桐島エリスの秘密①:氷の姫君、落とし物をする
人生を変える本――という言葉をよく耳にする。
そりゃあ、本というのは意図して作られた情報の塊だ。
読めば、ある程度の影響は受けるだろう。
全く影響を与えない本など存在しない。
問題は、その影響の大きさだ。
それこそ、人生の方向を大きく変えてしまうものもあるだろう。
そういう『特別な一冊』。
この物語は、ぼくがそれに出会うところから始まる。
氷の姫君と名高いお嬢様との出会い。
疎遠になっていた幼馴染との仲直り。
義理の姉とのあれやこれや。
これらは全て――。
『ボクは嫌がる君を官能に溺れさせたい』
この一冊から始まった。
うん、出来れば別のが良かった。
×××
その『事件』が起きたのは、五月の上旬のことだった。
その日は、早くも夏の気配を感じる陽気になっていた。
夕方になっても気温は下がらず、蒸し暑いまま。
学校が終わり、ぼくは住んでいるアパートに帰ってきた。
白色の三階建てアパート『サンライズ』。
この302号室が、ぼくの家だ。
築年数の割には奇麗で、トラブルも全くない。
非常に住環境の良い建物なのだが――。
「ん?」
その住環境が、乱されようとしていた。
エントランスに入ると、そこには『不審者』がいたのだ。
深々とした帽子、黒のサングラス、大きめのマスク。
顔はほとんど見えない。
それに加えて、季節外れのロングコート。
この春、誰もが注目する『不審者コーデ』である。
「……なんだ、あれ」
不審者の中の不審者。
今時、ここまで怪しい人間はまず見ない。
絶滅危惧種だ。
絶対に保護したくないけど。
むしろ、駆除したいくらいだけど。
――アレは、ここの住人だろうか?
そうでないことを祈りたいところだ。
まぁ、そうでなかったところで、安心は出来ない。
そもそも、安心できる不審者なんてものは存在しないのだ。
とりあえず、警察に通報でもしておいたほうがいいのではなかろうか。
そう思いながら、遠巻きに見ていると――。
ぽとり、と。
その人物の手から『一冊の本』が落ちた。
大きさは文庫本サイズ。
書店のブックカバーがかかっていて、タイトルは見えない。
不審者は、そのことに気づいていないようだ。
その代わりに、ぼくが見ていることに気づいたようで――。
逃げるようにその場を離れ、階段を駆け上った。
――上に行ったってことは、2階か3階の住人か。
そう思いつつ、エントランスまで進む。
そして、不審者が落とした本を拾った。
止めておけばいいのに、考えなしに拾ってしまった。
これが、後の『大騒動』につながるとは思いもせずに。
×××
家に帰り、玄関で靴を脱ぐ。
家の中は静かそのもの。
ぼく以外は誰も住んでいないのだから、当然だ。
わずかな寂しさを感じつつ、廊下を進もうとして――。
その時、不意に手に持っていた本が気になった。
その本は、妙な妖気でも放っているかのようにぼくの興味を引いた。
あのような風貌の人間が持っている本だ。
ろくなものではあるまい。
そうは思うのだが――。
いや、そう思うからこそ興味をそそられた。
落とし物の本を読むなど、褒められたことではない。
だが、そもそもぼくは褒められるような人間ではない。
ゆえに、これを読むことへの良心の呵責は存在しなかった。
「さて、どんなものか……」
ぼくはページを開いた。
中身は小説のようだ。
パラパラとページを捲っていき――。
「……ん?」
直後、驚きのあまり硬直してしまった。
この文庫本の中には、いくつかのイラストが収められていた。
イラストが描かれていること自体は、大したことではない。
昨今では、多量のイラストが含まれている小説も多くある。
問題は、そのイラストの中身である。
そこに描かれていたのは、主に少女の姿だった。
その中には、下着や肌が露出したものが多くあった。
それだけではない。
紅潮した顔でアレコレしている姿。
あるいはアレコレされている姿。
そこでは、めくるめく『官能の世界』が繰り広げられていたのである。
「これって、まさか……」
恐る恐る、ブックカバーを外す。
表紙に描かれていたのは、少しだけ服をはだけさせた少女。
中身に比べれば、大人しいものだった。
だが、しっかりと『18禁マーク』が書かれている。
タイトルは――。
『ボクは嫌がる君を官能に溺れさせたい』。
なんだこりゃ!?
とんでもないものを拾ってしまった。
これはただの落としものではない。
扱いに困る『桃色爆弾』だ。
今頃、あの不審者は本がないことに気づいているだろう。
そうなれば、ぼくを探すかもしれない。
いや、既に一件ずつ回っているかもしれない。
おいおい、どんなホラー映画だよ。
この家を特定される前に、元の場所に戻してしまおう。
そう考え、玄関に戻ろうとしたのだが――。
――どんな物語が書かれているのだろうか。
学術的興味からくる知的探求心が、ぼくの足を止めた。
そして、性的興味からくる痴的好奇心が、ぼくの目を文庫本に落とさせた。
ほんの数ページ。
本当に、数ページだけ――。
そう思いながら、ぼくはページを捲っていった。
×××
二時間後――そう、二時間後である。
気づけば二時間が経過していた。
その間、ぼくは夢中でこの桃色文庫を読んでいた。
めくるめく官能と感動の世界に引き込まれ、ページを捲り続けていた。
何かに取りつかれたかのように、紙面から目を離せなくなっていた。
ぼくは普段、小説を読んだりしない。
小説というものは国語のテストのために存在するものである。
これを好き好んで読む者は変態である。
本気で、そう考えていた。
そのぼくが、わき目もふらずに読了してしまった。
廊下で立ったまま、身じろぎもせずに。
ずっと動かなかったせいで、足が痺れている。
それほどまでに、面白かった。
物語に引き込まれた。
舞台となるのは、厳しい規則のある寄宿学校。
一匹狼の主人公は、厳格な性格の風紀委員の少女に興味を覚える。
そして、揶揄う目的で彼女に官能小説を勧める。
風紀委員は反発をしたが、少しずつ官能の世界に接していく。
それでも、風紀委員は主人公のことを認めない。
だが、ある事件をきっかけに友情が芽生え――。
それは、やがて恋へと変わっていき――。
「いい話だ……」
ぼくは久しぶりに感動していた。
とても美しい青春と友情の物語だった。
思わず、主人公とヒロインの関係に憧れてしまったほどだ。
性的な描写も相当数あったが、必要不可欠なものだった。
それも含めたすべてが、最後のシーンに収束していく。
そしてカタルシスが爆発するのだ。
いつまでもその余韻に浸っていたかった。
だけど、そういうわけにはいかない。
ぼくは本を閉じると同時に、現実に引き戻された。
「……しまった!?」
そもそも、これはぼくの本ではない。
拾っただけのものだ。
そして、拾ったものは返さなければならない。
ぼくは本を持って一階へ降りた。
元の場所に戻しておけば、あの不審者が気づくだろう。
そんな軽い気持ちだったのだけれど――。
ぼくは、そこで『予想外の人物』に遭遇することになる。
これが運命の出会いになるとは、この時は思いもしなかった。
×××
エントランスに行くと、そこには一人の女性がいた。
それを見たぼくは「マズいことになった」と思った。
ぼくの計画では、その辺に桃色図書を置いて、すぐに立ち去るつもりでいた。
だけど、人の目のある所でそんなことをするわけにはいかない。
どうしたものかと考えていると――。
「あ……」
そこにいた人物から、弱弱しくか細い声が漏れた。
ぼくはその人物に改めて視線を向け――驚愕した。
――何で、この人がここに。
目の前の光景が信じられなかった。
そこにいたのは、ぼくと同年代の少女。
現実感がないほどに整った顔立ち。
長い銀髪が、蛍光灯の光で美しく輝いている。
まるで童話の中から飛び出してきたかのように神秘的な美しさを纏っていた。
着ているのは、白の半そでブラウス。
青みを帯びたプリーツスカート。
細身の体によく似合っている――のだが、それには見覚えがあった。
というか、毎日見てる!
――あれ、ぼくの高校の制服だ。
つまりは、そこにいたのはぼくの同窓生だということだ。
そして、ぼくは彼女のことを知っていた。
2年生の『桐島エリス』先輩だ。
聡明叡智にして冷静沈着。
つねに余裕のあるクールな態度を崩さない。
そのためか、校内では『氷の姫君』というあだ名が付けられている。
そんなお方が、このアパートのエントランスにいる。
否、いらっしゃる。
いつもの無表情ではなく、絶望したような表情を浮かべながら。
にわかには信じがたい光景だった。
彼女はぼくの手元の本を凝視していた。
顔は微かに紅潮しており、目には涙が浮かんでいる。
――何かあったのか?
ぼくは桐島先輩の様子をうかがっていた。
すると、目が合い――先輩は、身体を硬直させた。
マズいところを見られてしまったかのように。
知られてはいけないことを知られてしまったかのように。
彼女は、何かを言いたそうに、口をパクパクとさせた。
そして、壊れかけのロボットのような動きで近づいてくる。
「あの、それ……」
頬を紅潮させながら、涙が溢れそうな目でこちらを見る。
そして、消え入りそうな声で、桐島先輩は言った。
「た、多分……だけど……。その……私の、です」
なんですと!?
【次回】
桐島エリスの秘密②:氷の姫君、辱められる
桃色文庫に関する問答が行われ、所有権を主張するエリス。
その果てに、エリスは絶望へと誘われる。
そんな彼女に、かけるべき言葉は――。
【お願い】
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