白
この村は、入り口を前とした時に、後ろ半分が森の中にめり込んだような立地となっている。
どうして魔物がいる森にめり込む形で作ったのかと先人たちの不合理さに頭を抱えたくなるが、それはいったん置いておこう。
魔物が住んでいる森にめり込んだ村をつくる。そんな理にかなっていない行為を押し通してしまうのが、ここで初登場の異世界要素、結界だ。
結界と言うと、結界師みたいな人が呪文を唱えて四隅でハッ! とかやってるイメージが強いが、この世界の結界はそういうものではない。
十メートルほどのロープが木を経由して何本もつながり、ぐるりと村を囲んでいる。
それが、魔物が侵入してこないように張られた結界らしい。
はたから見るとただ立ち入り禁止のロープが張ってあるようにしか見えない。
子供とか簡単に潜り抜けていっちゃうだろ、と思ったのだが、どうやらあんな見た目でも潜り抜けることも飛び越えることもできないし、おまけに子供の力じゃ切ることもできないという優れものらしい。
魔物は基本的に自分の縄張りである森から出ないうえに、そもそも村の近くにはそこまで多くの魔物がいるわけではないのでこちらから行かなければ安全だ、とはケニーさん談だ。
一応、村人が交代制で一日三度結界がちゃんと張れているかどうかを確認しているらしい。
村の近くでは少ない魔物、日に三度の見直し、縄張り意識、掟。
これらによって、今までは結界が崩れていたことはあっても怪我人が出たことがないそうだ。
しかし、一つだけ問題がある。
外からは魔物も寄せ付けないほどの強度を誇る結界だが、壊れていた時に直さなければならない都合上、内側からはそこまでの強度はないらしい。
先ほども言ったように子供が壊せるほど様な強度ではない。
しかし裏を返すと、大人の男が壊そうと思えば壊せてしまう程度の強度しかないのだ。
もちろん、そんなことをする人間が出ないように掟がある。
実際、これまでそんなことをした人間はいなかった。
当然だ。村にいる人間がそんなことをやってもメリットがないし、デメリットが大きすぎると、考えればわかるのだから。
だがもし、村から出ようとしている理性なき人間がいたらどうだろうか。
それも、村一番の腕っぷしの男とくれば。
「ハァ……ハァ……」
目の前にある木に手をつきながら、荒げた呼吸を整える。
当然、その間もロープの確認は怠らない。
しかし、外れだ。
このロープは、まだきちんと自身の役目を果たしている。
その事実を認識すると、すぐに次の木へと向かう。
暑い。
これで何本目だろうか。
結界のロープを一つ一つ調べ上げていく。
その作業は、想定以上に労力を要するものだった。
木と木一本一本の幅は十メートルほどしかない。
歩いても数秒と言ってところだ。
しかし、作業の効率化を図るために走って移動する行為と、結界の有無を確認するためにロープの周りを行ったり来たりする行為が合わさると、これがなかなか地獄に化ける。
走る、確認する。走る、確認する。
この作業を繰り返していくうちに、息は加速度的に切れてくる。じわりじわりと減っていく体力に対して残りの作業量が減っている実感は全くない。
その終わりのない地獄は、まるで小学生の頃大嫌いだった二十メートルシャトルランだ。
今や俺の一番嫌いなことわざの、塵も積もれば山となる、をこんなところで実感するとは思わなかった。ちくしょうめ。
俺が言えた話じゃないが、この体は体力なさすぎだ。
ベンさんが消えていることが発覚してから俺たちは、まず最初に結界の確認をすることになった。
というのも、ベンさんが村から抜け出しているとしたらそれしか方法がなかったからだ。
この村は、半分森にめり込んだ形状と結界の都合で、出入りできる場所はひとつしかない。
ベンさんがいなくなったタイミングから考えて、村の入り口でクラウス達を待っていたカティアさんに気付かれずに村から出ることはできないのだ。
ならば結界を壊して村の外に出たに違いないということになり、俺とクラウス、リリーで村中の結界を調べているという状況だ。
カティアさんはショックで気を失ってしまったので、お父さんに村の入り口を見張ってもらっている。
「……そうだ!」
結界が張ってある空間に、そっと手を添える。
バチリ、と鋭い音がして、掌に小さく鋭い痛みが走った。
ロープが張ってある場所は、高さ無視で結界が貼ってある。
上の方から超えようとしても、下からくぐろうとしても電気のようなものを帯びた壁にはじかれるのだ。
ここら辺は、所謂結界と似たような様相を呈している。
これなら、俺の思い付きも実行できそうだ。
後は、手ごろな長さの枝があれば……。
辺りを見回すと、すぐ近くの草むらにちょうど俺が望んだような枝が落ちていた。
「……よし」
枝を手になじませると、先端が結界に掠るように振る。
また、バチリ、と音がしたが今度は痛みがない。
どうやら、木の枝越しなら触るぐらいはできるようだ。
「ハッ! ソイヤッ!」
走りながら、枝を結界にたたきつけていく。
これなら、結界がない時はすぐにわかるし効率的だ。
「ヨッ! ……おわっ!?」
急に手ごたえがなくなり、思いっきり空振った木の枝が空気を切る。
謎にちょっと恥ずかしい。
いや別にそれが目的だったわけだから、失敗して空振ったわけじゃないんだけどなんか恥ずかしい。
ともあれ、手ごたえがなかった場所のロープを見ると、ちょうど真ん中で二つに切れていた。
どうやら当たりのようだ。
「おーい! みんな! 見つけたぞ!」
俺の声に反応して、クラウスとリリーがやってきた。
「ここから出たので、間違いなさそうだね」
「どうする? 手分けして探しに行くか?」
「そうですね。早く行かないと、手遅れになってしまいます」
「二人とも、今の森の危険はそこまでないと思うが、もしも何かあったら大声で叫んでくれ。すぐに駆け付ける」
「わかった」
「承知しました」
俺達は、結界が破れていたところから見て左側を俺、右側をクラウス、真ん中をリリーと分担し、捜索することになった。
辺りを見渡すが、人間のものらしき影はない。
もう何分も待たずに、日が暮れるだろう。
暗くなっては本格的に見つからなくなってしまうだろう。
急がなければならないと思うが、そんな俺の意思とは反対に辺りはさらに暗くなっていく。
焦りが顔をのぞかせる。
まずい。
このままだと、見つからずに終わってしまう。それは駄目だ。
考えろ。
病にかかった人間はみんな同じところを目指しているのか? あるいは近くで特定の条件を満たした場所に向かっているとか? そもそもなんで意識のないような人間が動き出すんだ?あるいは、意識はあるけど正気ではないのか?
だめだ、情報が少なすぎる。
太陽が完全に姿を隠し、景色が一気に暗闇に包まれた。
世界が切り替わったようにすら感じる。
俺の呼吸音だけが、むやみにうるさい。
冷えた風が肌をなでる感触に、思わず身震いした。
いや、違う。
冷静になれ。ここは森の中だ。
そんなに静かなはずがない。雑音が少ないだけだ。
眼を閉じて、聴覚に意識を集中させる。
木々のさざめきが聞こえる。
それだけじゃない。カサコソと小さな動物の動き回る気配、リンリンと聞こえる虫の鳴き声、パキリと枝の折れる音、ガサゴソと大きな何かが葉に擦れる音、バタバタと鳥が木から飛び立つ羽音……。
……大きな何かが葉に擦れる音?
自分が認識していた音の、意味を飲み込んでハッとする。
人間の、音じゃないか?
確かに聞こえた。
小さい動物のそれよりも、明らかに規模が大きい音が。
しかもこちらは、クラウスもリリーもいないはずの方角だ。
慌てて音のする方へ眼を向けると、一瞬人影のようなものが見えた気がした。
「―――――ッ!」
急いで影のもとへと向かおうとするが、森という不慣れな状況がたたり思ったように進めない。
苛立ちから思わず地面を蹴る力が強くなるが、それも焼け石に水だ。
心なしか、視界も靄がかかったように見えづらい。
何よりも、もうほとんど太陽が隠れてしまっている。
「――――――クソッ!」
必死に影が見えた方向へと進んでいると不意に、それまで途切れることなく生えていた木がなくなり、視界が開けた。
ガラリ、と嫌な音が聞こえて思わず足を止める。
そこでようやく、この場所が崖であることに気が付いた。
地面に亀裂が入ったようなこの崖は、向こう側までの幅は五メートルほどでそう広くはない。
だが、パッと見ただけではどこまで続いているかわからないほどの横幅に、落ちた石の音が聞こえないほどの深さがある。
常時ならばかかっている橋の有無や、亀裂のような崖の終わりを探していただろう。
だが、今はそういうわけにもいかない。
否。いかなくなった。
向こう側の崖、途切れた森が再開しているちょうどその場所、男が立っていた。
それは、何とも歪で奇妙な男だった。
生気を感じない目をしているにもかかわらず、姿勢正しく立っている。
狂気や正気、そういった人間らしいものが宿っているようにはとても見えない顔を―――――――
数秒、目が合った。
意思も覇気も、存在すらも感じない目に、認識された。
その事実に全身が粟立つ。
認識をされたというだけで、これほどの恐怖を覚えるものなのか。
死神に首をなめられたような感覚に、逃げ出したいと体が悲鳴を上げるが、必死に理性で抑え込む。
ここで逃げては、意味がない。
逃げ出したらそれは、相手を見捨てたことになる。
絶望しているかもしれない人間を見捨てるのだけは、駄目だ。
「お、おーい!! 見つけたぞー!!」
恐怖を振り払うように大声を出して、クラウス達を呼ぶ。
これで、クラウス達にも聞こえたはずだ。
俺が叫んだその瞬間、太陽が完全に沈んだ。
黒
辺りを暗闇が包み込む。
静寂が耳にうるさい。
先ほどまで感じ取れたはずの生き物の気配も、いつの間にか完全にわからなくなっていた。
まるで時間が止まったように、自分以外の存在が消えている。
今度こそ本当に、自分の呼吸だけが、世界の音となった。
あらゆるものが停止した世界の中、今すぐに見失いそうな男の姿を、どうにか捉え続ける。
しばらく俺のことを眺め続けていた男は、不意に視線を外すと、森の中へと入っていった。
「待っ!!」
思わず足が出るが、崖がそれ以上前に行くことを許さない。
靄が増した視界のせいで、すぐに男は見えなくなってしまった。
「クソッ!」
あと少しが届かないというもどかしさに、思わず意味のない悪態をつく。
思わず後ろを見るが、クラウスもリリーも現れる気配はない。
「クラウスー! リリー! ここだー!」
なかなか現れない二人へのメッセージを、空に向かって叫んだ。
流石に遅くすぎないか? いくら靄がかかってて辺り一面、白一色だとしても……
……待てよ? 白一色?
慌てて男がいた方向へと振り返る。
白
そこには、もう黒だけの世界は存在していなかった。
靄も、靄というほど曖昧なものではなくなっている。これは、霧だ。
暗闇の中で隠れてしまうはずの霧が、暗闇を隠してしまっている。
暗かった景色がうすぼんやりと明るいものへ変化するが、そこに余裕などありはしない。
黒のような、ただそこにいるだけのものではないのだ。
白は、明確な圧迫感をもって、こちらに迫ってくる。
白が、世界を支配する。
「クラウス!! クラウス! 非常事態だ! ……クラウス……」
その異常な光景から、即座にクラウスを呼ぶが、その声も長くは続かない。
この霧に、全てが吸い込まれてしまい、全く手ごたえがないのだ。
黒がどれだけ生易しいものだったかを実感する。
世界からだけじゃない。ついに、俺からも音が奪われた。
白に心を犯される。
自分と景色の境界が、徐々に曖昧になっていく。
俺は白なのではないだろうかという錯覚が、認識を蝕む。
自分という存在が希薄になっていく恐怖に、声も出せない。
迂闊に動いてはいけないという意識がどこかにあった気がするが、それも白に溶けていく。
フラリフラリと体が揺れる。
足元がおぼつかなくなり、前へ後ろへとよろめく。
大きく前に踏み出した時、不意に体が重力から解放されたような感覚を得た。
そうだ。俺は白なのだから。
重力も体も関係ない。
俺は白で、俺は白で、俺は白で、俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で俺は白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白で白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白 白
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ガシリ、と腕をつかまれた。
誰だ。
せっかく白になれると思ったのに、邪魔しやがって。
白に体はないんだよ。
体はいらないんだ。
体……からだ?
そこまで考えて俺は、ようやく自分が肉体を持っていることを思い出した。
そうだ、俺には体がある。
今の俺は、いったい何を考えていたんだ。俺は霧じゃない。
そんな当たり前の事実にもかかわらず、見失っていたという恐怖に戦慄する。
自分の体勢に違和感を感じ下を見ると、足の先に地面がなかった。
「うわっ!?」
どうやら霧の中でふらふらと動いている間に、崖から落ちていたらしい。
体はほとんど、宙に投げ出されている状況だ。
今俺の腕をつかんでいる何者かがいなければ、俺は今頃生きてはいなかったかもしれない。
その肝心の何者であり、俺を白の魔の手から救い出してくれたのは
「クラウス……」
「ノルマン、ここは危険だ。村に戻ろう」
見たことがない程険しい顔をした、クラウスだった。
これからは隔日更新が基本になると思います。