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四季の果実亭のガラス窓から見える空がだんだん暗くなってきたので、そろそろ劇場へ移動しようということになった。
最高にいい気分だったアリーヌはスヴェンに
「チケットを用意して下さって、本当にありがとうございます」
と感謝の気持ちを述べた。
「いえ」
とスヴェンは堂々とした態度で答えた。
「スヴェン王子が取ったチケットなんだから、きっといい席なんでしょうね」
とシルヴィが言ったところ、スヴェンは目を細め、口の両端を持ち上げて微笑んだ。彼の意味ありげな含み笑いにアリーヌはかすかな違和感を覚えたのだが、その後でスヴェンが
「ああ、いい席だ」
と声に出して肯定したため、アリーヌは彼の言葉をそのまま受け止めた。
先日ニコラスがスヴェンについて『彼は顔が広いから、つてもたくさんあるだろうし』と言っていたことを思い出し、きっといい席なのね、とアリーヌの胸が期待で高鳴る。
楽しみだわ~!! ああ、何てすばらしいのかしら!!
アリーヌは鼻歌でも歌いたい気分だった。
そんな会話を繰り広げてから彼らはまた二台の馬車に分かれて、今度は劇場へと向かった。
フェーベ大陸最大最強のティティス帝国が誇る劇場は、武力だけでなく芸術の面でも優れていた帝国の始祖オリヴィール一世により建設されたものである。当時の皇帝の権力を誇示するために造られた、ティティス帝国で一番(そしてそれは同時に大陸一を意味する)大きい劇場だ。ただ単に広くて大きいだけでなく、柱や内装に至るまで豪奢で優美な装飾が散りばめられている。
歌劇の開演までにはまだ時間があったが、六人はさっさと劇場の中に入った。開演時間が近付くにしたがって当然客の数が増えるわけだが、そうすると自分たちの知り合いに出くわすかもしれない。貴族にとってはそれもこの劇場に来る理由の一つである。つまり、観客たちがこの劇場を社交の場にするのだ。
スヴェンやニコラスはそれを目的にこの劇場を訪れたことがあるが、今の彼らは見知った誰かと顔を合わせるようなことになることが煩わしかった。せっかくの気心の知れた仲間たち、そして恋人との極めて私的な時間なので、人と会わないようにするためにも、彼らはかなり早めに劇場に入ったのだ。
スヴェンが手配した席は、最上階である四階のボックス席だった。舞台の真正面だったので舞台全体を見渡すのには適しているだろうが、それでも舞台との距離は遠かった。これでは演者の姿は米粒のように小さくしか見えないだろう。
アリーヌは具体的には、舞台と距離が近い一階席の前のほうとか、ボックス席なら皇族専用席がある二階の上手あたりを想像していたから、正直なところこの事実にかなり落胆した。期待してうきうきしていたぶん、気を抜くと泣きそうになるほどにがっかりしてしまった。
………どうしてスヴェン王子は『いい席だ』なんて言ったのかしら……?
確かに舞台の真正面ではあるけれど、これではとてもいい席とは思えないわ……。
アリーヌは四季の果実亭でのスヴェンの言動がどうしても解せなかった。
それでも、せっかくチケットを手配してくれた彼に対してふてくされたような態度を取るわけにもいかず、アリーヌは必死に自分を律して普通に振る舞おうと努めた。
アリーヌは仕方なくあちこちに目を向けた。床にはふかふかのじゅうたんが敷かれており、柱には大理石が使われていた。
両隣のボックス席とは真っ白な壁で完全に隔てられており、塗料に粉々に砕いた貝殻でも入っているのだろうか、あちこちに灯されたろうそくの火がかすかに揺れるたびにきらりと鈍く光った。
舞台のほうに目をやると、開演前であるため金の糸で縁取られた橙色の緞帳が下りていた。この劇場の建設者オリヴィール一世自らが再来であると宣言したティティスの古代神話の軍神の壮大な絵と無数のクリスタルで飾り立てられた巨大なシャンデリアが天井を彩っていた。
ボックス席にはいかにも座り心地のよさそうなベルベットの二人がけの椅子が三つ、それぞれ少しずつ離れながらも一列に並んで置かれていた。右側の椅子にスヴェンとイヴェットが、左側の椅子にニコラスとシルヴィが座ったので、アリーヌはラザールと一緒に真ん中の椅子に腰を下ろすことになった。
六人は雑談して開演までの時間を潰したのだが、いつもはシルヴィと二人であれこれ話すことが多いアリーヌは言葉少なだった。
アリーヌはぼんやりと一階席を見下ろした。着飾ったさまざまな年代の紳士淑女の数が少しずつ増えていき、ついさっきまで大多数だった空席がどんどん埋まっていった。それに比例するように開演を待つ人々のおしゃべりによるざわめきの音量が大きくなった。
舞台を引き立たせるためか、ボックス席に入る前の廊下と舞台、天井のシャンデリアは明るかったが、席内部には光源はなく、薄暗かった。
そんな環境でアリーヌはほうっと一つ息を吐き、そうすることで自分の内側に溜まっていた失望を逃した。せっかくスヴェンのおかげで憧れの劇場で歌劇を観ることができるのだ。自分が思っていた席ではなかったからといっていつまでも落ち込むのは損だ。そう気持ちを切り替えて、アリーヌは舞台に集中しようとした。
ところが、アリーヌはそうできなかった。開演と同時に、アリーヌの右隣に座るスヴェンとイヴェットが濃厚な睦み合いを始めたからだった。とはいっても、イヴェット本人がそれを望んでいたわけではないので、スヴェンがイヴェットに対し彼の思うままに振る舞ったとでも表現したほうが正しいのかもしれない。
三つの椅子の間にはそれぞれ距離があったから、アリーヌのすぐ真横にイヴェットがいるわけではなかった。アリーヌも二人を直接見ることははばかられたため、反射的に体をわずかに左隣に座っているラザールのほうへ向けてしまった。
それなのに不思議なもので、アリーヌには隣のイヴェットと彼女のさらに奥にいるスヴェンが何をしているのか、音と気配で察することができた。イヴェットがもらす切なげな息遣いや、スヴェンが彼女にくちづける露骨な音が聞こえてきたのだ。
アリーヌは右隣の二人ではなく正面の舞台に集中しようとしたのだが、二人の濃密なやりとりを聞いてはいけないと思えば思うほど、耳が勝手に舞台の演者の歌声ではなく二人が作り出す音を拾おうとしてしまう。二人を見ていないからこそ余計に想像をかき立てられるのだろうか、アリーヌはスヴェンがイヴェットにくちづけたり、彼女の体に触れたり、挙句の果てには彼女のドレスのスカート部分の内側に手を入れている光景なども思い浮かべてしまい(これはあくまでアリーヌの想像で、実際にスヴェンがそうしたのかどうかアリーヌには分からなかったが)、一人赤面した。耳の先まで真っ赤になっているのを自覚し、アリーヌはそれを明らかにしないこの席の暗さに感謝した。
それと同時に、アリーヌはどうしてスヴェンがこの席をいい席だと言ったのか理解した。
この劇場は卵のような楕円形をしているのだが、もし今アリーヌたちが座っている舞台の真正面の席ではなく側面の席だったなら、対面のボックス席の観客に見られてしまう可能性がある。その点、この席は正面が舞台なので真向かいには観客はおらず、誰かに見られる心配もない。加えて、最上階の席であるため、誰かに見下ろされる心配もない。
壁が隣のボックス席と完全に空間を隔ててくれるから、このボックス席はほぼ独立した個室だった。ローゲには他にもいくつか劇場があるが、どの劇場のボックス席も隣との境界線は柱や簡単な仕切りで、この劇場のような造りではない。
あああ……、そういえば聞いたことがあるわ、この劇場は秘密の恋人たちの逢い引きによく使われるって……。
確かにそうかも……。皆の目は舞台に向けられているだろうし、ちょっとくらい物音を立てたって、隣のボックス席には聞こえないだろうし……。
アリーヌは耳を塞ぎたいのを必死にこらえていたのだが、無意識のうちに彼女の視線はイヴェット、スヴェンとは逆、つまりラザールとその奥のシルヴィ、ニコラスの方向に流れた。
シルヴィはニコラスに寄りかかっているようだった。だが、アリーヌの背後から漂ってくるようなあからさまな濃厚な甘さは彼らからは感じられなかった。先日シルヴィが言っていたように、眠ってしまったのだろうか。彼女は出かける前にニコラスと剣の稽古に勤しんでいたし、こう暗いと眠くなっても不思議ではない。
ああ―――っ!! 私もいっそシルヴィみたいに寝てしまったほうが幸せなのかしら!?
でも、せっかくこの劇場で憧れの歌劇観賞だから、そんなもったいないこと、できない―――っ!!
ああ~っ、集中できないなんて、私の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!!
アリーヌは心の中で自分をなじった。自分の右隣の熱々の恋人たちなんて気にもかけない鉄の心臓が欲しいと心底思った。
隣に座っているラザールはどうなのだろう。自分と同じようにスヴェンとイヴェットに対して戸惑っているのだろうか。それとも舞台に集中しているのだろうか。はたまた、シルヴィのように居眠りしているのだろうか。
そんなことを疑問に思ったアリーヌは、自分のすぐ横のラザールをそっと盗み見た。
彼は顔を隠すように左手で額に触れ、右ひじを折り曲げた先の右手で彼の左のひじを支えるような姿勢をしていた。アリーヌが彼にちらりと目をやった時にはあっと息を吐き出した。
どうやらラザールもアリーヌと同じように歌劇どころではないようだ。イヴェットとスヴェンの熱に当てられたのは自分だけではないと知って、アリーヌは何だかほっとした。




