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再び部屋に入り、たくさんの食べ物が所狭しとのったテーブルを見て、イヴェットは驚きの声を上げた。
「まぁ!!」
何枚もの真っ白な正方形の角皿の上に、一口大の食べ物が等間隔に並べられている。酒のつまみになりそうな塩漬け肉やオリーブ、パンやクラッカーの他に、いろいろな種類の果物もあった。
甘いものが好きなイヴェットを引きつけたのはお菓子類だった。表面がゼリーで固められていてきらきらと光っていたり、色鮮やかなジャムやフルーツやあめ細工で飾られたりしていて、どれも食べ物というより芸術品のようだ。イヴェットは食べるのがもったいないとさえ思ってしまった。
感心しきりのイヴェットの反応に、スヴェンは満足だった。彼女がこうして喜んでくれることを期待してこの場を設定したのだから。
昨日彼が一人きりで出かけた一番の理由は、宿の部屋と食事の手配だった。
スヴェンは昨日ナルフィ家別邸を出発した後、まずアンテ王国の大使館に行った。大使や本国に、イヴェットとの関係を修復できるかもしれないということを報告したのだった。
次にアリーヌが希望していた歌劇のチケットを手に入れるために知り合いを訪ね、それからこの宿に出向き、部屋と食事を予約した。
実のところ、彼がこの宿を利用したのはこれが初めてではなかった。
スヴェンはこの宿を利用する時、いつも偽名を使っていた。それがジーグルト・フェッテルという名前で、アンテ王国の青年貴族ということで通していた。宿側は、どうやら彼が留学中のアンテの王子かもしれないということに薄々気づいているようだが、宿の歴史も格式も値段も一流だけあって、従業員への教育が行き届いており、彼らの口は堅い。ということで、スヴェンも安心してこの宿を使っていた。
誤解を招かないように付け加えるのなら、スヴェンはイヴェットに不埒なまねをするためにこの宿に連れ込んだのではなかった。彼もティティス帝国に留学してもうすぐ四年が経とうとしているので、ティティス人の常識や倫理観、社会規範や宗教観などを十分理解しているつもりだ。皇族に次ぐ名門貴族ナルフィ家の令嬢として彼女がどんな教育を受けたのかも容易に想像がついたし、イヴェットの性格を考えても、彼女は結婚する前に自分と一線を越えることなど絶対に望まないだろう。
そもそもスヴェンはようやく一年前の失態の許しをイヴェットから得たばかりなのだ。今はまず彼女の信頼を勝ち得なければならない。そしてそれは容易なことではない。それが分かっていながら彼女に手を出すなんて、スヴェンには考えられなかった。
だったらわざわざ宿の部屋を取るなんてことをしなくても、世話になっているナルフィ家別邸で二人の時間を持てばいいのかもしれないが、スヴェンとしてはそれは嫌だった。友人たちがいてゆっくりと彼女と二人だけになることは難しかったし、ラザールが自分とイヴェットが二人きりになることを許してくれなかったからだ。彼はどうしてもイヴェットとこうして誰にも邪魔されない環境で二人だけの時間を持ちたかったのだ。
スヴェンはイヴェットの手を引き、彼女をテーブルの前のソファのところまで導き、そのまま彼女を座らせた。ソファのひじかけの上に左手に持っていたイヴェットの帽子と手袋を置いてから、彼はソファの背もたれ沿いに回り込み、イヴェットの隣に腰を下ろした。
ちょうどスヴェンが座った側のテーブルの端に女性従業員が先ほど運び込んだ飲み物やグラス、取り皿やカトラリーが置かれていたので、腰かけたばかりだったスヴェンはもう一度立ち上がった。
二人の身分を考えれば給仕係を控えさせるのが普通だったし、宿側も昨日のスヴェンとの打ち合わせの時に給仕係を待機させることを提案したのだが、スヴェン自らそれを断った。とにかく部外者抜きでイヴェットと過ごしたかったからだ。
ということで、給仕係がいない以上、スヴェンかイヴェットのうちのどちらか、あるいは二人で飲み物をグラスに注ぐという作業をしなければならないわけだが、スヴェンはイヴェットにやらせるつもりはなかった。最初から全て自分でやるつもりでいた。
ティティスの文化ではこういった場合女性が率先して動くことを彼は知っていたし、イヴェットの性格から判断しても彼女は自分でやろうとする可能性が高いだろうとも思っていた。スヴェンもいつもは給仕されるばかりの人間である。それに慣れきっているので、普段だったら自分からは動かない。
しかし恐らくは彼の人生で初めて、スヴェンは自分から積極的に動こうと思った。そんな単純なことで地に落ちた自分の信用を回復できるなどという甘い幻想を抱いてはいない。だが、自分を許してくれたイヴェットに対してとにかく何かをしたいと思ったし、しなければならないとも思った。
「イヴェット、何を飲む?」
テーブルの上に並ぶ食べ物に目を奪われていたイヴェットは、スヴェンにそう問われて顔を上げた。
飲み物やグラスに手を伸ばしているスヴェンを見たイヴェットは、彼が自分のために飲み物を用意しようとしてくれていることを悟り、慌てて立ち上がった。こういった場合には女である自分が立ち回らなければならないという考えが彼女には染みついていたし、男性であり王子である彼にそんなことをさせるなんて考えられなかった。
「スヴェン様、そのようなことは私が……」
飲み物やグラスの群に駆け寄ろうとしたイヴェットを、スヴェンは手で合図して制した。
「いや、その必要はない。どれにするんだ?」
スヴェンに返事を催促され、イヴェットは申し訳なく思いながらもガラスのピッチャーに入った色とりどりの飲み物を見比べた。一列に並ぶ複数のピッチャーは一つ一つ違う種類の飲み物で満たされており、どれも果物を絞ったような鮮やかな色をしていた。
「では、そのオレンジ色の飲み物をお願いします」
スヴェンはイヴェットが指差したものをグラスに注ぎ、それを彼女に手渡した。続いて彼は自分用のワインを用意してから自分の席に戻った。
イヴェットは律儀にも、スヴェンが戻るまで立ったまま待っていた。スヴェンがソファに腰を下ろすとようやく彼女もスヴェンの隣に座った。
スヴェンはイヴェットが大事そうに両手で持っているグラスに自分のそれを軽くぶつけてからワインを口に含んだ。最高級のものを頼んだので、期待を裏切らない味だった。
イヴェットは手の中のグラスのオレンジ色の液体をそっと見つめた。
実は彼女は、自分でも子供のようだと呆れてしまうのだが、今日があまりにも楽しみで、昨夜よく眠れなかった。寝不足と興奮で朝食もあまりのどを通らなかった。その反動なのか、目の前に並ぶおいしそうな食べ物に食欲を刺激されたイヴェットは今はっきりと空腹を覚えていたし、緊張のせいなのかのどが渇いていた。
イヴェットはゆっくりとグラスを傾け、オレンジ色の液体を一口飲んだ。見かけどおりオレンジを絞った果汁だった。オレンジの酸味と甘みの後に、慣れない苦味のようなものをほのかに感じたのだが、それ以上にすべらかなのど越しに負け、彼女は少しずつワインを飲み進めるスヴェンとは対照的に、勢いよくグラスを空にしてしまった。
「おいしい」
彼女が思わず呟くと、スヴェンが気を利かせて空になった彼女のグラスに再びオレンジ色の液体を注いだ。
イヴェットは礼を言ってから、今度は半分ほど飲み、ようやくグラスをテーブルの上に置いた。
のどが潤った今、イヴェットの次の関心の的はテーブルの上の食べ物だ。
「どれでも好きなものを食べるといい」
スヴェンがさっとイヴェットに皿とカトラリーを差し出した。
「ありがとうございます」
イヴェットは恐縮しながらそれを受け取ったのだが、食べ物に手を伸ばすことはなく、視線をあちこちさまよわせて目の前の菓子や果物やつまみを見比べた。あまりに種類が多くてどれもおいしそうだったため目移りしてしまったのもあるが、スヴェンより先に食べ物に手を付けるのはどうしても気が咎めたのだ。
テーブルの上に広がる食べ物を眺めつつ、イヴェットは感嘆と気後れのため息をもらした。
彼女の目を特別引きつけたのは菓子類だったが、菓子の一つ一つはどれも小ぶりだったから、これならいくつもの種類を味わうことができてその点をイヴェットは嬉しく思った。しかし小さいゆえにお菓子ではなく宝石のように見えて、イヴェットは見ているだけで満たされてしまった。
大貴族の家柄に生まれたイヴェットでさえも今までに目にしたことがないような彩りも盛りつけも繊細な菓子は、彼女にとってはフェーベ大陸で一番の都ローゲの象徴のように思われた。
当たり前だが、イヴェット自身が家族相手に作る菓子とは違う。全く比べものにならない。
こんなに贅沢で洗練されたものを知っているスヴェン相手に自分が作ったものを出してしまった過去がひどく滑稽に思えて、イヴェットは急に恥ずかしくなった。
スヴェンはイヴェットがテーブルの上の品々をただ見ているだけで実際に手を伸ばしていないことに気づき、遠慮がちな彼女らしいことだ、と心の中で苦笑した。
そこがイヴェットの美点だと分かってはいるが、スヴェンは早く彼女に食べてほしかった。自分が彼女のためだけに用意させた料理を味わってほしかったし、彼女の喜ぶ顔が見たかった。
「イヴェット、遠慮することはない」
スヴェンに再度促され、イヴェットは申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、ようやくカスタードクリームがたっぷりと入ったタルトを選んだ。
「いただきます」
イヴェットは満月のようなタルトをナイフで半分に切り分けてから、そのうちの片方の半月を口に入れた。咀嚼するたびにほのかな甘さと凝縮された卵黄のまろやかな味が口いっぱいに広がった。イヴェットの複雑な心情を一瞬で忘れさせるようなおいしさに、彼女の顔が自然とゆるんだ。
イヴェットの表情から彼女がタルトにどのような評価を下したのかが十分推察できたので、スヴェンは満足だった。
彼女の答えは訊くまでもなかったが、スヴェンは彼女と会話するために
「味はどうだ?」
と質問した。
イヴェットは口の中のものを飲み込んでから
「はい、とてもおいしいです」
と淡く微笑んだ。
スヴェンは甘いものにはあまり興味がないが、イヴェットを満足させたものに対する好奇心はあった。
彼は持っていたワイングラスを置き、体の正面を彼女のほうへ向けた。左腕をイヴェットの背中や腰のあたりに回してから右手で彼女の頬を固定し、そのまま彼女にくちづけ、舌を差し入れた。
スヴェンの一連の動きが素早かったため、イヴェットは何が起きたのか分からなかった。カトラリーを持っていた両手から力が抜け、フォークは皿へと落下して澄んだ音を立て、ナイフはテーブルで一度跳ねた後、石の床の上に敷かれているじゅうたんに衝突した。しかしイヴェットはそれどころではなかった。
イヴェットの頭は真っ白になってしまい、自分の口内に侵入してきたものが何なのか、しばらくの間気づくことができなかった。
彼女はまず息苦しさからスヴェンにくちづけられていることを悟り、次に自分の舌に触れた何かからワインの味がするのを感じた時にそれが彼の舌なのだということを理解した。全てを認識すると同時にイヴェットは真っ赤になった。
人生で初めて経験する濃厚なくちづけに、イヴェットは戸惑いつつも、確かな喜びに胸を震わせた。だからこそ彼から逃れることなど思いつきもしなかった。
イヴェットが抵抗しないのをいいことに、スヴェンは婚約者のくちびるを自分の思うがままに貪った。




