第四話:指切りげんまん――君が幸せになるための約束
放課後の教室を支配していたのは、窓から差し込む琥珀色の重々しい光だった。
空になったクッキーの箱が机の上で小さく音を立て、二人の間に流れる沈黙を際立たせる。
豊田迦蓮は、これまで自分の喉元まで出かかっては飲み込んできた「真実」を、絞り出すように言葉にした。
「私ね、玲奈さんにずっと憧れてたんだ。
今の私じゃなくて、男だった俺の本当の気持ちとしてね」
その一言が放たれた瞬間、高原玲奈の細い肩が目に見えて跳ねた。
彼女の指先が、荷物をまとめようとしていた鞄の縁でぴたりと止まる。
「でもね、その想いをそのまま君にぶつけるのは、ただの暴力にしかならないって分かってた。
私が君を好きだと言うことは、君にあの忌まわしい過去を思い出させ、さらなる恐怖を与えるだけになるんじゃないかって」
迦蓮の声には、自らの恋心を去勢し、葬り去ることを選んだ者特有の、静かな諦念が混じっていた。
玲奈は背を向けたまま、しばらくの間、時が止まったかのように動かなかった。
琥珀色の光の中で舞う埃の粒が、彼女の静寂を静かに見守っている。
やがて、彼女はゆっくりと、壊れ物を扱うような足取りで迦蓮の方へと向き直った。
「……私、ずっと自分の外見を呪ってた。
男の人はみんな、この顔や身体だけを値踏みして、私の内側にある傷なんて見ようともせずに近づいてくる。
だから私は、透明な壁を作って誰も入れないようにしてたんだ」。
彼女の群青色の瞳には、かつての冷徹な光はなく、ただ一人の傷ついた少女としての色が宿っていた。
玲奈は迦蓮の目の前まで歩み寄り、その顔を、まるで初めて見る存在であるかのようにじっと見つめた。
「でも、あなたは違った。私の痛みに気づいて、それを癒すために……自分自身を変えるなんていう、狂気じみた選択をしてくれた。
そんなこと、今までの人生で誰も言ってくれなかった」
彼女の声は震え、膝のあたりで握りしめられたスカートの裾が、指先の強張りを物語っていた。
「『寄り添う』っていうのが、具体的にどういうことなのか、私にはまだ分からない。
でも……あなたが隣にいてくれるなら、その方法を教えてほしい。
今の私には、あなたが必要なの」
その言葉は、孤高の女王としての誇りを脱ぎ捨て、一人の孤独な人間として差し出された、魂の嘆願だった。
迦蓮は胸の奥を刺すような愛しさを抑え込み、自らに言い聞かせるように穏やかに微笑んだ。
「私がこれから歩む道は、玲奈さんがいつか『男性』という存在を克服し、本当の意味で誰かを愛し、幸せになるための踏み台になることだよ」
「礎、か」
玲奈はその言葉を、壊れないようにそっと唇に乗せた。
「そうだね。あなたは私の未来という建物を作るための、最初の一歩。
決して目には見えないけれど、一番大切な土台。そういう存在なんだね」
彼女は少しだけ悲しげに目を伏せたが、すぐに顔を上げ、不敵にさえ見える笑みを浮かべた。
「でも、それだけじゃ終わらせない。
私はあなたが思っている以上に欲張りだから、あなたが完成させた幸せの中に、あなたも居なきゃ嫌だよ」
玲奈は不安を隠すように、子供が親にねだるような仕草で、小さな小指を迦蓮へと差し出した。
「約束して。
私が本当に幸せになるまで、私の手を離さないって。
途中で逃げたり、どこかへ消えたりしないって」
迦蓮はその小指に、自らの震える小指をしっかりと絡めた。
それは、性別を超え、恋愛という枠組みさえも超えた、魂同士の契約だった。
「指切りげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます」
唱え終えた玲奈は、ふと緊張を解いたように、あどけない表情で笑った。
「あ、でも、針千本は本当に痛そうだから、嘘はつかないでね。
私、あなたのことは信じたいから」
彼女が初めて見せた、曇りのない、陽だまりのような微笑み。
その美しさに、迦蓮は自分が「俺」として彼女の隣に立つ未来を、完全に、そして永遠に諦めることができた。
「こちらこそ、ありがとう。
君にそう言ってもらえるだけで、私の選択は報われたわ」
小指を離すと、玲奈は今度は対等な一人の人間として、まっすぐに右手を差し出した。
「これから、よろしく。
私の、たった一人の……最初の友達」
夕日に溶けて一つに重なった二人の影が、誰もいない教室に、長くて切ない誓いの跡を刻んでいた。




