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翌日も、その翌日も、風邪を引いて体を休めているイヴェットはもちろん、他の誰も出かけなかった。
イヴェットは風邪を治すことに集中し、また、風邪を誰かにうつすことを恐れ、食事の際も自分の部屋から出ることはなかった。
イヴェットをのぞいた五人は、そのどこにも行かなかった二日間をナルフィ家別邸で思い思いに過ごした。昼寝をしたり、庭を散歩したり、カードゲームに興じてみたり、シルヴィとアリーヌが観劇に出かける際の服装について話している間に男三人は酒を片手にだらだらしたり、シルヴィとニコラスが剣の稽古をしたり、スヴェンは先日街で買った本を読んだりと、全員がそれぞれゆっくりと流れる時間を楽しんだ。
そしてアリーヌにとっては待ちに待った歌劇を観にいく予定の日、もうそろそろ午前も終わろうとしているような遅めの時間に一同は食堂に集まり、朝食兼昼食を一緒にとった。この日はとうとうイヴェットも姿を現した。
イヴェットも今日という日を楽しみにしていたから、昨日も一昨日も体の回復だけを考えて部屋で大人しくしていた。なるべく横になるようにしていたが、全く眠気を覚えない時にはスヴェンのために何かを作ろうと手芸に勤しんだ。
昨日の時点で熱も下がり、薬のおかげかのどの痛みもすっかり消えたので、イヴェットは食堂に来る前にゆっくりと風呂に入った。昨日まではこまめに体を拭いたり寝巻きを取り替えたりはしたが、入浴は避けていたため、家族や婚約者に会う前にどうしても体をさっぱりさせたかった。
ゆっくりと湯に浸かり、丁寧に髪を洗ったから、イヴェットは食堂に行くのが一番最後になってしまった。自分を待たずに先に始めてほしいと女官のアレクシア経由で兄ラザールに伝えておいたため、彼女が食堂に着いた時、他の五人はすでに食べ始めていた。
食堂の入り口に立ったイヴェットに一番最初に気づいたのはアリーヌだった。
「イヴェット! 元気になったのね!? よかった!」
アリーヌは声を弾ませて思わず立ち上がった。
「姉上、体調はどう?」
扉に背を向けた状態で座っていたシルヴィは、アリーヌの言葉で慌てて手に持っていたカトラリーを置き、勢いよくばっと振り返った。
イヴェットはアリーヌとシルヴィを見つめながら食堂の中に入った。
「ええ、元気になったわ」
イヴェットが妹に対してそう答えているうちに、スヴェンが席を立って大股の早足で彼女との距離を縮めた。
自分の前にスヴェンが立ち塞がったから、彼女の目は自然と彼に向けられた。
「イヴェット」
スヴェンと目が合っただけで、彼に名前を呼ばれただけで、イヴェットの心臓の動きが速くなる。
イヴェットは体調が悪い時とは違った息苦しさを覚えながら、ドレスのすそをつまんで頭を下げた。
「先日はいろいろいただいてしまって、どうもありがとうございました」
「そんなことはいいんだ」
イヴェットが体勢を元に戻すと同時に、スヴェンは伸ばした左腕を彼女の腰に回し、右手で彼女の左手をとらえた。彼はそのままイヴェットの体を自分のほうへ引き寄せ、彼女の左手の指にくちびるを押し当てた。
彼に会わなかった三日間で募った彼への恋しさが溢れ、その三日の間に起きた自分の心境の変化を思い出し、イヴェットの動悸がますます激しくなる。
「スヴェン!!」
抗議するようなラザールの声に、イヴェットははっと我に返った。
彼女は慌てて、スヴェンはゆっくりと、それぞれラザールのほうを見た。
ラザールはすごむように険しい表情で腕を組んでいた。
「まぁまぁ、落ち着いて、ラザール」
「三日ぶりの再会なんだ。盛り上がりもするさ」
「兄上ったら本当に野暮ね!」
アリーヌ、ニコラス、シルヴィがそれぞれラザールをなだめた。
スヴェンとイヴェットに自重を促す言葉をかけようと思っていたラザールは、三人になだめられ、しぶしぶ言葉を飲み込んだ。言葉で抵抗を示す代わりに、ラザールは腕を組んだ姿勢のままむすっと押し黙った。
横に座っていたラザールのそんな反応に、アリーヌが気を利かせる。
「ほら、イヴェット、食べましょう? 席に着いて」
「は……はいっ」
イヴェットはアリーヌのほうを見てから視線を目の前のスヴェンに戻した。スヴェンが自分の左手をとらえているから、イヴェットは自分一人の意思で歩き始めるわけにはいかなかった。
スヴェンはイヴェットの腰に回していた左腕を動かして彼女を解放した後で、ひじを折り曲げたその左腕をイヴェットに差し出した。
イヴェットがどきどきしながら彼の腕につかまると、スヴェンは彼女を先導するように歩き出す。
二人はそのままアリーヌとスヴェンの間にある席まで移動し、スヴェンはその椅子をイヴェットのために引いた。
「ありがとうございます」
イヴェットはゆっくりと椅子に腰を下ろした。本当はスヴェンの目を直接見て礼が言えればよかったのだが、彼と目が合ったら体温が上がってしまうと思ったイヴェットは気恥ずかしさからそうすることができなかった。
自分の席に座り、ふっと小さく息をもらしたイヴェットは、自分でも無意識のうちに両手で左右の頬に触れた。結局のところ、スヴェンと目を合わせなくても、彼女の体はどんどん熱くなっていく。
スヴェンはイヴェットが椅子に腰かけるのを手伝った後で、彼の席に座った。それを物音と気配で感じとったイヴェットは、彼が自分の隣に座っていることを強く意識してしまい、発作的に彼とは逆側のアリーヌのほうに目と顔を向けてしまう。イヴェットはどうしてそんな行動をしてしまうのか、自分でも分からなかった。
アリーヌのほうはイヴェットを見つめていて、目が合うと彼女はくすっと笑った。
「あら~? イヴェット、何だか顔が赤いわよ」
アリーヌにからかわれて、イヴェットはますます顔を赤らめた。
アリーヌはイヴェットがスヴェンの愛情表現のせいで赤くなったことを知った上でそう言ったのだが、ラザールはアリーヌの言葉を真に受けた。
「何っ!? イヴェット、熱が上がったんじゃないか? 今日出かけるのはやっぱりやめておいたほうがいい」
ラザールは妹の体調を心配してそう提案したのだが、彼以外の人間はイヴェットの風邪がぶり返したわけではないと分かっていたので、ラザールの反応に苦笑した。
「だ……大丈夫です……」
兄に今日の皆との外出を禁止されることを恐れ、イヴェットは慌ててラザールの提案を控えめに拒んだ。
そこへイヴェットのぶんの食事が運ばれてきたため、それを機に彼女はカトラリーを手にし、他の五人は食事を再開した。
「それにしても、明日には帰らなければならないなんて残念だわ……」
アリーヌは肩を落とした。この六人で一緒に過ごすことができるのは今日が最後だ。今流れている時間が楽しいものだからこそ、アリーヌはそれがもうすぐ終わってしまうのが余計に悲しかった。
「アリーヌご希望の観劇には行けるけど、結局あの店には行けなかったわね」
シルヴィも残念そうに言った。
「あの店?」
ニコラスがシルヴィに尋ねたので、店の名前を思い出すことができなかったシルヴィは
「ほら、姉上とスヴェン王子が行った、何て名前の店だったかしら?」
とアリーヌに助けを求めた。
「ああ、四季の果実亭ね。そうだったわ! すっかり忘れていたわ……」
でも、仕方ないわね……。
観劇できるだけでも幸運だと思わなくては……。
アリーヌは心の中でそう続けた。
「今日劇場に行く前に行けばいいんじゃないか?」
スヴェンがシルヴィとアリーヌを交互に見ながら提案した。
「えっ!?」
「いいのですか!?」
そんな考えがなかったシルヴィとアリーヌは顔に驚きと歓喜を浮かべた。
「そのぶん早くここを出る必要があるだろうが、それでもいいなら」
「いいですっ!! だから四季の果実亭にも行きたいわっ!!」
アリーヌが隣に座っているラザールの反応をうかがった。
「賛成っ! そうしましょうよ!」
シルヴィもアリーヌに同調した。
「ね? いいでしょ? ニコラス」
期待に目を輝かせてシルヴィがニコラスに問うと、ニコラスは
「俺は構わないが……」
とうなずいてラザールに目をやった。
ラザールはやれやれと半ばうんざりしながらふうっと息を吐いた。こういった最終決定を下すのはなぜだかいつも彼の役目なのだ。
「イヴェット、それでもいいか? 体は大丈夫か?」
「はい、お兄様。……私も行きたいです」
シルヴィとアリーヌに続き、普段あまり自分がどうしたいか願望を口にしないイヴェットまでもがはっきりとした意思を表明したから、ラザールとしても拒否する選択肢はなかった。そんなことをしたらシルヴィにもアリーヌにも恨まれそうだ。
「分かった。行こう」
ラザールの返事にシルヴィとアリーヌは無邪気に喜んだ。
「やった!!」
「ありがとう、ラザール!!」
ラザールの隣に座っているアリーヌは心底嬉しそうに笑った。彼女のはちきれんばかりの笑みがラザールにはとても眩しく感じられた。
「いや……」
見ているこちらまで元気になれるような、そんな笑顔だった。こういうアリーヌはとてもかわいらしいとラザールは思う。
ラザールの目はアリーヌに釘づけになってしまったのだが、そのことに気づいていない彼女は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌な様子でカトラリーを動かし、食べ物を口に運び、もぐもぐと頬張った。彼女のそんな一連の動作も、ラザールは何だか愛らしいと思った。
口の中のものを飲み込んだ後にラザールの視線に気づいたアリーヌは、きょとんと首を傾げた。彼女は何も言わなかったが、どうかしたの? と彼女の大きな瞳が訊いていた。
ラザールは我に返り、慌てて左右に首を軽く振りながらアリーヌから目をそらした。そして彼は何もないことを装うために、自分の皿に視線を落とした。
彼は自分がいつもの自分とは少し違うことを自覚した。『いつもの』というよりは、『今までの』のほうが正しいのかもしれない。
アリーヌは自分の婚約者だ。だから大切にしなければならない。
ラザールにとって大切にするというのは、自分が彼女の評判に傷をつけるようなことをしてはいけないという意味だ。
彼女が世間から後ろ指を指されるような事態になるのを避けるために、ラザールがするべきこと、あるいはするべきではないことについては、ちょうどラザールの周囲に好例がある。スヴェンとニコラスだ。もっとも、彼らはティティス人ではない。すなわち彼らとは文化的背景が違うということで、彼らのラザールの妹たちへの態度や言動に対して寛容な姿勢を見せる者も多いだろう。そのぶん責めを負うのはイヴェットとシルヴィだろうから、ラザールとしてはその点も含めて心配しているのだが。
だからこそ、ラザールは意識してアリーヌとの身体的・心理的距離を保つようにしていた。
今までは彼は完璧に自らの意志を貫いてきた。
ところが、今回は今までとは勝手が違う。さっきのように無邪気に笑っている彼女を見ると、何だか抱きしめたくなってしまうのだ。スヴェンがイヴェットに対して、また、ニコラスがシルヴィに対してそうする時、ラザールは妹たちの評判のためにもやめてほしいと思うのに、自分自身がアリーヌに対して同じことをしてみたいと思う気持ちが急に彼の中で頭をもたげる。
ラザールの中でそんな変化が起きたのは、数日前に遠乗りに出かけてからだった。
今までは堅固だった自分の決意が今はぐらぐらと揺らいでいる気がして、ラザールは自信を持つことができなかった。
ラザールは内心かぶりを振った。
彼とアリーヌは来年の4月に結婚することが決まっている。
それまでの半年間、しっかりと理性を保ち、今まで同様の距離感を維持し、彼女とは節度を持った付き合い方をしていかなければならない。そしてそのことがアリーヌの名誉を守ることになるのだ。
ラザールは改めてそのことを確認したのだが、アリーヌのあのはちきれんばかりの笑顔を見たら自分の決意もぐらつきそうな気がして、彼は食事中ずっと彼女のほうを見ることができなかった。