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イヴェットがベッドの上で座ったままそっと喜びをかみしめていると、アレクシアが戻ってきた。
アレクシアは隣の居間でお茶の準備が整ったことを報告し、イヴェットの体が冷えないよう、彼女にガウンをはおらせた。
イヴェットは先ほどわきに置いた二冊の本をサイドテーブルの上へと移動させてから、ブーケをこのまま寝室に残すか、それとも一緒に隣の部屋まで持っていくか一瞬考えたが、後者を選んだ。造花ではなく生花である限り、花は遅かれ早かれいつかは枯れてしまう。スヴェンが贈ってくれたフヨウの花々との限りある時間をイヴェットは最大限楽しみたかった。
焼き菓子が入った紙袋はアレクシアが運んだ。アレクシアは先に隣の部屋へと足早に歩き、茶器とおそろいの皿の上に焼き菓子を盛りつけた。
イヴェットは椅子に座り、テーブルの真ん中に持っていたブーケをそっと置いた。
イヴェットが花を見つめたままお茶のカップに口をつけるのを見届けてから、アレクシアは侍女を呼び、寝室のベッドシーツを取り替えるよう頼んだ。
それ以外に今するべき仕事はなかったので、ゆっくりとお菓子を口に運ぶイヴェットにアレクシアは報告する。
「スヴェン王子がイヴェット様との面会をご希望になっていました」
「え……?」
イヴェットはごくんと口の中の菓子を飲み込むと同時に目線を下げた。彼女の表情からは迷いが見てとれた。
「………………………」
実際、イヴェットは二つの気持ちの間で揺れていた。
一つは、スヴェンに会いたいと思う気持ちだ。
そしてもう一つは、スヴェンに会ってはいけないという気持ちだった。
前者はイヴェットの素直な感情によるものだったが、一方の後者には、そう思うのにふさわしいいくつもの理由があった。
汗をかいてしまった今のような状態で会うことははばかられたし、何より彼に風邪をうつすようなことがあってはならないと思った。それに、イヴェットは今朝思ったばかりなのだ、自分と彼の関係をもう一度落ち着いて見直す必要があると。
どの理由を取っても、イヴェットにはスヴェンと会わないという選択肢しかなかった。
「お気持ちは嬉しいけれど、治るまでやめておくわ……。スヴェン様に風邪をうつしてしまっては申し訳ないし……」
「そうですね、私もそれがいいと思います」
アレクシアはイヴェットが冷静な判断を下したことにほっと胸を撫で下ろした。敬愛するイヴェットが恋に溺れきっておらず、感情のままにスヴェンにのぼせ上がってはいないということを確認することができて、小躍りしたい気分だった。
「では、私のほうからスヴェン王子にそうお返事いたします」
「ええ、お願い。お兄様たちにも同じように伝えて」
「かしこまりました」
話がまとまったので、イヴェットは二つ目の焼き菓子に手を伸ばした。それをゆっくりと味わい、お茶を口に含むと、彼女は皿の上に残っていた最後の一つをアレクシアに勧めた。
それはスヴェンがイヴェットのために買ったものであるから、アレクシアは当然辞退した。それに、スヴェンが買ったものを自分の口に入れるのは、敵からの賄賂を受け取るのと同じような気がして、アレクシアには抵抗があった。
ところが、イヴェットは立ったまま控えているアレクシアを見上げながら
「アレクシア、どうしてもだめかしら……? 私が体調を崩したことであなたのお仕事を増やしてしまったからその埋め合わせがしたいし、何よりおいしいものは独り占めするのではなくて、誰かと一緒に食べたいの。そのほうがもっとおいしく感じられるわ」
と言ったから、胸を打たれてじーんとしてしまったアレクシアはそれ以上断ることなどできなかった。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
アレクシアは今ではなく今日一日の仕事全てを終えた後にでも食べるつもりだったのだが、イヴェットは菓子がのった皿を持ち上げてアレクシアに差し出した。
「とてもおいしいわよ」
「……いただきます」
アレクシアは皿を受け取り、ひざを折ってお辞儀をしてからおずおずと菓子を持ち上げ、一口食べた。その途端に卵の味がふわっと口中に広がった。
「おいしい……」
気づくと、アレクシアはそう呟いてしまっていた。
たっ……確かにおいしいわ!! こんなにおいしいものを食べたことがないと思うくらいおいしいっ……!!
アレクシアは口を動かしながら、感動さえ覚えていた。
けれど同時に、感動している自分がスヴェンにうまく丸め込まれているような気がして、アレクシアは悔しくなってしまう。
くっ……!! 確かにこのお菓子はおいしいけど、それとこれとは別なんだから!
お菓子くらいでスヴェン王子に騙されたり懐柔されたりしないんだから!
アレクシアが複雑な心境に陥っていると、そんなことなど知らないイヴェットはふっと笑った。
「本当においしいわよね。スヴェン様はいろいろなものやいろいろなお店をご存知で、ナルフィ育ちの私は圧倒されてばかりだわ」
イヴェットはかすかな微笑を浮かべていた。彼女のそんな表情は、言葉どおりスヴェンに感服しているようにも見えたし、スヴェンと自分を比べて気後れしているようにも見えた。あるいはその両方なのかもしれない。
そんなご自分を卑下するようなことをおっしゃらないで下さい!!
たとえスヴェン王子がどんなに洗練された貴公子だったとしても、イヴェット様はスヴェン王子にふさわしい女性ですっ!!
アレクシアは心の中で思いっきりそう叫んだ。
そして一瞬後にはっとした。
いいえ、『ふさわしい』という表現は違うっ! これだとまるでお二人がお似合いみたいに聞こえてしまう……。
私が言いたいのは、イヴェット様はスヴェン王子にはもったいない、もったいなさすぎる女性だということだわ。
だから、イヴェット様には気後れなんてしないで、スヴェン王子相手でも堂々と胸を張っていてほしい!!
心の中で訂正しつつ、アレクシアは泣きたくなった。
あんなことをされたのに、イヴェット様はどうしてあの最低男のことをこんなふうに素直に褒めることができるの……?
アレクシアはイヴェットをすごいと思った。あんなことをされても彼を許すと決めたイヴェットを尊敬したし、どうしてわざわざ許してやるのか理解できず、もどかしい気もした。
何だか泣きたくなってしまったアレクシアは品が悪いと自覚しながらも、指でつまんでいた菓子を一気に口に突っ込み、もぐもぐと頬張った。一口目と同じようにおいしかったけれど、急に塩味が加わったようにも感じられた。味覚が突然混乱した気がしたが、味覚だけでなく、いくつもの感情が乱立した彼女の心も同じように混乱していた。一体何が正しくて、どの感情が一番強いのか、なぜ泣きたいだなんて思うのか、アレクシアには分からなかった。
スヴェン王子っ!! イヴェット様はすばらしすぎて、あなたにはもったいない女性だわ!
もしまたイヴェット様を傷つけるようなことをしたら、絶対に絶対に許さないんだから……!!
アレクシアはスヴェンに宣戦布告したような気になり、焼き菓子を咀嚼する彼女のあごや歯にひとりでに力が入ってしまった。




