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第1話 無能祈祷師、王国を追放される

 聖杯の水面は、凪いでいた。

 波紋ひとつ立たない。杯の縁に刻まれた目盛りも、針の先ほども動かなかった。

 大聖堂は、冷えきっている。焚かれた香が高い天井へ昇り、無数の柱の影に吸い込まれていった。祈祷官の靴音だけが、石畳に反響している。

 祈祷師の青年──ルカ=エルネストは、差し出していた指先を静かに下ろした。

 王国祈祷庁、大聖堂の中央。天井まで届く聖杯型の測定器〈神託聖杯〉が、蒼白い光を湛えて祈祷師たちを見下ろしていた。

 この国では、祈りは数で測られる。どれだけ傷を癒やし、どれだけ結界を厚くし、どれだけ魔力を増やしたか。聖杯の水面がそれを光量に変え、目盛りに刻み、四つの項目へと落とし込む。

 治癒。結界。魔力増幅。そして、神託適性。

 その数字が、そのまま祈祷師の価値になる。

 列の先頭に近いほど、祈祷師の背は伸びていた。後ろへ下がるほど、俯く角度が深くなる。ルカの立ち位置は、いつも通り。一番後ろだった。

 ルカの前に立った祈祷師は、水面をまばゆく波打たせていた。杯の光が大聖堂の柱を這い上がり、居並ぶ者たちがどよめく。治癒祈祷、第二位。魔力増幅、上位。祈祷官が読み上げるたび、その男の頬が誇らしげに上気していく。遠征帯同、と告げられて、周囲から称賛の吐息が漏れた。名誉は、こうして数字の順に配られていく。

 やがて、ルカの番が回ってきた。

 彼が台に上がると、ざわめきが一段、下へ落ちる。期待の沈黙ではなかった。嗤いを準備するための、静けさだ。これも、いつも通り。

 ルカは目を閉じ、祈る。丁寧に、誠実に。癒えるべき傷が癒え、守られるべきものが守られるように。教わった通りの祝詞を、一言ずつ胸の内で辿っていく。

 しかし──聖杯の水面は、動かなかった。

 凪いだままの鏡に、蒼い光だけが張りついている。

 治癒祈祷、最低ランク。

 結界祈祷、最低ランク。

 魔力増幅、反応なし。

 神託適性、測定不能。

 石壁に、祈祷官の読み上げる声が硬く跳ねた。


「また反応なしか」

「祈っているふりをしているだけではないのか」

「あれで祈祷師を名乗れるのだから、祈祷庁も甘くなったものだ」


 嗤いが、あちこちで漏れる。

 ルカはうつむかなかった。うつむくほどの痛みは、もうとうに擦り切れている。

 三年だ。三年、この聖杯の前に立って、一度も針を動かせたことがなかった。慣れというのは、諦めによく似ている。

 はじめてこの台に立った日、ルカはまだ、針が動くと信じていた。祈れば届くはずだと、疑ってもいなかった。

 あれから、季節が二巡り半。信じることをやめるのに、それだけの時間がかかった。

 聖杯は正直だ。測れないものは、無いのと同じ。この国では、そういうことになっている。

 ただ、ルカだけが見ていた。祈りを捧げたその折、水面の底で暗がりがひとつ、揺らいだのを。目盛りは、それでも動かなかったけれど。

 大聖堂の扉が開いた。

 衣擦れと足音の群れ。先頭を歩くのは、王太子・ランド=アンセルムだった。金の刺繍を幾重にも重ねた外套、腰には宝飾を鏤めた剣。両脇を聖騎士団長と祈祷庁長官が固め、その後ろに供回りが列をなす。権威とは、人数と装飾で示すものらしい。中身を問われずに済むための、厚みだ。

 供の者が捧げ持つのは、まだ一度も血を吸ったことのない儀礼剣だった。王太子の指には、遠征を待たずして誂えられた勝利の指輪が光っている。勝つ前から、勝利は飾りになっていた。


「北方の魔物領域へ向かう。近隣の諸侯に、次代の王の力を見せる好機だ。遅れは許さん」


 王太子は祈祷師たちを睥睨して言う。

 明らかに、言葉の端から焦りが滲んでいた。

 戦果が欲しいのだろう。次代の王としての実績が、まだ何もない。だから北方の魔物を狩り、勝利を掲げ、諸侯にそれを見せたいのだ。相手が魔物であろうと、真実であろうと、彼にとってはどちらでもよかった。欲しいのは、勝利という言葉だけ。

 その視線が、祈祷師の列を撫でていき、やがて最後尾のルカで止まった。唇の端が、嗜虐的に持ち上がる。


「最下位の者にも、役割をくれてやろう」


 王太子ランドは、ルカを指した。どこかで、誰かが小さく噴き出す。


「無能でも、祈祷師は祈祷師だ。せいぜい勝利を祈れ。そして、神が我らの勝利を約束したと、皆の前で告げろ」


 言葉の意味を、ゆっくりと呑み込む。

 勝利を祈れ。神が約束したと、告げろ。

 それは、祈祷ではない。占いですらなかった。決められた筋書きに、神の名を貼りつける作業だ。

 聖騎士団長が、鼻で笑った。


「殿下。こんな祈りも通らぬ男に、神託を求めるのですか。気休めにもなりますまい」

「祈れぬ者の祈りなど、戦場では荷にしかなりませぬ」


 聖騎士団長は、剣の柄で床を軽く鳴らした。


「気休めで構わん」


 王太子は答えた。


「言葉さえあればいい。口を貸すだけの仕事だ。それくらいは、無能にもできよう」


 簡単な話である。勝利を告げればいいのだ。それだけで、これは終わる。

 その考えが、ルカの胸を一度だけ過った。

 頷いて、口を開いて。教えられた言葉を並べれば、嗤いも視線も、今日のところは去っていく。

 逃げ道は、確かにそこにあった。


「わかりました」


 ルカは答えて台に上がると、目を閉じた。

 勝利を、とは祈れなかった。そういう祈り方を、知らない。ただ誠実に、この遠征の行く末を、と念じた。嘘のつけない性分が、勝手に真実へと手を伸ばす。

 聖杯は、動かない。

 けれど──ルカの視界だけが暗転した。


(えっ……!?)


 黒い霧に沈む森。

 罅が走り、砕け散る聖騎士の盾。

 木々の影から、背後へ回り込む異形。

 泥濘に落ち、踏みにじられる王太子の紋章旗。

 どこか遠くで、誰かが、笑っていた。

 雪の底に打ち込まれた、黒い杭。それが、脈のように、ぬめりと蠢く。


(な、なんだこれ……!?)


 息をする間もなかった。ほんの数拍のはずが、ひどく長く引き延ばされる。

 断片は、敗北の風景ではなかった。もっと質の悪いもの。仕組まれ、待ち構えられた惨劇の匂いがした。これは魔物の襲撃ではない。あの森の奥では、魔物ではないものが、口を開けて待っている。それだけが、わかった。


「──ッ! はぁッ、はぁッ」


 そこで、我に返った。

 背中に汗が浮いている。下ろした指先が、細かく震えていた。聖杯の水面は、やはり凪いだままだ。

 ルカが見たものは、この国のどんな計器にも映らない。数字に出ない真実は、この国では最初から、存在しないことになっている。

 言っても無駄だ。また笑われる──そうは思うが、言わなければ。言わなければ、誰かが死ぬ。


「殿下……」


 ルカは、声を絞り出した。


「この遠征は、中止すべきです」


 大聖堂が、しんと静まる。


「北方の森に、魔物ではないものが、います。待ち構えています。このまま進めば、騎士団は──」


 息を継ぐ。喉が、渇いていた。


「壊滅します」


 沈黙は、途端に怒号へ変わった。


「敗北の神託など不敬だぞ!」

「殿下の遠征に、水を差す気か!?」

「無能が、神託師の真似事をするな!」


 ルカひとりが、大聖堂の中央に取り残される。

 さっきまで隣にいた祈祷師たちが、じりと後ずさった。無能と、不敬。近づけば、こちらまで同じ目で見られる。誰の顔にも、そう書いてあった。

 その時、祈祷庁長官が一歩、前へ出た。庇うのか、と場の空気が緩みかける。

 けれど、ルカにはわかっていた。この人は、庇わない。


「殿下」


 長官は、王太子に向かって恭しく頭を垂れた。


「この者の祈りは、以前より聖杯にすら映らぬ低級なものでございます。数値の出ぬ祈りに、神託の資格などございません」

「では、今のはなんだ?」

「神託ではなく、臆病者の妄言でございましょう」


 数値の出ぬものは、無価値。ゆえに、切り捨ててよい。長官の理屈は、いつだってそれだ。

 ルカも何も反論しなかった。一度告げ、否定される。それで十分だった。多くを語るほど、この人たちの中では、妄言が厚みを増していくだけだ。

 王太子が、侮蔑するようにルカを見てから、椅子から立ち上がった。


「おい、祈祷師。貴様、名はなんという?」

「ルカ=エルネスト、です」

「ふっ、なるほど。無能には過ぎた名だ。よかったなぁ、名があって。名があるだけで、この国では人間扱いしてもらえる」


 その声には、もはや怒りすらなかった。虫を払うような、平坦な響きさえある。

 意図がわからず黙っていると、ランドは語気を強めて続けた。


「だが──使えぬ祈祷師など、我が国には不要だ。勝利を祈れぬ者に、祈祷師を名乗る資格はない。ルカ=エルネスト、お前を国外に追放する!」

「え!?」


 予想もしなかった言葉が飛び出てきて慌てて顔を上げるが、もう遅かった。

 衛士がふたり、ルカの両脇に立っていた。


「ええい、脱げ!」

「うわぁっ! や、やめてくれぇ!」

「黙れ! 貴様にそのローブは必要ない!」


 祈祷師のローブの襟が掴まれ、引き剥がされた。ルカの情けない声が響き、布が肩を滑り落ちる。大聖堂の冷えた空気が、じかに首筋を撫でた。

 不意に、身体が軽くなる。

 三年ぶりに脱いだ白は、思っていたよりずっと薄く、そして重かった。布を失った背に、石造りの寒さが染み込んでくる。

 祈祷師の証である身分証も、胸から抜き取られた。白が、奪われていく。聖なるものから、切り離されてしまった。


「おら、立たないか!」

「う、うぅ……」


 もう、抵抗さえしなかった。腕を掴まれたまま、静かに立っている。抗ったところで、覆るものはない。それは、三年かけて骨身に覚え込んだことだった。


「ふん。無様だな、無能。何か言いたいことはあるか?」

「…………」

「くっくっくっ。なんだ、暑いか? この糞寒いのにか? そうかそうか。無能に服なぞ勿体ないからな。それもついでにひん剥いてやれ」


 王太子が嗤笑を浮かべて、続けて衛士に命じた。

 衛士たちは一瞬迷うも、ローブの下に着ていたルカの衣服も剥いでいく。

 すぐにルカはパンツ一丁だけにされてしまい、貧相な男の身体が野晒しにされた。

 観衆たちの憐れむような声と嘲るような声が、大聖堂に響く。

 だが、ルカは俯かなかった。

 パンツ一枚にされても。情けない姿を晒そうとも。笑われようとも。

 王太子を見据えて、震えながら言った。


「……それでも、僕は」


 喉の奥が、ひとつ鳴る。


「嘘の神託だけは──告げられません」


 まばらな嗤いが起こり、あとには白けた沈黙が残った。

 王太子は目を見開いたが、すぐに侮蔑の笑みを顔に浮かべた。


「ふん……生意気な。つまみ出せ。二度と俺の目に届かんところにな」


       *


 王都の外れ。

 ルカは、辺境行きの荷馬車の荷台に乗せられていた。

 祈祷師のローブはない。代わりに与えられた、薄い衣が一枚きり。雪が、灰色の空から絶え間なく落ちてくる。荷台の縁を掴んだ指先は、とうに白く強張っていた。

 御者は一言も口を利かなかった。追放された祈祷師を運ぶ仕事に、かける言葉などないのだろう。ルカも、何も求めなかった。

 馬車が、轍を軋ませて北へ向かう。

 王都の白い尖塔が、雪の向こうで小さくなっていった。振り返っても、見送る者はいない。

 呪ってやりたい相手は、いくらでもいた。王太子ランド、それに長官。嗤った祈祷師たち。けれど、荷台の上でルカの胸に浮かんだのは、別の祈りだった。


(どうか、あの神託が外れますように)


 自分を追放した人たちでも、死んでほしいわけではない。

 祈りは、性分だった。頼まれなくても、自分は祈ってしまうのだ。癒えるべき傷が癒え、守られるべきものが守られるように。たとえその相手が、自分を捨てた者であっても。衣服を剥いで大恥をかかせた相手であっても。

 誰かの無事を願うのに、資格などいらない。祈祷師の証を剥がされても、それだけは剥がしようがなかった。

 祈りながら、ふと馬車の窓から空を見上げる。

 自分の祈りとは裏腹に、北方の空を黒い鳥の群れが埋めていた。

 羽音は遠い。それなのに、途切れることがなかった。

 黒い鳥が集うのは、屍のある場所だ。

 それを、ルカは知っていた。

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