19
六人はそのまま中庭のガゼボで話し続け、日が沈む直前に屋敷の中に入った。
ちょうど夕食の準備が完了したということで、六人は食堂へと移動し、円卓を囲んだ。
夕食を食べ終えると、ニコラスとシルヴィはもう少し一緒に過ごしたかったのだが、ラザールが釘をさした。
「試験明けで俺たちも疲れているから、シルヴィ、イヴェット、お前たちも今日は早く休むように」
勝手に『俺たち』の中に含まれてしまったニコラスが異を唱える前に、ラザールは先手を打った。
「そうだろう? ニコラス? スヴェンも」
ラザールの瞳にきらりと光る鋭さを見出したニコラスは、反論するとめんどくさいことになりそうだな、と判断した。
「ああ」
ニコラスもラザールが何を危惧しているのかしっかり理解していた。婚約しているとはいえ結婚前のニコラスとシルヴィが夜遅くまで二人きりで過ごすなんてことがもし噂にでもなったら、それだけでシルヴィはふしだらな娘だという烙印を社会から押されてしまう。常識を重んじる真面目人間のラザールはそうなるのを心配しているのだろう、当のシルヴィはそうなっても恐らく気にしないだろうが。
ラザールの兄心を理解したニコラスは、友人の顔を立て素直に従った。
ラザールは立ち上がり、まだ座ったままの二人の妹と婚約者を見下ろしながら
「じゃあ、お休み」
と言った。
「お休みなさい、ラザール」
「お休みなさいませ、お兄様」
アリーヌとイヴェットはそう挨拶を返したが、別にニコラスと二人きりでなくてもいいからもっと皆と夜更かししたかったシルヴィは不満そうに口を尖らせた。
そうしている間にニコラスとスヴェンも椅子から立ち上がった。
ニコラスは身を屈め、隣に座っていてラザールを睨むように見つめているシルヴィの額にくちびるを落とした。
「お休み、シルヴィ。腹を出して寝て風邪を引くんじゃないぞ」
ニコラスは笑いながら上半身を起こした。
シルヴィは今度はニコラスを睨みつけた。
「もうっ!! いっつもそうやって人のことを子供扱いしてっ!! 腹なんて出して寝ないわよ!!」
シルヴィは腕組みして頬を膨らませた。
そういうところが子供なんだよ、とニコラスは心の中で呟いた。本人に言うともっと拗ねてしまうだろうから、彼は本音を自分の胸の中にしまっておくことにした。
でも、そういうところがかわいいんだよな〜。
実はニコラスはシルヴィがぷりぷりと怒っているところを見るのが好きだ。だから時に、わざと彼女をからかってしまう。
そんな自分も十分子供っぽくて、そのことを自覚したニコラスは苦笑してしまった。
ニコラスは我知らずシルヴィの頭をくしゃくしゃっと撫でてから、再び屈んで今度はしっかりと彼女のくちびるを塞いだ。さっきはラザールの顔を立てて譲歩したのだから、これくらいは許してもらわないとニコラスにしてみれば割に合わなかった。
アリーヌはぎょっとし、反射的にシルヴィとニコラスから目をそらして反対方向を見た。
ところが、アリーヌの視線の新天地も安全地帯ではなかった。イヴェットとスヴェンもシルヴィとニコラスと同じような光景を繰り広げていたからだ。
ああ……、私の視界には安息などないのかしら……。
アリーヌは目のやり場に困り、仕方なくうつむいてはあっと息を吐き出した。
下がった肩に突然触れられ、アリーヌはびくっとした。はっとして顔を上げたところ、ラザールが自分の右肩にぽんと手を置いたのだと分かった。
「アリーヌ、俺は休むよ。お休み」
「えっ、ええ、お休みなさい」
アリーヌは慌てて微笑もうとしたが、ラザールにいきなり触れられた驚きを引きずっていたせいで、笑みが引きつったものになってしまった。
「……それから」
ラザールはまだ何か言いたいことがあるらしい。アリーヌは一度瞬きして続きを待った。
「今日は……その……、ローゲまで来てくれてありがとう。アリーヌも疲れているだろう? ゆっくり休んでくれ」
妹たちと親友たちの熱に当てられたのか、ラザールはアリーヌと目を合わせないまま気まずそうに言った。
そんな彼を見て、アリーヌはふんわりとした優しい気持ちに満たされた。彼が自分に感謝の気持ちを伝えてくれたことが嬉しかったのだ。彼は、自分は怪我をしたのだからアリーヌがローゲに出てきて当然だ、と開き直ってふんぞり返ることだってできたのかもしれないが、そうしなかった。
ラザールは彼の二人の友人たちとは違って不器用だし、そのせいでアリーヌも諦めているほどに自分たちの間には甘い雰囲気など全く漂わない。
でも、彼は間違いなく誠実な人だ。謝る時にはしっかりと自分の非を認めて詫びてくれるし、お礼を言う時にはちゃんとそうする。変に偉ぶったりもしないし、口先だけの軽薄な人間でもない。
アリーヌの友人たちはそのほとんどがすでに結婚している。政略結婚か恋愛結婚かは友人によって違うが、彼女たちは結婚生活の愚痴をアリーヌに話して聞かせる。アリーヌも好奇心と後学のために喜んで彼女たちの話に耳を傾ける。彼女たちが夫に抱く不満は主に、女にだらしないとか、何か問題が起きた時に他人に責任を押しつけて自分で対処しようとしないとか、妻を見下したような発言をするとか、思いやりがないというものだった。
けれどラザールは違う。彼の人間性を、アリーヌは心から信じている。
もちろん未来がどうなるかなんて誰にも分からないけれど、今のままで行けばラザールが結婚後に愛人を作ることもないだろうし、彼は思いやりだってちゃんと持ち合わせている。
自分がいかに幸運であるか、アリーヌは悟った。
……もしかして、その代償がときめきなのかしら?
そうかもしれないとアリーヌは思った。何だかものすごく腑に落ちた気がした。誠実な彼と結婚できる代わりに、ときめきというものを犠牲にしなければならないのだろう。
本当はときめきを諦めたくはないけれど、仕方ないのかもしれない。きっと人間というものは、全てを手に入れることはできないのだ。だったら、彼と結婚する代わりにときめきを諦めることは筋が通っているようにも思えた。
初めてそう思ったアリーヌは、自分が成長した気になった。同時に気が大きくなった。
お姉様たちは私が子供だって馬鹿にするけれど、もう子供じゃないわ!
精神的にも成長して、また一歩大人になったんだから!
アリーヌは自分で自分を褒めた。そういうところが幼いのよ、ともしここに彼女の姉ナデージュがいたら、アリーヌにそう指摘することだろう。
「いいのよ。こうしてイヴェットとシルヴィと、それにあなたのお友達にも会えて、とても楽しいし……」
そう言ってアリーヌが本心からにっこり笑うと、今まで彼女を避けるようにしていたラザールが瞬きをした後で目を動かした。二人の目がしっかりと合った直後に、どこかこわばっていたラザールの表情がふいにゆるんだ。彼の控えめな微笑を見て、アリーヌの心がもっと柔らかくほぐれていく。
「……ありがとう」
と彼はもう一度アリーヌに礼を言い、今度は彼の視界の両端で自分の妹たちと密着している二人の友人たちに向かって声を荒らげた。
「ニコラス! スヴェン! いつまでやってるんだ!! 行くぞ!?」
「はいはい、分かったよ」
とニコラスは肩をすくめ、スヴェンは
「ああ」
と簡潔に返事をしてから、二人はそれぞれ自分の婚約者から離れ、ラザールが立っている位置に向かって歩き出した。
ラザールはこれ見よがしにはあっと大きくため息をつき、気を取り直してアリーヌともう一度目を合わせると、合図を送るように一つうなずいた。
「お休みなさい、アリーヌ大公女」
とニコラスがアリーヌに軽く会釈し、
「先に失礼する」
とスヴェンがそれだけ言ってさっさとこの食堂から出ていこうとした。
アリーヌたち残された三人はラザールたちの背中を見送った。