32
寝室の壁際のクローゼットの前に立ったアリーヌは、明かりを持っていないほうの手で観音開きの扉の片方を開けた。それが終わると、もう片方も全開にした。
この屋敷に来た昨日、かばんに詰め込んだ自分の服を侍女に手伝ってもらってクローゼットへと移動させたばかりだというのに、またかばんに入れ直さなければならないなんて何だか滑稽な気がしたが、帰るためには避けることができない作業だった。
アリーヌはベッドわきのサイドテーブルの上に明かりを置き、クローゼットの一番下に寝かせておいたかばんを取り出した。それから彼女は床の上でかばんを広げ、一番近くにあった服をつかみ、かばんの上でぱっと手を放した。パサッという音とともに服はゆっくりとかばんの上に落ちた。
アリーヌはかばんの前にしゃがみ込み、今さっき手を放したばかりの服をたたもうとした。フォルニートで荷造りをした時には、アリーヌはどの服を持っていくか選ぶだけで、服をたたんだりかばんに詰めたりしたのは彼女の女官だった。
服をたたむなんて自分でしたことがないアリーヌは、当然たたみ方も知らないし、うまくできるはずもなかった。
「ああっ、もうっ!!」
アリーヌはいらいらしながら頭をかきむしった。
ラザールの悪気のない発言を許すことも、服をたたむことも、自分は何もできない。そんな自分に対しても腹が立った。
怒りと悔しさのあまり、アリーヌの目に涙が浮かぶ。
でも、荷造りをしないと帰ることができないのだ。そう思い直し、アリーヌは頭を振って荷造りに集中しようとした。
悪戦苦闘しながら何とか一枚目のドレスをたたむと(しかし仕上がりはぐちゃぐちゃだった)、今度はクローゼットから二枚目を取り出すために、アリーヌは立ち上がった。
その時、強めのノック音とともに
「アリーヌ、アリーヌ」
と自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。声の主はラザールだった。
アリーヌは眉間にしわを寄せて鼻から息を吐き出し、サイドテーブルに置いた明かりを手に持って寝室を出て、居間を横切って廊下と繋がるドアへと向かった。アリーヌはもったいぶるように故意に全ての行動にゆっくり時間をかけた。その間にもドアの向こうのラザールは絶えずノックを繰り返し、時折いつもの彼のそれとは少し違う覇気のない声でアリーヌの名前を呼んだ。
ドアの前までやって来ると、アリーヌは深呼吸した。
アリーヌは少しだけドアを開け、生じた隙間からラザールを睨みつけた。
「何かしら?」
はっきりと不機嫌をにじませた低い声でアリーヌは尋ねた。
ラザールは一歩下がり、しかしアリーヌに話している途中でドアを閉められて会話を拒否されないように開いたドアに手をかけつつ、まず
「日が沈んだ後にこんなふうに部屋を訪ねてすまない」
と詫びた。
確かにティティスの貴族社会では、日没後に異性の部屋を訪れるなんて、慎みのある紳士淑女のすることではないとされていた。
生真面目で優等生のあなたらしいお言葉だこと……!
アリーヌは心の中でラザールに嫌味を言い、彼の言葉には何の反応も示さないまま、
「それで?」
と彼がここに来た用件を言うよう催促した。
ラザールは視線を一度床へと落とし、意を決したように再び顔を上げ、アリーヌをまっすぐに見つめた。
「その……、さっきはすまなかった……。アリーヌと二人になりたくないとか思っていたわけでは決してないんだ!」
どうしてだろう。アリーヌは素直に彼の謝罪を受け入れる代わりに、彼に意地悪を言いたくなった。それが正しいことだなんて少しも思っていないのに、そうせずにはいられなかった。
「二人になりたくないわけではないけれど、その必要はないのでしょ!?」
「そっ……そんなことは……」
アリーヌの勢いにたじたじになったラザールを、彼女はさらに追いつめる。
「そうよねっ!!? そんな必要ないわよね!? 私がここに来たって、あなたは別に嬉しくも何ともないんでしょうから!!」
こんなふうに尖った声で、こんな嫌味ったらしいことなんて言いたくないのに、ささくれ立ったアリーヌの心は理性の制御を振り切って暴走し始める。自制がきかない感情を後押しするように、彼女の口は彼女自身が思うよりもなめらかに動いた。
「そんなっ!! アリーヌがローゲに来てくれて、ありがたいと思ってる」
「ありがたいとは思っても、別に嬉しいわけじゃないんでしょ!?」
ラザールは面食らった。
「えっ!?」
『ありがたい』と『嬉しい』って同じじゃないのか!?
いや、確かに厳密に言えば違うのかもしれないけど、少なくとも似てるよな!?
どう違うんだ……?
ラザールは一瞬考え込んでしまったが、今はそんなことをしている場合ではないと気づき、慌てて
「うっ、嬉しいよ」
と返した。
だが、アリーヌは彼の戸惑いなど簡単に見透かしていた。
「嘘ばっかり!! 私なんていてもいなくてもどっちだってあなたには関係ないんでしょ!?」
どうせなら帝都ローゲの貴婦人のように、もっと冷静さを保ったままねちねちぐちぐちと相手の精神を追いつめてやりたいとも思ったが、アリーヌの感情は徐々に大きくなる彼女の声のように昂った。怒りが溢れるのに呼応するかのように、アリーヌの瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
頼むから声をもっと小さくしてくれ……!!
じゃないと、使用人に聞かれる……!!
ラザールはひやひやしながら心の中でそう願った。ナルフィ家の次期当主として厳格に育てられたラザールは、いつ何時にも周囲の目や体面を気にしてしまうのだった。
そんなラザールだったが、涙に濡れたアリーヌの頬が彼女が手に持っている明かりに反射してきらきらと光るのを見た時、彼の胸は締めつけられた。
ラザールは自分自身に対し、常に高潔でありたいと思っている。そのために自分を律し、自分を高めるための努力を怠っていないつもりだ。なのに、そんな自分がアリーヌを泣かせてしまった。自分の婚約者である彼女を大切にしなければならないと思っているのに、そうできていない現実に直面したラザールは困惑した。
照れが先行して、ラザールは二人の親友のイヴェットとシルヴィに対するような、女性が好むであろう言動を取ることはできなかった。アリーヌが来てくれたことも、やはり『嬉しい』よりも『ありがたい』のほうが彼の心情としてはしっくりくる。
けれど、アリーヌがいてもいなくても関係ないということは絶対になかったし、この場面において否定しないわけにはいかないということは男女の機微にうとい彼もさすがに直感的に悟ったので、ラザールは意識的に胸を張り、大きめの声で
「そんなことないっ!!」
とはっきりと否定した。
「嘘つきっ!!」
アリーヌの責めるような声がラザールの胸に突き刺さる。
「嘘じゃない!!」
ラザールは自分でも無意識のうちに腹に力を込めて低い声を張り上げた。その声の大きさに、彼自身も驚く。
いつもは穏やかなラザールからは想像できないような声量にアリーヌも圧倒され、二の句を継げなかった。
「大きな声を出してすまない」
と詫びてから、ラザールは
「今日だって、アリーヌがいてくれるとにぎやかになっていいと思ったし……」
と続けた。
さっきとは別人のようなラザールのどこか自信のなさそうな声に、アリーヌははっと我に返った。ラザールはアリーヌに自分の言葉を信じてほしくて声を張り上げてしまったのだが、それは裏目に出る結果となった。アリーヌはラザールに怒鳴られ、また、押さえつけられているようにも感じてしまい、彼女のより激しい反発を招いてしまった。
「おしゃべりってことね!!? ええ、ええ、そうよ!! 私はとてもイヴェットみたいに物静かな淑女になんてなれないわよっ!!」
「そっ……そういう意味じゃないっ!!」
ラザールはつい先刻の食堂でのニコラスの、女性は『ありもしない言葉の裏を勝手に作り上げるんだ』という言葉を思い出した。
「じゃあ、どういう意味だっていうのよ!?」
アリーヌに責められて、ラザールは途方にくれた。アリーヌに自分の心情をうまく説明し、口達者な彼女をなだめる自信はラザールには全くなかった。下手をしたら火に油を注ぐようなことになってしまうかもしれない。
びくびくしながらも、ラザールは必死に自分を落ち着かせた。目線を下げて深呼吸を繰り返した後、彼は勇気を出してアリーヌを見た。
自分を睨むように見据えるアリーヌの濡れた瞳と目が合った瞬間、ラザールは何だか怖くなって一瞬目をそらしてしまったが、懸命に自分を叱咤して再び怒りの炎をめらめらと燃やしている彼女と目を合わせた。
「その……。今日の昼、皆で庭にいる時に、アリーヌはたくさん笑っていただろう? アリーヌが笑っているのは本当に楽しそうで、見ているこっちまで幸せな気分になるんだ」
ラザールはとにかく無我夢中で自分の本心を絞り出した。それは彼の本音ではあったけれど、言葉に出すことも、ましてそれを当人であるアリーヌに聞かせることも、恥ずかしくてたまらなかった。言いながら、ラザールは自分の歯が浮いているような気になった。
「……………………………………へ?」
予想もしていなかったラザールの返事に、アリーヌは呆気にとられた。
彼女のさらなる怒りを招かなかったことにとりあえず安堵しながら、ラザールは恥ずかしさを何とかこらえて続ける。
「だから、アリーヌがローゲに来てくれてありがたいと思ったし、もちろん嬉しかった。俺はアリーヌみたいに場を盛り上げることなんてできないから……」
「………………………………………」
アリーヌはぽかんと口を開け、凍りついたように動かなかった。
自分の言葉選びが彼女にとって正しいのか間違っているのか分からないまま、ラザールは半ばやけになってさらに続けた。
「じ……自分の……、そのっ……、けっ……結婚する相手がアリーヌみたいな女の子で、本当によかった……と、思った……」
本来なら自分の中に留めておきたかった本音を全てさらけ出してしまったから、ラザールにはもうこれ以上言うべきことがなかった。
俺は一体何てことを言ってしまったんだ!?
一瞬後に改めて自分が発した言葉を意識してしまい、ラザールは真っ赤になって口元を覆った。
アリーヌに本音を伝えたことは後悔していないが、とにかく彼は恥ずかしいと思ったし、自分の本音を言ってしまったことが正しかったのかどうか自信が持てなかった。
「………………………………………」
そんな言葉がラザールの口から出てくるなんてこれっぽっちも想像していなかったので、アリーヌもラザールのように真っ赤になり、急いで顔をうつむかせてから、頭の中でラザールの台詞を反芻した。
二人ともが、何も言えなかった。
沈黙が何だか耳に痛くて、アリーヌはとりあえず何かを言わなければならないと思った。
「う……そ……ばっかり……」
明らかに冷静さを欠いていたアリーヌの口からとっさに出たのは、かわいげのない最後の強がりだった。
「嘘なんかじゃない」
間髪入れずラザールが否定した。それはラザールの本心だったから、そう返す時の彼の態度や口調には迷いや揺らぎは含まれていなかった。自分の声を聞いたラザールはそのことにほっとし、彼の言葉に偽りがないことをアリーヌもしっかりと感じとった。
恐る恐るゆっくりとアリーヌは顔を上げた。
ラザールと目が合うと、彼は照れくさそうに、しかしアリーヌとしっかり目を合わせたまま、
「だから……その……、もう少しここにいてくれないか? もしアリーヌが嫌でなければ……」
とアリーヌに尋ねた。
「……あなたは、私がいても、嫌じゃないの……?」
どうしても改めて確認したくて、アリーヌが訊き返す。
「嫌だなんて、そんなことは絶対にない」
そう言い切ったのだが、とうとうラザールの精神は限界に達していた。恥ずかしさに負けてしまって、ラザールは一度目を伏せ、明後日の方向を向いてから
「皆も……、特にイヴェットとシルヴィも、アリーヌがいてくれたほうが喜ぶしな」
と付け加えた。
アリーヌだってイヴェット、シルヴィと一緒にいられたら嬉しい。それに、普段全く自分のことや自分との結婚についてどう思っているのか教えてくれないラザールがここまで言ってくれたのだ。彼にはきっと勇気がいることだっただろう。それが分かるからこそ、アリーヌの選択肢は一つしかなかった。
「……うん」
アリーヌがわずかにうなずいたから、ラザールの視線は自然と彼女に吸い寄せられた。
今のアリーヌの二つの瞳は相変わらず潤んでいたけれど、先ほどまで見られたような激しい感情はなかった。
「よかった……」
思わずラザールは呟いてしまっていた。
そのまま二人は数秒間見つめ合ったが、ラザールは急にかつてないほどの照れくささに襲われ、慌てて視線を外した。
照れ隠しのために
「じゃあ、その……、今夜は、どうする? もう一度食堂へ戻る?」
とラザールが問うと、アリーヌも何だか急に恥ずかしくなり、これ以上できないほど深くうつむいて
「ううん、今日はもうこのまま寝るわ」
と答えた。
彼女をうとんでいるわけでは決してないが、ラザールは胸を撫で下ろした。このまま二人で食堂に戻ったら友人や妹にからかわれると思ったし、ここまで本音をさらけ出してしまった相手とどんな顔をしてどのように振る舞えばいいのか分からなかったからだ。
「分かった。じゃあ、お休み」
「お休みなさい……」
ラザールはそっとドアを閉めた。ドアの向こうの相手の姿の幅がどんどん狭くなり、バタンという音がした瞬間にお互いの姿は完全に見えなくなった。
と……とりあえず、何とか乗り切った……よな……?
ラザールはふう―――っと大きく長い息を吐き出し、体をくるっと反転させ、閉まったばかりのドアにもたれかかった。
張り詰めた緊張から解放された安堵のせいで脱力したラザールは、背中をドアにくっつけたままへなへなとその場に座り込んだ。
よかった……。
まったく、今までの人生で一番緊張した……。
ラザールはじっと自分の手を見つめた。廊下に一定間隔ごとに灯されているろうそくの光で浮かび上がった彼の右手は小刻みに震えていた。
我ながら、情けないな……。
ラザールはその右手で天井を向いている自分の右ひざを撫でた。
ほうっともう一度大きく息を吐くと、ラザールは立ち上がった。こんな時間に婚約者の部屋の前で座り込んでいる姿を使用人にでも見られたら、自分の沽券に関わる。
お休み、アリーヌ……。
ラザールは再びドアに向き直り、心の中でこのドアの向こうにいるアリーヌに呟いてから、友人たちと妹たちが待つ食堂へと戻ることにした。




