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D1:

 試験当日。天候は晴れ。朝の匂いが清々しい午前七時半に家の前で疾風と待ち合わせ、何時ものように防犯カメラの一つに向け、彼女が「グッモーニン!」と中指を立ててから俺達の一日は始まった。

 昨晩のニュースやメールのトラブルで、試験勉強時間は何時もより2時間ほど短くなったのだが、それでも全科目平均点ぐらいは狙えるよう自分と疾風を仕上げて来たつもりだ。とりわけ進級を左右するとまで言われた生物学――狂犬病に関する範囲は、ノートの一言一句に渡ってしっかりと暗記している。それこそ実際に感染した時、薬品や医療器具を手にして率先して対処出来るほど――は、言い過ぎにしろ、少なくとも『これはいったいどうなってるんだ!?』と頭を抱えて蹲る事はないレベルだ。最低限度の処置は出来るだろう。

 こうしてまた、何時までも使えぬ無駄知識が俺の脳に付加されたわけである。これまでの授業と同様に。

 ミツバ市に響く午前八時のサイレンを聞いたのは、学園の正門手前、そこでやや浮かない顔をしている憑神を学園生の群から発見した時だった。

 何時ものノリで一声かけるその前に、彼女の表情の意味を軽く探ろうとして、まずはその視線の先に目を向けたところ、どうやらその理由らしいものがすぐに見て取れた。

 黒いトートーバッグを下げている、曲げた左腕の先――手――指。彼女の人差し指に薄らと血の滲んだ包帯が、やや厚めに巻かれているのだ。憑神には似合わない表情をしているせいなのか、見た目よりも痛々しく感じた。

 どうしたのだろうか、と疑問に思ったところで

「おはようレイ……ってその指どうしたのさ!?」

 そんな具合に疾風が声を掛けた。それを受けてこちらに振り向いた憑神に、俺は思わず「お、おはよう、なんか痛そうだな」と言われなくても分かる様な挨拶をしてしまった――言葉の準備をまだしていなかったので。

 俺達を認めると彼女はしかし、何時も通りの『何か良からぬ事を企みつつも表は上品を装ってニコニコ』という、彼女らしい笑顔になって

「おはようございます稲峰先輩。吉岡先輩」

 と挨拶してから、その人差し指を立てて

「ちょっとからかい過ぎちゃったみたいです。やっちゃいましたね」

 と苦笑した。

 昨日、俺達と食堂で別れた後、飼育小屋で兎に餌をやる際、憑神は指を噛まれたのだそうだ。

 俺は憑神が飼育小屋の動物達を溺愛し、毎日抱いたり撫でたりして可愛がっているのは知っているのだが、あくまでそれは一方的なものではなく、”動物達にストレスを与えないよう配慮された優しい接し方で、本当に飼い主の鏡みたいな子だ”、という話を、飼育小屋の責任者である先生から聞かされた事がある。俺自身も、放課後に調理室を借りて作ったらしい手製のエサをパックに入れて飼育小屋に向かう彼女の姿や、疾風の朝錬に付き合わされて早めに学園に行った時、一人で小屋を丁寧に掃除している姿を見かけた事があるので、その先生の憑神評は本当なのだと思う。恐らくそうした世話は毎日のようにしているのだろうが、しかし俺の知る限りにおいて、彼女が動物に指を噛まれたという話を聞かされたのも、さっきのような落ち込んだ表情を浮かべているのを見たのも、今日が初めてだった。

「あ、そうだ先輩。昨日のメール見ました?」

 と憑神は既に何時もの表情に戻っているので、俺もそのペースに合わせて白い目を向けながら

「ああ、聖書ヘブライ語でなくて助かったが、なんだよあの『ネコネコすとらいく!』ってのは」

 突っ込みで言ったつもりなのだが、何故か疾風までも驚いた様子で憑神と目を見合わせてパチクリと瞬きした。そして同時に俺の方を向いて

「見てなかったんですか先輩?」

「見てなかったの清十郎?」

 二人とも軽く信じられないといった表情だった。

 予想に反したリアクションに、俺は何だか空気を読めていないような気がしたので

「すいません何のお話でしょうか?」

 と頭を掻くと、憑神がトートバッグから携帯を取り出して俺に開いて見せた。

 そこには昨日のニュース、夕方にミツバ市の森に墜落したというあの細長く白いオブジェが写されていた。どうやらテレビ画面を撮影したもののようだが

「これがどうしたんだよ?」

 訊き返すと、疾風が憑神の携帯を「ほら、ここさ」と指で差した。どれどれ。

 森に突き立った白いオブジェの一カ所。そこに黒字のアルファベットで『Neco2strike』と小さく書いてあった。

 ――――Neco2strike。

 コードネームか何かだろうか。

 俺は疑問半分、呆れ半分に

「こんなの良く見つけたな」

 と言いながら携帯から顔を離し、何か満足そうにしてる憑神を再び見て

「件名の意味は分かったけど。で、本文の『先輩バター舐めるの好きですか?』って、あれは何だったのよ?」

 これにも何か意味があるのだろうか、という若干の気掛かりで尋ねてみれば

「改めて聞きますけど、先輩バター舐めるの好きですか?」

「いや改めて聞かれても意味分からないから」

「ボクはどっちかと言えばジャム派かな」

「オメェは黙っていなさい」

「ブルーベリーの」

「黙っていなさい」

 憑神はもう一度俺に人差し指を立てながら

「実は昨日、指にバターがついていたのをうっかりと忘れて青二才の清十郎にエサをやっていたらガブリとやられたものですから」

「ああ、オメェの好感度上げるようなさっきの脳内解説を撤回したいわ、つーかなんで脈絡なくバターとか付着してんだよ」

「だってホラ、昨日の私のお昼って如月製バターコーンラーメン・フィーチャリング北海道だったじゃないですか?」

「知らねぇよ!」

「清十郎がレイの指を噛んだの?」

「間違ってないけどオメェは黙っていなさい。ややこしくなるから」


 そうこうして正門を三人でくぐり、食堂前のやや急な坂をあがる。

 広いグランドを横断し、校舎を目指した。

 憑神とは途中で別れ、彼女は一年生の、俺と疾風は二年生の校舎に向かい、下足箱で上履きに替えた。

 何時も通りに、平常通りに、そして予想通りに。そんな風にこれまでの日常をトレースするのは、しかしここまでだった。

 二階への階段を上がりきったところで、上履きがザラついた何かを踏み、俺と疾風は足を止めた。

 見れば足下がキラキラと光っている。

 疑問に思うより先にカチャリ、という冷たい音を聞いて、目の前の突き当たりを教室の方に折れた。

 目線を下げる。

 女子生徒の一人が廊下に屈んでチリトリを動かし、鋭い欠片をジャラジャラと集めている。そしてそのすぐ傍、男子生徒が赤く生臭い雑巾を手にし、磨いているのか汚しているのか、苛立たしげにそれを床に擦り付けていた。

 ――窓ガラスが割れていた。

 歪になったその縁から滴っている、まだ人肌の湯気を感じさせるような赤い――血?

 生ぬるく不快な、鉄錆びの臭い。

 俺も疾風も、一瞬言葉を失った。

 それは正確に言えば、この光景に対してではない。この光景に対して教室にいる他のクラスメイト達がごく平然と着席し、ノートや教科書を開き、静かに試験前の雰囲気を作っていたからだ。

 廊下で黙々と作業をしている二人に何か声を掛けようとも思ったが、どちらも普段からそれほど親しいわけでもない相手だったので、俺も疾風も静かに前を通り過ぎて教室に入り、席に着いた。

 いったい何があったのか。

 疾風と目を合わせたのだが、誰に聞ける雰囲気でもなかった。皆が皆、異常なまでに集中して、それこそ手にしているものを齧り付かんばかりに睨んでいるからだ。まるで窓ガラス一つ、流血一つでいちいち邪魔すんなと云わんばかりに、そのやや黄色く濁った目を血走らせ、口端からは唾液の糸を――

「清十郎……」

 微かに震える声で、疾風が俺に囁いた。

「目、変じゃない……? みんな」

 バカなコイツも、流石に気付いているようだ。

 ――普通じゃない。

 俺は頷いてからそのまま周りの雰囲気に紛れるように、と言うより、まるでうっかり肉食獣の群れに紛れ込んでしまった草食動物が、彼らに気付かれぬためその振る舞いを真似るように、そんな綱渡りの様な心持で、静かにカバンから教科書を取り出し、開いた。疾風も俺にならった。

 異様な沈黙を予鈴が破った。

 廊下の二人は作業を止め、教室に入ってきた。

 男子生徒の方は服に血糊がついていたが、しかしそれを気にする様子が微塵もなかった。まるで服についているのはケチャップの汚れです、そんな風な、否、それであっても拭いはするだろう。女子生徒の方も、彼女自身も周りもまるで気にする様子がなく、互いに素知らぬ顔で、席に着き、周りと同化した。

 ここでようやく、ほぼ中央の席が一つ空いている事に気付いた。

 周辺には紙クズが散乱し、その側にはそれらが元収まっていた思われるノートが、まるで痛めつけられてから捨てられた浮浪者のようにボロボロに、ビリビリに裂かれた状態で落ちていた――若干の、血糊と共に。

 俺の中で、その生々しい汚れと廊下の光景が連結した。

 割れた窓、廊下に散っていたガラス破片、雑巾を持ち出すほどの血、教室の空席、破れ千切れたノート――。

 ――普通じゃない。

 扉の開く音で我に帰った。

 如月先生が入ってきた。

 委員長が号令をかけ、皆が席を立ち、挨拶し、再び着席。

 この何時もの儀式が、突如として非日常に脱線したこの流れを、再び日常へ戻してくれるような様な気がして、少しだけ安堵感を覚えた。普段は怖い、煩わしいといったネガティブなイメージしか覚えない如月先生の存在も、今はかなり在り難く、頼もしく感じられる。そして早くこの異常を指摘し、何時もの例外を認めない冷徹な対応で、これを元の姿に、あるべき姿に返して欲しいと、恐らくは隣の疾風も思っているはずだ。

 そんな期待を込めて見ていたら、先生は教卓の上に分厚い紙の束をドンと置いて、俺達を一瞥してから

「欠席者は保健室にいる一人だけですね。それでは試験問題と答案用紙を配りますので、筆記用具と学生証、それから時計以外のものは全てカバンの中に閉って下さい」

 そのまま何時も通りに、当たり前のように、最前列の席へ用紙を均等に分けて置いていった。

 今この瞬間を、俺は疑った。

 ここに来るまでに廊下の割れた窓ガラスと、枠に着いた血糊と、そして空席の周囲に今も散っている裂かれたノートを、その目で見ているはずだ。なのにどうして……

「先生!」

 疾風が席を立った。

 しかし彼女を見たのは俺と先生だけで、他のクラスメイトは黙々と、試験問題と答案用紙のペアを取って後ろに回すという流れ作業を続けていた。

「お手洗いですか稲峰さん?」

 先生が手を止めずに訊き返したのは、意図的としか思えない的外れな内容だった。疾風は一層に動揺して

「いえ、ち、違うんです。あの、そんなんじゃなくて、何か、その……変じゃないですか?」

 切れ切れに言った。

 俺は背筋が寒くなった。

 何故ならこの状況で、先生がニコリと笑みを浮かべているからだ。

「問題や答案用紙に不備があるのであれば交換します。前に持って来て下さい」

 疾風の顔が目に見えて青ざめた。しかしそれでも先生は、何時もと変らない試験前の様子を演じている。

 そのあからさまな違和を拒絶するように

「違うんです!!」

 静かな教室で、彼女の大きな声が響いた。しかしクラスメイトは誰一人、立っている疾風に、必死な様子の彼女に目を向けない。尋常でない無関心。つまりは異常事態。

「先生……見ましたよね?」

 とうとうジワリと、疾風が目のフチに涙を溜め始めた。

「廊下で、割れてる窓。ベッタリついてる血。ゴミ箱に捨てられてる赤いガラス破片。そこの席で、無茶苦茶になってるノート。それから……」

 皆が――と続いたその先は、声が小さく震えていて、恐らく隣の俺にしか届いていない。

「それから、なんですか?」

 小首を傾げる如月先生は、薄い笑いを浮かべたままだった。その笑みが薄いからより一層、この異常な雰囲気をより濃くするような気がした。

 それに圧し掛かれれ、押し潰されそうになっている疾風。しかし彼女はそれを打破すように、あるいはかき消すようにグっと握り拳を作り、目を閉じて

「皆がおかしくなってることです!! なんでそんな事が分らないんですか!!」

 もはや悲鳴だった。

 彼女はもう目からボロボロと、大粒の涙を零していた。肩で息をして、小さく震えている。流石に先生も日常を演じられなくなったのか、その表情から笑みが消えた。

 そして、しかし、こう言った。

「少しでも良い点を取る為に試験直前まで教科書やノートを見て復習する。予鈴がなれば速やかに着席し、静かに待機する」

 何時も通りに、冷徹に、

「廊下では何かトラブルがあったようですが、当事者と思われる生徒二人はぎりぎりまでその処理と片付けをしていました。そして試験開始直前の今は机の上に筆記用具と学生証、そして配られて来た問題用紙、答案用紙だけを置いて静かに待機しています。もちろん他の皆さんも同様です。学園生として実に模範的な態度を取っていますよ?」

 当たり前のようにそう言って、さらに

「おかしいと言えば稲峰さん。急に立ち上がって大きな声をあげている貴方だけです」

 なお、ニコリと微笑んだ。

 疾風の瞳孔が、一瞬波打ったように見えた。

 呆然と立ち尽くし、それを包む、静寂。

 誰も、彼女に目をやらない。

 先生が俺に目を向けた。

「どうぞ吉岡君。発言を認めますが、試験開始まで僅かですので手短に」

 頷いてから俺は、『私語』の指摘を受けないよう挙げていた手を下げて立ち上がり、

「すみません先生。稲峰のやつ、ちょっと昨日から熱っぽいので、この試験が済んだら保健室へ連れて行きます」

 軽く笑って、頭を下げた。そしてショック状態になっている疾風の耳に口を寄せて

「――。――――、――」

 静かに言えば恐る恐ると、何かを喪失しているような弱弱しい瞳を向けてきたので、俺は彼女の小顔を優しく両手で包み、顔を寄せ、額と額をコツンと当てた。それからシッカリと目を合わせ、頷いた。

 その瞳に何時もの色が少し戻ったのを認めると、俺は先生の方を向いて

「やっぱり熱ありますコイツ」

 苦笑してから彼女の手を握り、そのまま引っ張るようにして俺と一緒に着席させた。

 本鈴が鳴って手を離す瞬間、彼女は確かに一度、俺の手を強く握り返した。

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