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実際、ラザールは気の持ちようが分からなくて戸惑っていた。この環境を利用してスヴェンが妹のイヴェットに何をしているのか、兄として気が気でなかった。
本当は今すぐにでも立ち上がって親友と妹の間に割って入りたいくらいだったが、薄暗いせいなのか、それとも劇場という自分の領域ではない場所のせいなのか、普段はしっかりしている彼の価値観がかつてないほどにぐらぐらと揺らいだ。
結婚前の男女が抱き合ったり挨拶以上のキスをしたりするなんて、真面目な彼の中ではあり得ないことだった。そしてそれがここティティスでは当たり前の社会規範だとラザールは信じていた。
ところが、自分の婚約者であるアリーヌも含めた状態で、ティティス的価値観が当然ではない異国人であるスヴェン、ニコラスと一週間ずっと一緒にいたせいなのか、それともシルヴィに『朴念仁』だの『無粋』だの『野暮』だの散々責められたせいなのか、親友たちや妹たちに口うるさく注意してしまう自分や自分の感覚のほうが変なのだろうかという疑念が彼の頭をもたげた。
自分の思考や信念に自信が持てなくなったラザールはもう一度小さくため息をつき、今度は腕を組んだ。その時にアリーヌの視線に気づき、ラザールはふと隣に座る彼女に目を向けた。
二人の目が合い、アリーヌは何となく気恥ずかしくなって思わずきゅっと目を閉じた。
ああ……。
隣のイヴェットとスヴェン王子はもっとすごいことをしているのに、私ったら目が合ったくらいで気まずくなるなんて、ラザールのことを笑えないわ……。
それにしても、私ったら、こんな純情だったかしら……?
シャンデリアから届く頼りない光がアリーヌの困惑顔を浮かび上がらせ、ラザールの目はそれに釘づけになった。
少し下がった眉尻や、しわが寄った眉頭や、伏せられた彼女のまつ毛や、少しだけ空いた口……。いつもは幼さを残している彼女の表情が今この時は大人っぽく、そして妙に艶っぽく見えた。
ラザールの頭は思考停止状態に陥った。
彼はまるで磁石に引かれるように、蜜を求める蝶が花に吸い寄せられるように、アリーヌのくちびるに自分のそれを重ねた。体が勝手に動いていた。
ええっ!?
自分の身に何が起きたか分からなくて、アリーヌは慌てて目を開けた。オレンジ色がかったシャンデリアのろうそくの明かりのせいで実際の色より暗く濃く見えるラザールのまつ毛が見えたし、彼女の鼻先にはラザールの肌が当たっている。
それでも、普段の奥手なラザールの性格を知っているアリーヌは、自分が直面している事態を信じることができなかった。
えええ―――――――っ!?
うっ……うっ……嘘でしょ!? だって、あのラザールよ!?
あのラザールが、し……信じられない……!!
あまりの驚きで呼吸が止まったアリーヌは息苦しく、動揺で脱力してしまい、まるで誰かに後ろから引っ張られたように椅子の背もたれへと倒れ込んだ。
彼女のくちびるが離れ、漠然と物足りなさを覚えた時、ラザールははっと我に返った。今まで真っ白になって何も考えることができなかった彼の脳が再び動き出し、自分の行動に呆然としながら、ラザールは思わず右手で口元を覆った。そうしないと発狂してしまいそうだった。
手で口を塞ぎながら、急に頭に血が上り、ラザールの感覚がぐるぐると回った。どくんどくんと音を立てて激しく収縮する心臓が熱せられた血液をどんどん送り出すせいで、手の指先から足先に至るまで、ラザールの体がにわかに熱を帯びる。熱を下げようとする体の機能のせいなのか、それとも動揺のせいなのか、ラザールの体中から汗が噴き出し、彼は今自分が暑いのか寒いのかさえ分からなかった。
おっ……俺は今、アリーヌに何をした!?
一体何をしてしまったんだ!?
そう自問したが、彼のくちびるがその答えを知っていた。今触れているごつごつとした自分の指とは全く違う、今までに一度も経験したことのないとてつもなく柔らかい感触の名残が彼のくちびるにはまだ残っていた。
何てことだ……!!
結婚するまでこんなことしないつもりだったのに……!!
ラザールは無意識のうちにアリーヌにしてしまった自分の行動に動揺した。自分はいついかなる時にも自分自身を完全に制御できると信じていたのに、他の誰でもない自分が自分を裏切ってしまった。その事実が彼をさらに動揺させた。これでは親友の妹に対する振る舞いにあれこれ口を出す資格などないではないか。
ところが、アリーヌの意思が分からないのにキスをしてしまったことに対する彼女への謝罪の気持ちはあったものの、後悔の念は彼の心には全く湧かなかった。それどころか、許されるならばもう一度あの柔らかい感触を味わいたいとさえ思ってしまった。そんな隠しようがない自分の本音がラザールをさらに動揺させる。
心の中心から湧き上がった欲望を忘れるために、ラザールは頭を振った。
い……今は俺のことはどうでもいいんだ……!!
アリーヌは自分の突然の行動をどう受け止めただろう。彼自身が一番驚いているのだから、彼女を驚かせてしまったことは間違いないだろうが、不快にさせてしまっただろうか。怒っていないだろうか。
ラザールはからくり人形のようなぎこちない動きで、恐る恐る自分の右横に座っているアリーヌに顔を向けた。
彼女は目を見開き、ぽかんと口を開けて、背中をすっかり椅子に預け、両手で胸を押さえていた。彼女の両手の下の胸元が彼女の呼吸の音に合わせて上がったり下がったりしている。
ラザールはアリーヌを驚かせてしまった罪悪感に苛まれつつ、ゆっくりと右腕を伸ばした。これ以上彼女を驚かせることのないように、彼にとって一番近くにあった彼女の左肩にそっと手を置いた。
するとアリーヌが瞬きしながら目と顔をラザールのほうに向け、再び二人の視線が交わった。
同じ過ちは繰り返さないことを人生の信条としているラザールだったが、彼の頭はまたもや真っ白く焼きついてしまった。
彼の体は彼の意思とは全く関係なく勝手に動き始める。アリーヌの肩先に置いた手を彼女の背中へとすべらせ、そのまま自分のほうへと引き寄せると、彼女の体はあっけなくラザールの胸元へなだれ込んだ。
ラザールは苦しくて仕方なかった。アリーヌにもっと触れたい。もっとキスをしたい。もっとあの柔らかい感触を味わいたい。もうそれしか考えられなかった。一気に膨張した彼の欲望が彼の心を占拠し、彼の胸はじんじんと痛んだ。
背中に回されたラザールの腕から力強さと熱を感じ、アリーヌの胸がさらなる驚きでいっぱいになってしまった。アリーヌは自分の身に起きていることが信じられなくて、すがるようにラザールの上着を両手でぎゅっと握りしめた。
アリーヌは顔を伏せていたわけではなかったが、かといって上を向いていたわけでもなかった。だが、ラザールは彼の二人の親友のように自然に婚約者の頬やあごに手を当てて上を向かせるなんて高度なことはできなかった。その代わりに彼自身がアリーヌの顔の高さに合わせて自分の顔と体を動かし、本能に突き動かされたラザールはもう一度彼女とくちびるを重ねた。
ぼんやりとした頭が自分の行動をおぼろげながら認識しているのに、ラザールは自分自身を止めることができなかった。
どうすればいいんだろう……?
だめだ、止められない……。
葛藤を抱きながらもラザールはそれから目をそらすことを選び、何度も何度もアリーヌにくちづけた。最初は彼女のくちびると自分のくちびるがそっと触れるだけで目眩がするようだったが、繰り返しているうちにだんだんそれでは物足りなくなってきて、ラザールは自分のくちびるを彼女に強く押し当てた。
ラザールにとって幸いだったのは、彼女にくちづける回数を重ねるたびに、激しく燃え上がる山火事のような自分でも制御できないほどに狂おしい感情が少しずつ落ち着いていったことだった。
はたと我に返ると急に恥ずかしくなって、ラザールはアリーヌにくちづけるために少し前に屈めていた上半身を起こし、慌てて背筋を伸ばして、自分の胸元にアリーヌの顔を押しつけるようにして彼女を抱きしめた。
今の状態でも普段の彼に比べたら著しく冷静さを欠いていたのだが、それでもいくらか落ち着きを取り戻したラザールは自分の行いを思い出して赤くなり、アリーヌの反応を恐れて青くなった。士官学校の訓練で校庭を全力疾走した時のように心臓はどくどくと動きっぱなしだし、そのせいで酸素が足りないのか、息苦しさは収まってくれず、相変わらず頭がぐるぐると回っている。
それでも、ラザールの胸には今までに抱いたことのない種類の気持ちが存在して、それが彼の胸を甘く締めつけた。苦しいのに、それ以上に温かく、柔らかく、喜びをともなう、ラザールにしてみれば不思議な感情だった。
一方のアリーヌは、動揺と呼吸困難でくらくらしていた。空を飛んでいるかのようなふわふわした感覚だった。ラザールのキスから解放され、その後で抱き寄せられたので、アリーヌは彼の胸に寄りかかっている状態だったのだが、そんな彼女の耳のちょうど横にはラザールの胸があり、その鼓動が彼女の意識をはっきりとさせた。
ラザールの心音は少しも間を置かず、どくどくどくどくどく……と常に速く脈打っている。
アリーヌは最初、その鼓動が自分のものだと誤解した。彼女の心臓もラザールの心臓に負けず劣らず速く動いていたが、アリーヌはふと、自分の耳に届く鼓動が自分の内側からではなく外側から響いていることに気づいた。
ラザール……。
ちゃんと、どきどき、して……くれているのね……?
彼は年の割に落ち着いている人だから、自分とキスをしたとしてもそれで感情が昂るなんてことはないのだろう。同年代の男の子たちとは違って、そもそも恋愛事に興味自体がなさそうだ。
アリーヌはラザールに対し、そんなふうに思っていたし、そう思うようにしていた。
だから彼に期待なんてしないほうがいい。だから自分が心の奥底で望んでいるときめきなんて絶対に味わうことなどできないのだ。
彼女は必死に自分にそう言い聞かせ、諦めようとしてきたのだ。
けれど、今アリーヌのすぐ隣にいる彼の心臓は弾んでいる。アリーヌの耳がとらえる彼の心音がそれを証明している。
そしてアリーヌ自身の心臓も、彼の鼓動に合わせるようにどくどくと速く激しく収縮を繰り返している。
ラザールと婚約して5年以上経つのだが、アリーヌはラザールに対してこんなふうに胸をときめかせたことなどなかった。二人の間に甘い空気が漂ったことは一度もなかったし、アリーヌはラザールを年下の男友達のようにしか思えなかったからだ。
しかし今、自分も、そして彼も、相手に対して友達以上の気持ちを抱いている。婚約者という立場にふさわしい胸の動きだ。
やっと、出会えた……。
アリーヌはラザールの鼓動に耳を傾けながら、そっと自分の胸を押さえた。彼女の指が体から飛び出してしまいそうなくらい元気よく跳ねる自分の心臓の動きを感じた。
これが、私が夢見ていたときめき、よね……?
私にはきっと一生縁がないものだと諦めていたけれど、でも、やっと会えた……!!
諦めようとしていたきらきらと光り輝くものとの邂逅に、アリーヌは瞳を潤ませながら婚約者の腕の中でそっと微笑んだ。
『フェーベ大陸の恋人たち』シリーズの話の流れとしては、『気難しい王子とそんな彼の婚約者』(https://novel18.syosetu.com/n0404es/)の番外編『スヴェン 覚悟の謝罪旅』に続きます。




