第2話 鳥居の向こう / BEYOND THE TIME GATE
第2話 鳥居の向こう / BEYOND THE TIME GATE
最初に戻ってきたのは、音だった。
馬が地面をける音。
刀と刀がぶつかる音。
人の叫び声。
そして、遠くから響く獣のうなり声。
それらが暗闇の中で重なり合い、近づいては遠ざかり、また別の方向から押し寄せてくる。
次に戻ってきたのは、においだった。
ぬれた土。
こげた木。
煙。
そして――血。
二十三世紀の東京では、決して感じることのない、生々しいにおいだった。
「……っ」
KAITOは激しくせき込んだ。
口の中に泥の味が広がる。
気がつけば、全身を冷たい地面に投げ出されていた。
ゆっくりと目を開ける。
最初に見えたのは、黒い空だった。
旧東京で見上げていた、色を失った灰色の空ではない。
厚い雲のすき間を、赤と紫の光がゆらゆらと染めている。
炎だ。
どこかが燃えている。
KAITOは片手を地面につき、体を起こした。
手のひらが泥の中へ沈む。
冷たい。
ぬれている。
だが、不思議なほど生きた感触があった。
旧東京のひび割れた道路とは、まるで違う。
足元にあるのは、何度も人や馬にふみ固められた土だった。
「ここは……」
KAITOは立ち上がり、周囲を見渡した。
そこに広がっていたのは、彼の知る東京ではなかった。
低い木の家々。
細い土の道。
雨にぬれた黒い板のかべ。
屋根の先から落ち続ける雨水。
そのすべてが炎の赤い光に照らされ、夜の中で不気味にゆれている。
突然、少し離れた場所から大きな音がした。
一つの家がくずれ落ちる。
次の瞬間、炎が夜空へ一気にふき上がった。
「うわ、熱っ……!」
熱い風がKAITOの顔をなでる。
冷たい雨が降っている。
それなのに、空気は異様なほど熱い。
煙がのどへ入り、またせき込む。
こげた木。
焼けた油。
ぬれた土。
そして、その奥にまじる鉄のようなにおい。
KAITOは一瞬、息を止めた。
血だ。
そう気づいた瞬間、腹の奥が強く縮んだ。
すぐ近くを、一人の男が血まみれの腕を押さえながら走り抜けていく。
その後ろを、泣き叫ぶ女が追っていた。
さらに向こうでは、倒れた荷車のそばで馬が激しく鳴いている。
「助けてくれ!」
暗闇のどこかから、男の叫び声が上がった。
直後。
刀がぶつかる鋭い音。
短い悲鳴。
そして――静けさ。
KAITOは息をのんだ。
これは記録ではない。
映像でもない。
過去の音声データでもない。
全部が今、この場所で起きている。
炎の粉が風に乗って舞い上がり、黒い空へ消えていく。
その向こう。
遠くに見える大きな門の近くで、何十人もの人影が入り乱れていた。
武者たちが走っている。
刀が光る。
そのさらに奥。
燃える家々の屋根を越えて、巨大な影がゆっくりと動いた。
地面が震える。
KAITOの足元の水たまりに、小さな波が広がった。
――ドン。
一度。
――ドン。
もう一度。
何かが歩いている。
人間ではない何かが。
そのたびに、街全体が震えているようだった。
KAITOはようやく理解し始めた。
ここは、ただの「過去」ではない。
歴史の記録でもない。
今も人間が生き、戦い、死んでいる世界だった。
KAITOは無意識に端末へ手を伸ばした。
反応は鈍い。
何度か操作しようとして、ようやく光が戻った。
ノイズ。
乱れた座標。
そして、白い文字。
NETWORK LOST
少し遅れて、その下にもう一行が現れる。
AMATERASU CONNECTION : NONE
KAITOの指が止まった。
「……切れてる?」
生まれてから一度も、AMATERASUとの接続が完全に消えたことはなかった。
どこにいても。
何をしていても。
AMATERASUは必ずそこにいた。
だが今は違う。
何もない。
監視も。
命令も。
警告も。
一瞬、強い不安が胸をしめつけた。
世界から取り残されたような感覚。
それなのに――
どこかで、ほっとしている自分もいた。
誰にも見られていない。
誰にも記録されていない。
その事実が、妙に心を軽くした。
「……ここが、あの鳥居の先……?」
その瞬間。
背後で、何かが動いた。
KAITOは振り返る。
暗闇の中。
赤い光が二つ浮かんでいる。
少し離れた場所に、さらに二つ。
目だった。
低い息づかい。
泥をふむ重い音。
一歩。
また一歩。
闇の中から、それが姿を現した。
人の形に近い。
だが、人間ではない。
腕は異様に長い。
皮ふは黒く焼けた木のようにひび割れている。
口は大きく裂け、その奥から鋭い牙がのぞいていた。
KAITOの頭に、あの時見た映像が頭によみがえる。
炎。
都。
赤い目。
裂けた口。
「……鬼」
思わず声がもれた。
鬼は、それに答えるように低くうなった。
KAITOは後ずさる。
戦う方法など知らない。
二十三世紀では、人間が直接危険と向き合う必要などなかった。
危険は見つかる前に管理される。
問題はシステムが処理する。
人間はただ、決められた安全な場所で生きていればいい。
だがここでは。
誰も助けてくれない。
AMATERASUもいない。
鬼が地面をけった。
泥が大きくはねる。
「――っ!」
速い。
さっきまで数歩先にいたはずの鬼が、一瞬で目の前まで迫っていた。
赤い目。
大きく裂けた口。
KAITOの顔ほどもある黒い爪。
考えるより先に、体が後ろへ動いた。
だが遅い。
爪が胸元をかすめる。
服が裂けた。
KAITOは地面に倒れ込み、そのまま泥の上を転がった。
「くっ……!」
すぐに立とうとする。
だが足に力が入らない。
鬼がゆっくりと向きを変えた。
口元が、大きく裂ける。
まるで笑っているようだった。
低いうなり声。
次の瞬間。
再び鬼が地面をける。
今度は逃げられない。
KAITOの目の前いっぱいに、黒い爪が広がった。
――死ぬ。
そう思った、その瞬間。
風が止まった。
いや。
一瞬だけ、音そのものが消えた。
KAITOの前に、一人の男が立っていた。
いつ現れたのか分からない。
長い髪。
細い刀。
ただ、それだけ。
鬼の爪は、男の顔のすぐ前まで迫っている。
それでも男は動かなかった。
「……危な――」
KAITOが声を出しかけた瞬間。
男の姿が、わずかにぶれた。
――ザンッ。
次の瞬間。
鬼の腕が宙を舞った。
一拍遅れて、黒い血が雨の中へ吹き上がる。
「ギャアアアッ!」
鬼が叫んだ。
KAITOは息をのんだ。
何が起きた?
男はもう、鬼の横に立っている。
刀は下がったまま。
刃の先から、黒い血が一滴だけ落ちた。
鬼が怒り狂った。
残った腕を振り回し、男へ飛びかかる。
だが。
届かない。
鬼が動くたび、男の姿が一瞬だけ消える。
次に見えたときには、立っている場所が変わっている。
右。
左。
背後。
前。
速いというより――
途中がない。
まるで男が動いたのではなく、世界の方が彼の位置を書き換えているようだった。
鬼が振り返る。
その顔に、初めて恐怖が浮かんだ。
「……グ……」
男は何も言わない。
ただ、刀を静かに構えた。
鬼が後ずさる。
さっきまでKAITOを獲物として追っていた化け物が。
今は逃げようとしている。
男が一歩だけ前へ出た。
紫の光が、刀の刃を走った。
鬼が大きく口を開く。
咆哮を上げようとした、その瞬間。
――スッ。
男が鬼の横を通り過ぎた。
音さえ、ほとんどなかった。
一歩。
二歩。
男が止まる。
鬼は立ったまま動かない。
雨だけが降っている。
KAITOには、何が起きたのか分からなかった。
そのとき。
鬼の首に、一本の細い線が浮かんだ。
線が、ゆっくりと赤黒く開いていく。
そして――
鬼の首が落ちた。
巨大な頭が泥の上へ転がる。
黒い血が噴き上がり、雨と混ざって地面を染めた。
首を失った体が、一歩だけ前へ進む。
そして。
ドサッ。
重い音を立てて倒れた。
次の瞬間、鬼の体も、落ちた首も黒い霧へと変わり始める。
腕。
肩。
胸。
顔。
すべてが煙となり、雨の中へ溶けていく。
最後まで残った赤い目だけが、男を見ていた。
恐怖に見開かれたまま。
やがて、それも消えた。
男はゆっくりと刀を下ろした。
刃についた黒い血を、一度だけ振り払う。
KAITOは泥の上に座り込んだまま、その姿を見上げていた。
鬼が怖かったからではない。
目の前の男の方が、もっと怖かった。
男は、先ほど斬り落とした鬼の腕が消えていった場所へ視線を落とした。
ほんの一瞬。
その目に、何か嫌な記憶を思い出したような色が浮かぶ。
「……鬼という奴は、腕一本になっても油断できん」
KAITOは眉をひそめた。
「腕一本?」
男は答えない。
刀についた黒い血を、一度だけ振り払った。
それからようやく、KAITOを見る。
炎に照らされたその目が、顔、服、肩口、手元の端末へと順番に動いていく。
まるで、何かを確かめているようだった。
「……本当に来たか」
「何?」
男は近づいてきた。
KAITOの肩口を見る。
服は、さっきの鬼の爪で大きく裂けている。
男の表情がわずかに変わった。
「そこは、昔から避けるのが遅いな」
KAITOの体が固まった。
「……昔から?」
短い沈黙。
雨の音だけが二人の間に落ちる。
男は、自分が余計なことを言ったと気づいたように視線を外した。
KAITOは立ち上がる。
「あんた……俺を知ってるのか?」
男は答えない。
ただ、KAITOの顔をじっと見ている。
初めて会った人間を見る目ではない。
長い時間を越えて、失った誰かをもう一度見つけたような目だった。
やがて男は静かに言った。
「顔は同じだ」
「……何?」
「だが、目が違う」
KAITOの背筋に冷たいものが走る。
「誰と比べてる?」
男は答えない。
代わりに歩き出した。
「待て」
KAITOもその後を追う。
二人は燃える家々の間を進んでいく。
少し先に、大きな橋が見えた。
その向こうでは炎がゆれ、人影のようなものが動いている。
KAITOが橋の方へ向かおうとした瞬間。
男が足を止めた。
「そっちじゃない」
「でも、橋を渡った方が早いだろ」
「橋は通らん」
「なぜ?」
男はしばらく橋を見つめていた。
雨の中。
その目だけが、異様に鋭い。
「夜の橋で、女の声を信用するな」
「……女?」
それ以上、男は何も言わなかった。
そのまま橋を避け、細い道へ入っていく。
KAITOは理解できないまま、その背中を追った。
歩きながら、どうしても男の腰の刀が気になった。
さっきの鬼を斬った一撃。
速いというより、動きそのものが見えなかった。
KAITOは男の刀を見る。
「その刀……何なんだ?」
男は歩みを止めた。
ゆっくりと刀を抜く。
炎の光が刃の上を走る。
黒い血が、まだわずかに残っていた。
KAITOは無意識に息を止めた。
男は刀を見つめたあと、静かに鞘へ戻す。
カチン。
乾いた音。
「名を知る必要はない」
「名前があるのか?」
男は少しだけ間を置いた。
そして低く言う。
「鬼の方は知っている」
その瞬間だった。
遠くの闇から聞こえていた鬼の声が、ぴたりと止んだ。
KAITOは振り返る。
さっきまで確かに聞こえていた。
複数の鬼の声。
それが突然、消えた。
まるで――
男の刀の存在に気づいたかのように。
「……あんた、本当に何者なんだ」
男は答えなかった。
ただ刀の柄へ手を置いたまま、燃える都の奥を見つめている。
やがて、小さく息を吐いた。
「それを知りたいなら、生き残れ」
そして再び歩き始める。
KAITOはその背中を見つめた。
名前も知らない。
何者なのかも分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
この男は、自分のことを知っている。
それも――
今日初めて会った人間としてではなく。
ずっと以前から。
KAITOがまだ知らない何かを知る者として。
数歩進んだところで、男が止まった。
振り返らないまま言う。
「それと――」
わずかな間。
「その端末を落とすな。お前は昔から、肝心なものをなくす」
KAITOの呼吸が止まった。
まただ。
昔から。
聞き間違いではない。
「あんた……」
男はようやく少しだけ振り返った。
炎の向こうで、その顔の半分だけが赤く照らされる。
「……遅かったな、KAITO」
KAITOの心臓が強く鳴った。
自分はまだ、
この男に名前を名乗っていない。
「どうして俺の名前を知ってる?」
男は再び前を向いた。
「何も知らずに来たのか」
「来たんじゃない。鳥居を抜けたら、ここに出ただけだ」
男の足が止まった。
「鳥居……」
初めて、その声にわずかな動揺が混じった。
「やはり開いたか」
「やはり?」
KAITOは聞き逃さなかった。
「あんた、あの鳥居を知ってるのか?」
返事はない。
代わりに男は、KAITOの持つ端末へ視線を落とした。
二十三世紀の機械。
この時代の人間なら、見たことすらないはずだ。
だが男は驚かなかった。
「その道具も、話に聞いていた通りだ」
「……誰から聞いた?」
男は答えない。
「俺が来ることを、誰かが知っていたのか?」
遠くで再び鬼の声が響いた。
男は燃える都へ視線を向ける。
「今夜、京では多くの者が死ぬ」
「何?」
「人だけではない」
男の目が炎の向こうを見つめる。
「鬼も、神も。そして歴史そのものもだ」
KAITOは言葉を失った。
「待て。俺に何の関係がある?」
男はKAITOを見る。
「まだ何もしていない」
低い声だった。
「だから困っている」
その意味を尋ねるより早く、男は歩き出した。
「ついて来い」
「どこへ?」
「お前を待っている者のところだ」
KAITOの足が止まる。
「……誰が?」
男は振り返らない。
刀の柄に手を添えたまま、炎の向こうを見据えた。
「この京で、鬼を斬ることを許された男だ」
一瞬。
燃え上がる炎の中で、男の服に刻まれた紋が見えた。
KAITOには、その意味は分からない。
だが後に彼は知ることになる。
その紋をかかげた者たちが、この時代で最も恐れられた鬼たちと戦った者であることを。
そして――
SHADOW MATRIXの最初の鍵と、深く関わっていることを。
男は再び歩き始める。
馬の鳴き声。
兵たちの叫び。
刀と刀がぶつかる音。
この夜そのものが、巨大な戦場になっていた。
KAITOは端末を握りしめ、その背中を追う。
そのとき。
端末が突然震えた。
接続先など存在しないはずの表示に、白い文字が走る。
[ THE LOST KEY : 01 ]
続いて。
[ LOCATION IDENTIFIED ]
[ HEIAN-KYO ]
そして――
[ TEMPORAL COORDINATE : 10XX A.D. ]
KAITOの呼吸が止まった。
平安京。
西暦十世紀。
千年以上前。
本当に、自分は過去へ来ている。
だが表示は、それで終わらなかった。
文字列が乱れる。
見たことのない赤い警告が点滅した。
[ HUMAN SIGNATURE DETECTED ]
[ IDENTITY : KAITO ]
「……何?」
KAITOは端末を見つめた。
自分を認識しただけではない。
その下に、もう一つの表示が現れる。
[ MATCHING SIGNATURE DETECTED ]
[ DISTANCE : 4.7 km ]
一瞬、意味が理解できなかった。
同じ個体情報。
同じ名前。
だが座標は、自分の現在地ではない。
燃える平安京の奥。
この時代のどこかから――
もう一人のKAITOが検出されている。
「そんな……」
第1話で見た映像が頭によみがえる。
炎。
鬼。
鳥居。
そして、自分とまったく同じ顔をした男。
KAITOはゆっくりと顔を上げた。
目の前の男は、驚いていなかった。
むしろ、ようやく確認できたというように静かにKAITOを見ている。
「……あんた、知ってたのか?」
男は答えず、燃え上がる京の奥へ視線を向けた。
「急げ」
「待て。これはどういう意味だ?」
男が振り返る。
炎に照らされたその顔には、笑みも驚きもなかった。
「お前に会わせる」
「誰に?」
短い沈黙。
遠くで鬼の声が響いた。
男は言った。
「――この時代のお前自身に。」
KAITOの端末に、最後の警告が点滅した。
[ THE LOST KEY : 01 ]
[ TWO KAITO SIGNATURES DETECTED ]
[ HISTORY CONFLICT ]
――第2話 END
ここから、KAITOの物語は本格的に動き始めます。
燃える平安京。
鬼を斬る謎の男。
そして――この時代に存在する、もう一人のKAITO。
次話
第3話 鬼斬り / THE ONI SLAYER
THE GATE IS OPEN.
現在、『SHADOW MATRIX』はランキング入りしています!
ここまで読んで面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
ぜひブックマーク・評価(★)で応援をお願いします!
皆さんの応援が、この物語をさらに先へ進める大きな力になります。
そしてYouTubeでは、
映像と音楽で描く『SHADOW MATRIX』も公開しています。
小説で読む世界と、映像で体験する世界。
ぜひ両方から『SHADOW MATRIX』を楽しんでください。
▶ YouTube — SHADOW MATRIX
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