幕間B 月なき煙霧
窓を閉め切った一室にハーブの煙がむわっと、充満している。
薄暗い夜だ。
暗黒色の空に月光は届かず、星の瞬きもない。
先ほどから枯れた樹が縮れ毛のような枝を伸ばし、揺れている。
「私はいったい、誰……?」
ヒューヒューと風の音が空気を震わす。
青白い肌の女は死の臭いを撒き散らしながら、オロオロと歩き回る。
両手で顔を覆い、骨ばった指の隙間から、四白眼が見えた。
明らかに焦点が合っていない。
「落ち着けよ。貴様は勇者亡き後俺の下に仕え、生き残った女。俺と共に生き、死ぬために生まれたものだろう?」
横から、からかうような声音が届いた。
「はい……はい……! 私はトレア・ハウモエです」
呪文を唱えるように、言って聞かせた。
女が冷たい汗ごと拳を握り、顎を引くのを、じっと見つめる男。
「いい子だ。そうだ、一生忘れるんじゃねぇぞ」
トレアが浅く息をする中、男のほうからは心音を感じない。
生ぬるい静けさから一転、急に突き刺すような底冷たさが降りた。
「だが近頃の貴様の振る舞いはいただけねぇなぁ。真名のことはどうでもいいと言っただろ。その名は捨てたんだ」
彼の顔は影に隠れている。
脅し口調だった。
女はきょとんと首をひねる。
混沌とした脳内には、ほの暗いビジョンが、いくつも浮かんだ。
首輪をつけられ、糸を垂らされ、崖底へ突き落とされる。
闇を盲目のまま彷徨い、喚き騒ぐ者たち。
街中で透明人間となり空虚な声を上げながら、誰かに触れる手すらすり抜けて、誰からも忘れ去られた存在。
彼に逆らった者たちの末路を知りながら、トレアは顔色一つ変えなかった。
澄み切った瞳には、熱くたぎる想いだけが灯る。
「わたくしにできることがあるのなら、なんなりとおっしゃってください」
「もうねぇよ」
胸に手を当てて、甲高い声を上げる女を、ぴしゃりと制する。
「もっと気を楽にして構えてろ。全て終わった暁には貴様を夢の世界に連れてやらぁ。俺の術、知ってんだろ?」
「そんな、あなたのことを疑ったことなど、一度もありません! 信じてください! どうか見捨てないで」
「見捨ててもついてくるだろうが」
ギラついた眼光が迸るのに対し、男は顔をそらす。
腐臭を放つ生ゴミに鼻をつまむような、態度だった。
「どうかどうか、お願いします。この通り。あなたのためなら、身代わりにでもなりましょう」
トレアはしつこくすがりつく。
生々しく、甘く。
熱風のごとき勢いで。
はぁ……と重たいため息。
つるりとした壁を背に、そっと左手を上げた。
女はとろんとした目をしながら、がたっと肩を落とした。
力なく腕を垂らし、静止する。
陰気な沈黙が漂った。
おとなしくなったかと思えば、トレアはまっすぐに背筋を伸ばす。
「私の忠誠、分かっていただけました?」
口角を上げ、力強く声に出す。
ニヤニヤと、浮かれた顔をしていた。
男は無言でいる。
彼の目線の先、スクエアの窓を額縁に、トレアは相対する。
「ですが、本当のところは、どうなのです?」
真面目な顔で、唇だけを動かす。
声音は淡々としていて、口調はなめらかだった。
男は口元を引き結ぶ。
「実はなにも求めていないのでは?」
ゆっくりと、低く抑えた声で、言葉を紡ぐ。
とろりとした光を宿した虹彩に、しっとりとした唇。
一瞬だけ時計の音が停まり、硬質な静寂が張り詰めた。
トレアは構わず続ける。
「魔と契約して百年あまり、様子見を貫いたのはどうしてです? 実は温情を与えていたのではありませんか?」
さらりとした衣擦れがした。
薄氷を歩むような緊張感に、トレア自身は気付かない。
「お前な、よりにもよってそれを俺に聞くか?」
男は苦々しく、息を吐いた。
血の気が引くかのように、部屋の温度が下がっていく。
「様子見していたのだって、石橋を叩いて渡りたかっただけだ。あと、舐めたこと抜かすな。そう簡単に国を滅ぼせると思うなよ」
改めて向き直り、咎める。
早口の語尾が掠れた。
「ハッ、申し訳ありません」
トレアは背筋を伸ばした。
ソファにどかっと身を預け、目をそらした男の端で、夜は耽っていく。
ひっそりとした時なのに、アロマを灯すキャンドルもなければ、リッチなグラスの一つもない。
密室はひどく殺風景で、窓に映る空は曇っている。
月光は射し込みそうになかった。




