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D2:

 ――クソ。

 と言う言葉こそ口に出さなかったが、しかし廊下を歩く俺は内心かなり強く毒づいてから携帯をポケットに捻じ込んだ。

「ボクのもダメだ。お母さんだけじゃなくて、ミツバ市にいる先輩にも後輩にも繋がらない。メールも電話も……」

 隣について来る疾風は携帯を両手で握りながら、不安の色が濃く現れた声でそう漏らした。彼女は眉根を寄せ、怯えた子犬のような表情で俺を見上げる。

「……清十郎は?」

 すがるような期待が込められた疾風の声に、俺は首を左右に振り

「憑神も小早川先輩もダメだった。それどころか警察や消防にすら繋がらない」

 マジでやばいかもな――と溜息混じりに答えた。

 彼女が足を止めた。

「……警察に、電話したの?」

 そう返され、俺も立ち止まって沈黙する。

 そんなところに連絡しなければならなくなったというこの現実、平凡な日常の中でヌクヌクと暮らしていた俺や疾風にとって、それは冷静に受け止めるのにいささか重すぎた。彼女だけでなく通報を試みた俺本人でさえ、自分が110を押していたという事実に、今更ながら息苦しさを覚えているのだ。

「……ああ」

 こんなありふれた相槌さえ、スムーズに打てないほど。

 午前中二回行われる試験のうち、一回目の試験が済んでいて、現在は20分程度の休み時間だった。俺は疾風を連れて教室を出て、階段を降り、一階の廊下を静かに歩いていた。

 最初は疾風に耳打ちして伝えたとおり、学園の知り合いに携帯電話で連絡し、周りがおかしな様子になっていないかを尋ねるつもりだった。しか結果は全てが不通だった。

 ならば実際に会ってみようと、校舎から出ずに会える知り合いを確認する為、同学年のクラスの方に今しがた足を運んでみたのだが、悪い予感はまさに的中し、教室内の異常性は自分のクラスと同程度だった。皆が席に着いて、引き裂きそうなほど教科書やノートを開き、そこに顔を突っ込むように埋め、黄色く濁った目を血走らせていたのだ。唸っているヤツもいた。

 当然とういうべきか残念というべきか、その中には見知った顔も何人かいて、普段との余りのギャップに俺はめまいに襲われた。

 疾風はその時、恐らくは友達に声を掛けようとしたのだろうが教室に踏み入ろうとして、しかし俺はそれを手を掴んで止めた。振り返る彼女に、「次のクラスに行こう」と言った。それは本来の意味よりむしろ、中には入るなという意味だった。疾風は一拍の間をおいてから頷いた。

 一触即発。

 理由は分からない。ただそんな心地がした。あの中で何か凄まじく禍々しいものが渦巻き、あるいは勢いのあるものが閉じ込められていて、それが後ほんの一突きで爆ぜるような、そんな心地がしたのだ。疾風の一声が、まるでパンパンに張った風船に迫る一針のような――そんなものになってしまいそうな心地だ。

 他のどのクラスも同様だった。

 奇跡的なまでに、絶望的なまでに、まともなのは俺と疾風の二人だけだった。

 ――――他の校舎も推して知るべし、か。

 俺が知り合いへの連絡を止め、一生涯押す事はないだろうと思っていた110を押したのは、そうした経緯だった。

 しかし、それさえも、不通。

 普段からメールも電話も、他の県、他の市に比べて格安どころか無料で使わせてもらっているので、万一に通信のトラブルが起きても、俺は如月には感謝すべきなのだろうと思っていた。しかし、今日。他のどの日でもなく、完璧と言うには完璧過ぎる如月の通信システムが完全にストップしたのが、よりによっての今日。初めて経験するようなこの異常な日。

 思い返せば予兆は昨晩からあった。しかしただの偶然であれ。

 そう願わずにはいられない。何故ならばもし、それが必然――如月がこの異常の加害者であるか、被害者であるかの別なしに――であるとするなら、俺達だけではなくミツバ市そのものがただでは済まないからだ。

 如月がミツバ市で担っているのは通信だけではない。

 食料にしろ、交通にしろ、水道にしろ、生活には欠く事の出来ないもの全般を、ミツバ市は如月に依存し、管理させているのだ。  

 そんな事を振り返っている間に、俺達は目的の部屋に辿り着いた。

 疾風の見上げる先には、『保健室』と書かれたプレート。

 不安げな目を向ける彼女に俺は頷いて、それから静かに扉をスライドさせた。


 清潔感のある真っ白な部屋。

 消毒用アルコールの匂い。

 医薬品のビンが整然と並べられた棚が幾つか。身長計に体重計。診療用の机と椅子。

 校医は見当たらない。

 ――――ただ。

 目隠し用のカーテンで囲われたベッドの一つ。中途半端に締められているせいでベッドの先が見えていて、同時にそこで寝かされているピンっと伸ばされた足先が、金縛りに遭っているように震えていた。

 疾風もそれを見て、固まっている。

 今日、クラスで空席だったあそこに座っているはずだった生徒が、そこに寝かされている可能性が高い。

 俺はこの異常の発端や意味が、もしかしたらその生徒から探れるかも知れないと思い、ここへ来たのだ。

 押し殺されているような唸り声。ベッドの軋む音。振動。

 ――普通じゃない。

 また同じ言葉が、頭の中で再生される中、ベッドに寝かされているその生徒を覆うカーテンを、まるで小さな子が不安から親の服の裾をギュっと握るように掴む、俺。

 心境はまさにそうなのだが、やろうとしてることはまさにその逆で、俺はその行動を起こす前に疾風の方を一度見た。彼女は頷こうとも、首を左右に振ろうともしかなかった。しかし力強く俺を見ていた。

 再びカーテンに視線を戻す。脳裏を過ぎる、廊下のガラス片。割れた窓ガラス。ベッタリとした赤い雑巾。ビリビリにされたノート。異様なクラスの雰囲気。その原因か、あるいは手掛かりがあるかも知れないと、俺はカーテンを掴んでいる手に力を込め、一気に引いた。

 シャっとカーテンレールのすべる音。

 露になる全容。横たわっている彼女。

 目の当たりにする俺と疾風。俺は愕然とし、彼女は両手で口を抑えた。


 ツキガミ レイ


 黒いゴシックロリータのコスチュームの彼女が、ベッドに全身を縛り付けられ、痙攣するように震えていた。

 メガネの下の目を剥き、サルグツワを噛み切らないばかりに歯を食いしばっている。

「レイ!!」

 爆ぜるように疾風が叫び、覆いかぶさるように両手を肩にかけ、強く揺すった。そして何度も呼びかける。壊れた様に呼びかける。完璧にパニックになっていた。俺は疾風を制止したが、しかし彼女は聞かない。涙をボロボロ零しながら

「どうしたのレイ!! 何があったの!! 酷いよこんなの! こんなのってないよ!! すぐにボクが出してあげるから!!」

 と憑神を拘束している縄に両手をかけ、出来もしないのに引き千切ろうと、太い結び目を作る縄を左右へ引っ張った。

「落ち着け疾風! そんな事したって外れやしない!」

「何言ってるのさ清十郎! 早く出してあげないとレイが可哀想だよ!」 

「分ってるからその方法を考え――」

「何をやっているのですか?」

 と言う氷のような声を聞いて、俺と疾風が振り返るとそこには、注射器を手にした如月先生が立っていた。

 ――何時の間に。

「レイに何をしたんですか!!」

 掴みかかろうとする疾風を後から抱き止め、だから少しは落ち着け! と半ば羽交い絞めにする。先生はチラリと彼女に目をやってから、俺にそのコバルトブルーの目を戻し

「体調が悪いという事でしたので、一年生の憑神さんにはベッドで休養を取ってもらっているところです」

「何が休養なんですか! ベッドに雁字搦めに縛り付けて!」

「だから落ち着けって疾風!」

 なおもギュっと羽交い絞めにして黙らせる。そして俺も先生に目を向けて

「確かに、休養に縄は要らないと思うんですがあれも何かの医療行為ですか?」

 口ではそう言ったものの、目では『そんなわけないですよね?』と伝えた。しかし先生は

「そうですよ吉岡君。彼女は検温の結果、発熱が認められたので抗生物質の投与を決めました。しかしながら極度に注射を嫌がるので、止む無くあのようにしました。でないと注射の最中に思わぬ怪我をしてしまう可能性がありますからね」

 と、手に持っていた注射器から針を抜き取り、プラスティックの容器に入れた。そして憑神のベッドに歩み寄り、

「先程具合を見ましたが、座って試験を受ける程度なら問題なさそうなので、そろそろ戻ってもらいましょうか」

 そう言った。

 あれで、問題ない? そう思った。しかし先生は彼女を縛り付けている縄の、一番太い結びに手を掛け、どういう縛り方をしていたのか、アッサリと解いて見せた。

 ムクリと起き上がった憑神の目は今も血走っていて、息も肩でしている。やはり普通ではない。

 しかし先生が彼女の足元に屈んだ時、彼女は俺に目をチラリと向け、呟くように口をこう動かした。

 お う お う

 慣れた様子で彼女に靴下と上履きを履かせている先生は、もちろんそれに気付いていない。そしてそのまま彼女の背中に手を添えて立たせた。

「先生は校舎まで憑神さんに付き添っていきます。貴方達も早く教室に戻りなさい。それから吉岡君は稲峰さんが『熱っぽい』のでここに来ると言っていましたが、どうやら原因は単なる風邪ではないようですね」

 と先生がこちらに目をやり

「学園から相応の検査を要請してもらうようにしましょう」

 薄く微笑んだ――その視線の先には、俺の組み付いている腕の下、疾風が悔し涙を零していた。

 扉の開く音がして視線を戻すと、もう先生と憑神の姿はなかった。

 予鈴が鳴った。

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