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スヴェンはイヴェットの上半身を抱き起こし、背中を支えながら彼女の口元にグラスを当てた。
イヴェットはごくごくと音を立てて水を飲み、グラスを空にした。
スヴェンがグラスを傾けすぎたのか、グラスから彼女の口に入ることができなかった一筋の水が彼女のあごや首を伝ってすべり落ち、やがてドレスのえり元から胸元へと吸収されていった。
水が滴り落ちた道筋を自分の舌でなぞりたい欲求が湧き上がり、スヴェンは我知らずごくりとのどを鳴らした。
過去のスヴェンだったならこれを好機ととらえて自分の欲望に素直に従っていただろうが、今回は今までとは違う。相手はフェーベ大陸一の強国ティティス帝国でも屈指の貴族令嬢だし、自分は今彼女の信用を得なければならない立場なのだ。自分の思うがままに振る舞うことは、彼女だけでなく自分をもう一度信じてくれた親友ラザールをも裏切ることになってしまう。
一瞬後に我に返ったスヴェンは自分の欲望を振り切り、
「いずれ落ち着くと思うから、そのまま休んでいるといい」
とイヴェットの髪を梳き、もう一度彼女の体をベッドに横たえた。
スヴェンはベッドの傍らの床に両ひざをついて、イヴェットの左手を握った。
イヴェットのほうもスヴェンの手を握り返してきたので、スヴェンは彼女の手から顔へと視線を移した。
イヴェットはスヴェンと目が合うと、安心しきったような無防備な表情で微笑した。寝室で男と二人きりになっているなんて少しも理解していないような、純粋無垢な笑みだった。
いつもは自分に対してはいまだ打ち解けた様子ではないイヴェットの自然な微笑みを目にすることができ、自分と彼女の距離が一気に縮まったような気分になって、スヴェンの胸がざわりと騒いだ。
「イヴェット……」
スヴェンが静かに彼女の名前を呼んだところ、イヴェットは気だるげな瞳で彼を見上げた。
「俺に……、俺に何か言いたいことはないか?」
勇気を出してスヴェンは訊いた。彼はこの機会にイヴェットにいろいろ訊いてみたいと思ったのだ。今のイヴェットの様子なら、普段答えてくれないようなことにも正直に答えてくれるかもしれないし、彼女の本音を聞き出せるかもしれない。
あなたをお慕いしています、なんて甘い言葉を期待していたのではない。むしろ、一年前のあの一件のことをどう思っているのか、どの程度自分を許してくれているのか、少しでも情報が欲しかったし、自分の罪を忘れないためにも心のままに自分をなじってほしかった。
「言いたいこと……?」
イヴェットは子供のような無邪気な口調でスヴェンに訊き返した。
「ああ。俺のことをどう思っている?」
最低、とか、だらしない男、とかいった言葉をスヴェンは覚悟したのだが、イヴェットは視線を宙にさまよわせて考え込んでしまった。
その間訪れた沈黙の時間を、スヴェンは固唾を呑んで待った。
イヴェットが再びスヴェンと目を合わせ、彼女のくちびるが言葉を紡ぐために動きかけたのを見て、彼は身を硬くした。
「とても強くて、気高い、方……」
酒に酔ったせいなのか、ろれつが回りきっていない舌足らずな口調だったが、しかしイヴェットはゆっくりと、そしてはっきりとそう言った。
「………………………」
彼女の答えに、スヴェンは後頭部を誰かに木槌か何かで思いきり殴られたような衝撃を受けた。
酒の作用のせいで理性がうまく働かないこんな時でさえ、自分を責めるのではなく褒めるようなことを言う彼女が信じられなかった。そんな人間がこの世に存在していることも信じられなかった。
自分と彼女の人間としての格の違いをまざまざと見せつけられたような気持ちだった。
ところが、スヴェンには少しの敗北感も惜敗の念もなかった。自分と彼女の間には、勝ったとか負けたとかいう程度ではなく、あまりに圧倒的な開きがあったからだ。
ああ……、俺は一生この女性にはかなわない……。
感動とともにスヴェンの胸に湧き上がったのは、愚かな自分への後悔だった。
こんなにも大きな心を持った女性に対して、自分は何という愚行を犯してしまったのだろうか。どれほど彼女を傷つけてしまったのだろうか。彼女に比べて、自分は何て愚劣で矮小でつまらない人間だったのだろうか。
一年前のあの一件をきっかけに、スヴェンは初めて自分を省みた。
それ以前は、自分に命令できるのは王である父だけだと思っていた。だが、スヴェンはその父まで軽蔑していた。
だから彼は自分の上には誰もいないのだと誤解していたし、まるで自分が世界の頂点に君臨しているかのように感じていた。大げさに言ってしまえば、自らを神のようにさえ思っていたのだ、それも極めて無自覚に。
今思い返すと、スヴェンは当時の自分の傲慢さに赤面せずにはいられない。
一年前のあの事件以来、スヴェンは数え切れないほど後悔した。あの一件ほど自分のことを振り返り、自分の醜さや弱さを突きつけられ、自分の馬鹿さ加減に呆れた経験はスヴェンにはなかった。きっとこれから先もないだろう。
そんな自分さえ許してくれたイヴェットの慈悲深さに触れたスヴェンには、彼女に対する敬意と懺悔の気持ちしかなかった。
感情が溢れ、嗚咽や涙を一生懸命こらえているスヴェンに、続くイヴェットの言葉が追い討ちをかける。
「だから、今は毎日が夢のよう……」
自分の気持ちだけで精一杯だったスヴェンは弾かれたように顔を上げ、イヴェットを見つめたが、彼女のほうはもうスヴェンを見てはいなかった。彼女はぼんやりと天井を見ながら、うっとりと呟いたのだ。
彼女を裏切った自分を許すのは、彼女にとってもそう簡単なことではないはずだ。自分だったら絶対に相手を許すことはできない。きっとスヴェンが想像する以上に、彼女にはつらい思いをさせているに違いない。
それなのにイヴェットは、自分の謝罪を受け入れてからのこの数日間を『夢のよう』と形容した。
必死に真一文字に結んだスヴェンのくちびるが、こらえきれずにとうとうわなわなと震えた。スヴェンは左手でイヴェットの手を握ったまま、慌てて右手で自分の口元を覆った。
スヴェンは再び自分の感情に意識を奪われかけ、自分だけの思考の世界へ浸ってしまいそうだったのだが、そんな彼の意識を現実に引き戻したのは、やはりイヴェットの言葉だった。
「でも、こんな夢のような時間は、いつか、終わってしまうのかしら……?」
スヴェンは慌てて瞬きを繰り返し、涙でにじみかけていた視界を何とかいつもどおりに戻してから、再度イヴェットの顔を見た。
イヴェットは目を閉じていた。そのまま彼女の顔を見つめ続けていると、スヴェンは彼女の胸が規則的に上下していることと彼女が寝息を立てていることに気づいた。イヴェットは眠ってしまったのだ。
自問するような頼りない口調で彼女が眠りに落ちる直前に呟いた言葉がスヴェンの脳裏で何度も再生される。
彼女は恐れているのだ、『夢のよう』と表現した時間が終わってしまうことを。どのように終わると彼女は考えているのか、彼女の口調の中にはっきりと潜んでいた不安から、スヴェンには容易に察しがついた。
イヴェットは、スヴェンが将来再び同じことを繰り返し、彼女を裏切ることで、再構築を目指したばかりの自分たち二人の関係が壊れることを恐れているのだ。
いや、終わらせない!!
終わらせない、イヴェット……!!
俺はもう、二度とあなたを裏切るようなことはしない!!
絶対にそんなことはしないと誓う……!!
彼女は眠ってしまったから、自分が溢れる感情のままにだらだらと涙を流しているところを見られなくてすむことに安堵しながら、スヴェンは心の中でイヴェットに語りかけた。意識のない今の彼女に伝わらないことは分かってはいても、両手で眠ってしまったイヴェットの左手をぎゅっと強く握らずにはいられなかった。そうすることで、彼は何とかして自分の決意を表現したかった。




