揺れていた。
土煙。
三万の軍勢が進むたび、大地が低く唸る。
重装歩兵の足並みは乱れず、騎兵の列は陽光を反射し、旗は空を埋める。王国の象徴たる紋章が、幾重にも翻っていた。
それはまさに、国家そのものだった。
対するは、丘に布陣した三千。
盾は磨かれているが、数は少ない。槍も弓も足りない。鎧も王都軍ほど豪奢ではない。
だが、立っている。
逃げない。
その事実だけが、静かに熱を帯びていた。
◇◆◇
「距離、五百!」
伝令の声が張り上げられる。
風が止まった。
討伐軍の先頭が、視認できる距離に入る。
若い兵の喉が鳴る。
手が震えている。
隣の老人兵が、そっと肩に触れた。
「震えるのは、生きている証だ」
若者が顔を上げる。
「怖くないんですか」
老人は、小さく笑う。
「怖いに決まっとる」
そして、遠くに立つアレンを見る。
「だがな。あの男は、もっと怖いはずだ」
◇◆◇
丘の最前。
アレンは、ただ前を見ていた。
三万。
圧倒的な壁。
一度、深く息を吸う。
守ると決めた。
ならば、揺れるな。
「弓隊、構え」
声は静かだ。
「第一射、牽制。殺しすぎるな」
参謀が一瞬だけ目を見開く。
「……本気ですか」
「相手も、民だ」
それだけだった。
◇◆◇
討伐軍、前進。
太鼓が鳴る。
重い、圧のある音。
「射て!」
アレンの声。
弦が鳴る。
無数の矢が、空を切る。
黒い雨。
討伐軍の先頭に突き刺さる。
悲鳴。
だが、崩れない。
数が違う。
すぐに穴は埋まる。
「前進続行!」
王都軍の号令が響く。
◇◆◇
やがて、ぶつかる。
盾と盾。
槍と鎧。
衝撃が丘を震わせた。
若い兵が押し込まれる。
重い。
強い。
数が違う。
「踏ん張れ!」
老人兵が叫ぶ。
「下を見るな!前だけ見ろ!」
若者が歯を食いしばる。
足が滑る。
その瞬間。
背中に、別の盾が当たる。
「俺がいる!」
後列の兵が支える。
押し返す。
一歩。
たった一歩だが、確かに押し戻した。
◇◆◇
アレンは戦場を駆ける。
最前ではない。
崩れそうな場所へ向かう。
倒れた兵を起こし、槍を拾い、空いた隙間に立つ。
領主が、兵と同じ地面に立っている。
それだけで、崩れかけた心が繋がる。
「若!」
老人兵が叫ぶ。
騎兵が突破してくる。
速い。
重い。
そのまま突っ込めば、陣が裂ける。
アレンは迷わない。
「第二陣形、縮小!」
瞬時に兵が動く。
隙を作り、騎兵を引き込む。
「今だ!」
左右から槍。
馬が悲鳴を上げ、騎兵が落ちる。
だが、その衝撃で若い兵が弾き飛ばされた。
地面に叩きつけられる。
騎兵の剣が振り下ろされる。
「――!」
若者は目を閉じる。
だが。
金属音。
アレンの剣が、それを止めていた。
火花が散る。
「立て」
短い一言。
若者の目に、涙が滲む。
「はい!」
立ち上がる。
再び盾を構える。
◇◆◇
だが、押し寄せる波は止まらない。
一時間。
二時間。
三千は削られていく。
百。
また百。
確実に減る。
討伐軍も傷ついている。
だが数が違う。
参謀が叫ぶ。
「右翼、崩れます!」
そこは村へ続く道。
突破されれば、民が巻き込まれる。
アレンは一瞬だけ目を閉じた。
(間に合うか)
走る。
息が切れる。
肺が焼ける。
間に合わない。
その瞬間。
右翼の兵たちが、自ら前へ出た。
「ここは通さない!」
若い兵が、盾を地面に突き立てる。
その横に、老人兵。
「若に、守らせるな!」
二人が並ぶ。
さらに、三人、四人。
小さな壁ができる。
押し寄せる王都軍。
衝突。
盾が割れる。
血が飛ぶ。
それでも、退かない。
若い兵が倒れる。
老人兵が受け止める。
老人兵も膝をつく。
それでも盾を離さない。
アレンが辿り着いた時、そこは血で赤かった。
だが。
道は、守られていた。
「……なぜ」
アレンの声が、震える。
老人兵が笑う。
血を吐きながら。
「守るんでしょう」
「……ああ」
「なら、わしらも守る」
その手が、ゆっくりと落ちる。
アレンは、その手を握る。
温もりが、消えていく。
胸の奥で、何かが軋む。
怒りではない。
絶望でもない。
もっと重い。
守れなかったという痛み。
それでも。
立つ。
立たなければならない。
アレンは立ち上がる。
血に濡れた剣を握る。
振り向き、三千を見る。
もう三千はいない。
だが、まだ立っている者がいる。
「聞け!」
戦場の音を裂く声。
「俺は、お前たちを忘れない!」
兵が顔を上げる。
「今日ここで倒れても!
守った事実は消えない!」
剣を掲げる。
「守るぞ!」
声が返る。
「守る!」
その瞬間。
遠くで、新たな旗が翻った。
王家の直轄旗。
中央本隊。
まだ本気ではなかった軍が、ついに動く。
数千の増援。
丘を包囲する陣形。
参謀の顔が青ざめる。
「……終わりです」
アレンは、その旗を見つめる。
息を吐く。
そして、静かに言った。
「いや」
目が、燃えていた。
「ここからだ」
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