第二話:教室の不協和音と、氷の少女が差し出した椅子
高原玲奈が教室を去った後、残された空間にはひりつくような沈黙が横たわっていた。
その静寂を、粗暴な力が切り裂く。
「おい、てめえ。
玲奈になに言った」
背後から、万力のような力で肩を掴まれた。
振り返ると、そこには希橋健吾がいた。
彼は玲奈を狂信的に崇拝しており、その瞳は怒りで濁り、完全に据わっていた。
「誰ですか、あなたは」
豊田迦蓮は、痛みを感じながらも淡々と問い返した。
「……は?
同じクラスの希橋だよ。
つーかお前、玲奈を泣かせたろ」
希橋の指先にさらに力がこもる。
周囲の生徒たちが一斉に距離を取り、スマホを手にした野次馬たちの視線が突き刺さる。
教室には、玲奈が泣きながら走り去ったという憶測が、毒霧のように広がり始めていた。
「いえ、私は泣かせてなどいません。
それに、希橋さん。
あなたはその情報を、この短い時間のどこで知ることができたのですか?」
迦蓮の静かな問いに、希橋がわずかに眉を寄せた。
「ずっと彼女を付け回して、監視でもしていたのですか?」
「な、なに言ってんだよ!
周りの奴らが教えてくれたんだよ!」
希橋の声が動揺で跳ね上がる。
「おかしいですね。
彼女が教室を出てから、まだ数秒しか経っていません」
迦蓮は希橋の目を真っ向から見据えた。
「人類の情報共有能力は有限です。
これほどの即時性がある伝達は、あらかじめ私が彼女に害をなすと想定し、制裁を加える準備をしていなければありえません」
論理の刃が、希橋の歪んだ正義感を切り刻む。
図星を突かれた希橋の顔がみるみるうちに赤黒く染まり、彼は迦蓮の胸ぐらを掴み上げた。
「てめえ……ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」
暴力の嵐が吹き荒れようとしたその瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
「……希橋くん、その手を離して」
戻ってきた玲奈の声が、冷たい風のように教室を吹き抜けた。
その声には、一切の妥協を許さない鋭い意志が宿っていた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、迦蓮と希橋の間に割り込んだ。
「玲奈!
こいつがお前を……」
「私に代わって怒ってもらう義理はありません。
希橋くんに私の何がわかるというのですか」
玲奈の群青色の瞳が、希橋を文字通り凍りつかせた。
希橋は口をぱくぱくとさせ、逃げるように自分の席へと引き下がっていった。
静まり返った教室で、迦蓮は玲奈に向き直った。
「私は、あなたと仲良くなる方法を考えました。
そのために、男性として生を受けた今の人生を捨てることに決めたのです」
周囲から息を呑む音が聞こえる。
「私は今すぐ性別を変えることはできません。
けれど、それを待っていては、あなたに寄り添うには遅すぎる。
だから、今ここで宣言したのです」
迦蓮の言葉には、血を流すような重みがあった。
「希橋君に聞きたい。
あなたに私と同じ覚悟があるのですか?
誰かのために、自分のこれまでの人生をすべて切り替える覚悟が」
その問いに答えられる者は、教室のどこにもいなかった。
玲奈は、初めて、本当に初めて、迦蓮の瞳をじっと見つめた。
彼女の氷のような仮面が、わずかに揺らぐ。
「……あなた、本気で言っているの」
「両親には、好きに生きろと言われました。
その代わり、卒業後は家を出るようにと」
迦蓮の微笑みは、どこか遠くを見つめているようだった。
玲奈は長く、重い沈黙を保った。
やがて彼女はゆっくりと息を吐き、自分の席の椅子をそっと引いた。
「……座って」
それは、孤高の少女が初めて自らの聖域に他者を招き入れた、歴史的な瞬間だった。
「ありがとう」
迦蓮が腰を下ろすのを、玲奈は静かに見届けていた。




