最終話:さよなら片思いの人――俺が本当に望んだ未来は……
ビルの屋上。
吹き荒れるビル風が、豊田迦蓮の纏うドレスの裾を激しく翻していた。
彼女はすでに錆びついた高いフェンスを乗り越え、死と隣り合わせの細い縁の上に降り立っていた。
背後には今まで自分を縛り付けてきた境界線があり、目の前には星屑をぶちまけたような、眩いばかりの街の灯りが広がっている。
その光景は、まるで自分を祝うために敷き詰められた照明の絨毯のようだった。
手に持ったスマートフォンが、指先を震わせるほどの激しさで再度の着信を告げる。
画面に浮かび上がった「高原 玲奈」の名前を、迦蓮は吸い込まれるような心地で見つめた。
指が、無意識のうちに応答ボタンをなぞっていた。
「……もしもし?
迦蓮?
ねえ、今どこにいるの?」
受話口から聞こえてくる玲奈の声は、かつての氷のような冷静さを失い、泣き出しそうなほどに震えていた。
「なんか、嫌な予感がするの。
電話を切ったあとからずっと。
ねえ、約束、忘れてないよね?」
彼女は必死に、かつて放課後の教室で交わした「指切り」の記憶を呼び起こそうとしていた。
「私が幸せになるまで、ずっと隣にいるって言ったじゃない。
私、まだ幸せの途中だよ。
あなたがいないと、完成しないんだよ?」
迦蓮は何も答えず、ただ轟々と鳴り響く風の音の中で、最愛の人の声を全身で受け止めていた。
(完成なんか、しなくていいんだよ。
君の幸せはずっと続く。
そして、私の苦悩も……ここで終わる)
心の中にだけ、決して届くことのない本音を吐き出す。
男として彼女を縛ることは、かつての自分にも、今の自分にもできなかった。
自分は彼女が再生するための「礎」であり、土台としての役割には、今この瞬間に終わりが必要なのだ。
(君の過去は、私が……俺が、思い出と一緒に黄泉へと持っていく。これからの未来は君が紡ぐもの。そこに過去の柵でしかない私は、必要ないのよ)
そして迦蓮は、自分自身が長年封じ込めてきた、最大の未練を清算するために唇を動かした。
「私が……いえ、俺が本当になりたかったのは、君の彼氏だった」
風にかき消されるような微かな声。
けれど、その一言には性別を捨て、人生を捧げた一人の少年のすべてが込められていた。
「でも、幸せは君に譲るわ。
さよなら、片思いの人。
幸せになってね」
迦蓮は、かつての怒ったような、それでいて愛おしい玲奈の笑顔を思い浮かべ、そっと微笑んだ。
彼女はフェンスから手を離し、輝く照明の絨毯へと、その身をゆだねるように投げ出した。
ふわりと身体が宙を舞い、重力から解放された世界のすべてが、自分を祝福しているような重度の多幸感に包まれる。
落下の速度の中で、視界の端をスマートフォンが滑り落ちていくのが見えた。
「好きだったよ」
声にならない最後の言葉が、夜の闇に溶けて消えた。
屋上のコンクリートに叩きつけられた端末から、何かが引き裂かれるような衝撃音が響く。
ひび割れた画面の向こう側で、玲奈の悲鳴が夜の静寂を切り裂いた。
「迦蓮!?
迦蓮っ!!
ねえ、返事して!
お願いだから!!」
主を失ったスマートフォンのスピーカーから、彼女の必死な呼びかけが虚しく溢れ出す。
「私、まだ……あなたに言ってないことがあるの…
『ありがとう』だけじゃ足りないんだよ…」
数秒の沈黙の後、かすれた声が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「『大好き』って、言わせてよ……ばか」
夜の闇はすべてを飲み込み、街の灯りは相変わらず無関心に輝き続けていた。
ただ一人の少年の恋が終わり、一人の少女の幸せの礎が完成したことなど、誰も知る由もなく。




