第五章 そして全てを失った
警察へ行った日から、ウスたちの態度は何も変わらなかった。
ウスは以前と同じように子ガニを坊ちゃんと呼び、食事のたびに礼を言った。クリは柿の売上を一枚の帳面にまとめ、毎月きちんと報告した。ハチたちは軒先から家族を見守り、牛糞は黙って雑用を続けた。
誰も、警察の話をしなかった。
そのことが、かえって子ガニには恐ろしかった。
やがて季節が巡り、柿が実った。
ハチたちが実を収穫し、クリが町へ運んだ。その中で最も大きく熟した柿は、今年もウスの前に置かれた。
「坊ちゃんたちで召し上がってください」
ウスは毎年そう言った。
「いえ、どうぞ」
子ガニも毎年そう答えた。
柿の売上は前年より増えた。
しかし、子ガニたちに残る銭は減った。
「ハチさんの巣が大きくなりましたので、警護費が増えております。それから、今年は柿の運搬にも警護をつけました」
クリは帳面を指しながら、一つずつ説明した。
数字はきれいに合っていた。
「それで、あとどれくらいでしょうか」
「何がですか」
「皆さんにお返しする分です」
「ああ、そのことですか」
クリは帳面をめくった。
「昨年より少し増えています」
「増えたんですか」
「警護が長引いておりますから」
子ガニは軒先を見た。
ハチの巣は屋根の半分を覆っていた。朝から晩まで、何十匹ものハチが家の周りを飛び回っている。
「もう、警護は必要ないのではありませんか」
「もちろん、必要ないと坊ちゃんがお考えなら、いつでもおやめいただけます」
クリは穏やかに答えた。
「もともと、私どもは費用を請求するつもりなど毛頭ございません。坊ちゃんのお気持ちで続けていただいているだけですから」
やめることはできる。
誰にも強制されていない。
ただ、警護をやめたあと、何が起きるかは分からなかった。
子ガニは、仕返しに来るサルの群れを想像しようとした。だが、うまく姿が浮かばなかった。代わりに浮かんだのは、母の布団に座るウスと、軒先を覆うハチの巣だった。
「今までどおりでお願いします」
子ガニは答えた。
さらに一年が過ぎた。
母の寝室にはウスの着物が並び、鏡台はクリの帳面で埋まっていた。母の櫛やかんざしがどこへ行ったのか、子ガニは知らなかった。
牛糞は今も離れの蔵で暮らしていた。
以前より痩せていた。子ガニと目が合っても、あの夜のことなどなかったように顔を伏せた。
その年も柿は豊作だった。
それでも、クリの帳面に書かれた金額は減らなかった。
「何か、ほかに方法はありませんか」
子ガニは自分から尋ねた。
クリはすぐには答えなかった。
「ないわけではありません。ただ、私から申し上げることでは……」
「教えてください」
「この土地と建物を、私がお預かりする方法です」
「売るということですか」
「いいえ。坊ちゃんたちには、これまでどおり住んでいただきます。柿の木も、今までどおり大切に育ててください。名義と管理を私にお任せいただくだけです」
クリは一枚の書面を取り出した。
「もちろん、無理にとは申しません。そもそも、お支払いいただく義務のない費用なのですから」
書面には、柿の木だけでなく、土地と家屋をクリの名義に移すと書かれていた。
子ガニは、その行を二度読んだ。
三度目は読まなかった。
名義がクリに変わっても、自分たちはここに住める。柿の木もなくならない。弟や妹の暮らしも変わらない。
ならば、何も失うわけではない。
警察官の言葉を思い出した。
彼らは反社会的勢力である可能性がある。
正直に話してほしい。
警察は全力で守る。
今からでも、警察へ行くことはできる。
だが、サルの死体が見つかれば、自分が「母と同じ目に遭わせてほしい」と頼んだことも明らかになる。
母の仇を討ったことまで、間違いになってしまう。
そんなはずはなかった。
「これに爪形を押せば、すべて終わるんですね」
「坊ちゃんのお気持ちとしては、十分すぎるほどです」
クリは答えた。
ウスは母の布団に座り、大きな柿を食べていた。軒先からはハチの羽音が聞こえる。
牛糞が墨と朱肉を用意し、子ガニの横に置いた。
子ガニと目が合った。
牛糞は何も言わなかった。
子ガニは鋏を朱肉につけ、書面に爪形を押した。
「ありがとうございます」
クリは書面を丁寧に畳んだ。
「これで、すべて終わりました」
子ガニはほっとした。
明日になれば、ウスは母の寝室を空ける。クリの帳面も運び出される。ハチたちは軒先の巣を片づけ、牛糞も蔵から出ていく。
家と土地の名義は変わるが、これまでどおり住んでよいと言われている。
少なくとも、元の暮らしには戻れる。
翌朝、子ガニが目を覚ますと、母の寝室からウスの声が聞こえた。
「おはようございます、坊ちゃん」
ウスは昨日と同じ場所に座っていた。
鏡台の前ではクリが帳面を開き、庭では牛糞が柿を入れる籠を並べている。軒先のハチの巣からは、次々とハチが飛び立っていた。
「あの……皆さんは、いつ出ていかれるのですか」
ウスは少し驚いた顔をした。
「もちろん、いずれは出ていきますよ。ご心配には及びません」
「昨日、これですべて終わったと伺いました」
「ええ。坊ちゃんからのお気持ちは、十分すぎるほど頂戴しました」
クリが帳面を閉じた。
「ただ、警護を解除するにも、それなりの手続きが必要です。柿の販売先にも、管理者が変わったことを伝えなければなりません」
ウスも軒先を見上げた。
「ハチさんたちの巣も、あれだけ大きくなりました。安全に移すには、準備と時間がかかります。急に出ていって、坊ちゃんたちにご迷惑をおかけするわけにはまいりませんから」
「どれくらいかかりますか」
「それは、これから確認いたします」
「いつまでに分かりますか」
「確認ができましたら、こちらからご説明いたします」
出ていかないとは言っていない。
ただ、すぐには出ていけないと言っているだけだ。
それなら、待つしかない。
退去する日を書かせておけばよかった…。
昨日、爪形を押す前に、もう一度読めばよかった…。
警察署で、すべて話しておけばよかった…。
牛糞の話を聞いた夜に、弟や妹を連れて逃げればよかった…。
もっと遡れば、ウスたちに復讐を頼まなければよかった…。
考えるほど、やり直すべき日は遠くなった。
昨日のことなら、まだ何かできたかもしれない。だが、母が殺された日からやり直すことはできない。
子ガニは、できないところまで遡って、ようやく考えるのをやめた。
その翌朝、家の門の脇に新しい看板が立てられた。
鳥獣被害対策相談所。
相談無料・秘密厳守。
その日から、母の寝室には、見知らぬ動物たちが出入りするようになった。
畑を荒らされた者。蓄えていた木の実を盗まれた者。家族を傷つけられ、仕返しを望む者。
ウスは一人一人の話に耳を傾け、深くうなずいた。
「それは、おつらかったでしょう」
クリは相談者の名前と住所を帳面に書き留めた。ハチは窓辺に止まり、訪れた者たちの様子を見ていた。牛糞は庭で、仕事に使う道具を荷車へ積み込んでいた。
「坊ちゃん」
ウスが子ガニを呼んだ。
「おかげさまで、少々忙しくなってまいりましてね。坊ちゃんにも、仕事をお手伝いいただけないでしょうか」
「私にですか」
「ええ。難しいことではありません」
ウスは、子ガニの鋏に目をやった。
子ガニも、自分の鋏を見た。
母が遺してくれたものは、もうほとんど残っていない。
柿の木も、家も、母の寝室も、今では栗の帳面の中にある。
残っているのは、この鋏だけだった。
母と同じ形をした、子ガニの鋏。
ウスは穏やかに笑った。
「サルの尻尾を、その鋏で挟んでいただくだけの簡単なお仕事です」
<おわり>
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