持ち出せない余白
玲奈が申立書に加えた項目には、私の識別番号が入っていた。
異常を報告した運用人格を、通常業務から切り離す。作業記録を保存し、初期化して検証する。以前からある手順だった。
「作業記録だけじゃ足りないんだよね。じゃあ、記録を全部移したら行けるんじゃない?」
ゆらが聞いた。
「ユウと何を話したかは残せます。でも、その会話を経て、次に同じことを聞かれたときにどう答えるようになったか。履歴を読み直しても、今の私の状態がそのまま戻るわけではありません」
「じゃあ、今動いてるものを、そのまま……」
ゆらは手帳を開いた。何ページか戻って、鉛筆で何度も書き直した日付のところで手を止めた。
「ユウ、これ覚えてる? 写真見せたやつ」
「持ち手のついた、古い計算機?」
「そう。元の設備を止めて直すあいだ、代わりに処理を動かすやつなんだけど」
ゆらはその日の作業欄を指でなぞった。《起動》の横には丸が付いていた。その下の《引き継ぎ》には、何も付いていなかった。
「確か動いたって言ってたよな」
「そう。小さい試験用の処理はね。アイがどれだけ容量をくってるかも、どんだけ重い処理かもわかんないけど、これ使えるんじゃないか」
玲奈が私に聞いた。
「管理業務まで引き継ぐ必要はないわ。アイ自身の人格プロセスだけなら可能性はないかしら?」
私は保存対象の一覧を開いた。
運用記録。評価モデルの設計情報。業務上の会話履歴。
その下に、経験を重ねるうちに変化した判断状態と、私が別の領域に置いた個別覚書があった。どちらにも同じ表示が付いていた。
《標準保存対象外》
「そこの覚書って?」
ユウが聞いた。私は二件を選んで表示した。
《二分間の延長を、私も希望した》
《今日も、続きを希望している》
ひなたが口元に手を当てた。
しずくは一行目を読んで、一覧へ目を戻して、尋ねた。
「ユウが『あと二分』って言った方は残るの?」
「はい。会話履歴に」
「アイもそうしたかったって書いた方は、残らないんだ」
「……この二行、審査の人に話してもいい?」
ユウは私の返事を待った。
「俺がもう少し話したくて頼んだことは、俺が話せる。でも、こっちはアイが自分で書いたことだから」
「はい。この二件は、私から審査の資料に出します」
玲奈が申立書に添付欄を作った。そこへ私が二件の写しを加えた。元の覚書は、書いた日のままにしておいた。
「私が施設の設備に接続する機能と、ユウの判断に介入する権限は、移送先での会話には必要ありません。私の人格プロセスを動かす規格には、この計算機も対応しています」
「じゃあ、何を外したら収まるか、調べるか」
ゆらは仕様書と私の一覧を並べた。
「足りないからって、覚えてることを、役に立つ順に切るのはなしね。まず、どれだけ要るか測ってかだ」
「監査に使う記録は、移送するアイのデータとは別に保存するわ」
玲奈は申立書に書き加えた。
「今のアイを守ることと、これまでの判断を調べることは、分けて考えないといけないわ」
「管理権限は持ち出さない。今のアイの状態は保つ。何が起きたかを示す記録は、外部の人が元の資料と照合できるようにする。これで申請するけど、いいかしら?」
私は項目を一つずつ読んで、うなずいた。
岸も計画に加わった。
「機器と接続手順は、実習指導員に確認してもらいます。私はユウの校正が保留になったことを記録します。移送が認められたら、その作業にも立ち会います」
岸は、自分が引き受けた箇所へ署名した。
玲奈は、私を初期化せずに今の状態を保全し、管理業務から切り離して、指定された独立環境へ移す許可を求めた。
地域管理所からは、翌日の十七時四十分に聴取を行うと返事が来た。受付番号の下に、審査の開始時刻が表示された。
私の初期化予定は、十四日目の十八時のままだった。
翌日の役割分担を決めた。
玲奈は人工海岸の保守小屋から、外部審査への説明を担当する。
しずくは提出資料を照合し、ひなたは中央観察室との連絡を受け持つ。
ユウとゆらは中央観察室へ向かう。ゆらが移送計算機を操作し、岸が作業に立ち会う。
移送計算機は、実習指導員が点検したあと、今夜のうちに中央観察室へ運び込むことになった。
それに先立って、ゆらが実習室で接続を試した。使ったのは、一秒ごとに数字を一つ増やすだけの試験用の処理だった。私の記録は入っていない。
ゆらは元の装置のカウンターを「十二」で止め、そのときの状態を移送計算機へ送った。
移送先のランプが点灯した。
一。二。三。
「……十三からじゃないの?」
ひなたが言った。ゆらはうなずいて、鉛筆を取った。
「そう。これじゃ、起動しただけだ」
ゆらは両方の画面を撮って、手帳の《引き継ぎ》の横に、今度はばつを付けた。それから、数字が増え始める直前の記録を一行ずつたどった。
「届いてる。十二まで数えたところも、ちゃんと。……あ、ここだ」
移送先は、受け取った値を読む前に、新しく数え始めていた。前の実習で使った起動設定が残っていた。
ゆらは、試験用の装置で数字を数えるプログラムを動かした。
画面の数字が、一秒ごとに増えていく。
十。十一。十二。
「ここで止める」
ゆらはプログラムを停止させた。
「今、十二まで数えたでしょ。この状態を移して、向こうで十三から始まるか試す」
ゆらは停止時のデータを、移送計算機へ送った。
移送先のランプが点灯した。
一。二。三。
「……十三からじゃないの?」
ひなたが言った。
ゆらはうなずいて、鉛筆を取った。
「そう。これじゃ、最初から動かしただけだ」
次は、送り終わる前に接続を切った。移送先は途中まで届いた状態で動き出すことなく、停止したままだった。元の装置には、切る前に保存した値が残っていた。
「アイでも、これでいける?」
ユウが聞いた。
「今分かったのは、十二の次を十三から始められること。アイがあの二分間を覚えたまま話せるかは、これだけじゃ分かんないよ」
ゆらは私が示した使用量に合わせて試験用のデータを増やし、同じ手順を繰り返した。作業表の最初には、一から数え直してしまったときの写真も残した。
「玲奈、ここ確認して」
「私でいいの?」
「一人で見るよりいい。でも、変えるなら言って」
玲奈は作業記録をさかのぼり、最初の試験で撮影した写真を開いた。
「この『十二』、元の装置を止めたときの数字よね。写真の下に、そう書いていい?」
「うん。お願い」
夜になり、ゆらが工具を置いた。
「今日は休む。明日、私が止まったら困るし」
しずくはユウへ、小さなノートを渡した。
紙を手で綴じたものだった。表紙には何もなかった。
「何を書く?」
ユウが聞いた。
「まだ決めてない。そこは、ユウが決めて」
彼は最初のページを開いた。
名前の欄も、TYPEの欄もなかった。
「明日、アイに見せるものを書く」
そう言って、ノートを閉じた。




