41
本を眺めていたリゼはエルの帰宅の知らせに顔を上げた。カーテン越しの窓はもう暗く居間も灯りが灯されている。
リゼは椅子から立ち彼を出迎えた。使用人からいることは知らされていたはず。なのに彼女の姿にややたじろいだように見えた。
「お帰りなさい。お邪魔しています」
「……いや、ご自由に」
彼は居間を一渡り見渡す。ミス・クローバーは手紙を書くと自室下がっていた。客のリゼが一人なのが不思議なのだろう。
「ブーケは少しだけ頭痛がすると寝室に。さっきのぞいたけれど、眠ったようでした」
「珍しいな」
エルはちょっと眉をひそめた。
「お忙しいのに申し訳ない。あの子が世話をかけた。しかし、あなたに任せてミス・クローバーはどうしていたのだろう」
「エル……、ちょっとお話があるの。いいかしら?」
「どうぞ」
「ここではちょっと……」
居間では使用人に聞かれる恐れがある。またブーケやミス・クローバーが不意に戻る懸念もあった。リゼが言いよどむとエルは書斎に彼女を導いた。
書斎は暖炉に火が入っておらず冷えていた。エルはマッチを擦り火を入れた。火かき棒で炭をいじりながら、
「火の近くに来るといい。こちらにいらっしゃい」
とリゼを振り返った。彼女はぎっしりと本の詰まった壁の大きな書棚を眺めていた。声に促されて彼女は暖炉の前、彼のやや後ろに立った。
「すごい蔵書ね」
彼女の家の書斎は小さなもので本の数も多くなかった。書棚に囲まれた本格的な書斎が新鮮に映る。実際するわけでもないが、紙やインクなどの本の匂いが漂っているようにも感じられる。
「家のもので、僕は本の蒐集にあまり興味がない。兄が熱心で幾らか集めたし目録も作っていた」
「そう……」
手をかざしていると、エルがつぶやいた。
「怖いことを聞かされそうだな」
「……ブーケのことなの」
リゼの声に彼がまた振り返った。火かき棒を持ったままマントルピースにもたれた。片足を軽く曲げる。そんな彼の仕草を見た覚えがあった。どこでだろう、と場違いにちょっと考えた。
彼女はブーケが工房に駆け込んで来たことからの出来事をほぼ全て話した。その間エルは相槌もなく火かき棒を緩く揺らしながら聞いていた。彼女を見つめる目が細まったり微かに口元が歪むこともあった。からんと音を立てて手から火かき棒が落ちた。
リゼがこの家に留まったのはエルと話すためもあるが、ミス・クローバーにブーケを任せて去ることが不安だったのも大きい。
話し終えて彼女は大きく息をついた。ひどい困惑を彼に共有できたことで気持ちに余裕ができたのがわかる。
エルは腕を組み辺りをぶらぶらと歩いた。
今後の問題はまずブーケの心の安定だ。否定するにしろ認めるにしろ、納得のいく説明が必要になる。ごまかすには母と名乗ったアグネスの存在が鮮烈過ぎたし、ブーケの聡明さがそれを許さないだろう。
そして、ミス・クローバーの処遇だ。彼女をこのまま少女の家庭教師として側に置くべきかの判断も要る。他に、ミス・ゼノン……、アグネスにどう対処するか。
エルに知らせたことで既に事態はリゼの手を離れた。家族内の繊細な部分も含み他人の彼女が介在していい問題ではない。ブーケのことが気がかりで平静ではいられないのが本音だが、
(分をわきまえないと)
エルが落とした火かき棒を拾い、マントルピースの脇に立てかけた。
「ご迷惑になるのでそろそろ失礼します。決して他言はしないから、安心して。ご家庭内の事柄に不用意に関わることになって、ご不快でないといいのだけれど」
「お帰りに? この後ご予定が?」
「いいえ」
「あなたはほぼ完璧な対処をして下さった。この家の女主人だとしてもおかしくない。本当にありがとう」
賞賛に近い礼を受けリゼは戸惑った。その反応も意外で驚く。あまりに私的な内容からエルは彼女が関わることを不快に思うのではと考えていた。
(でも違った)
エルは顎に指を置きまたマントルピースにもたれた。そうするのが癖のように片足を軽く曲げて立つ。その仕草を見るとリゼにふっと笑みが湧く。前に彼がそうしているのを見たのは、初めて会った日で、彼女の家の居間でキッドとの離婚の話し合いの場だった。それを今思い出したからだ。
リゼは暖炉前の椅子にすとんと腰を下ろした。
「ミス・ゼノンは確かに兄の妻でした。僕は結婚式に一度会ったきりで彼女を知らない。兄の死後、両親が母子を地所に引き取ったとは聞いた。僕が行った時には既に彼女はおらず、まだ赤ん坊のブーケだけだった……」
エルの話はブーケが兄の子であると認めている。ショパン婦人から聞かされ既知ではあったが、改めて彼自身から話されるとやはり衝撃はあった。それは受け入れ難いという心の作用で、
(それほど二人は真の父娘らしかった)
という証左だ。
「両親と彼女の間で意見の相違があったのかもしれない。それなら家を出てもらった経緯も納得がいく。ミス・ゼノンの視点では両親がひどく独善的に映ったのもわからなくもない。でも、それはもう過去の話だ」
「……なぜ今会いに来たのかしら? 急に「絆を保っていたい」だなんて」
「そう。それが不可解だ」
その真意はアグネス本人のみぞ知る。リゼには不審だったが、「抑えた母性があふれ出した」ことがその全てなのかもしれない。
「ブーケはひどいショックを受けていたの。家を飛び出したことを叱らないであげて。知らない場所へ小さなあの子が一人で、とても勇気が要ったと思う。勇敢だったわ」
エルはリゼを見つめ少し笑った。
「叱らない」
「良かった。……ミス・クローバーはどうなさるの?」
「今回のことは見過ごせないが、彼女にはもう四年も側にいてもらっている。ブーケも慣れているし、簡単に別の人に変更するというのも難しい。確かに頼りないんだが……」
エルは取り出したタバコを弄び、言葉を濁した。すぐに決断できない悩ましさがのぞく。
新たな人材を探すとなれば、多数の面談を経なくてはならない。その中にミス・クローバーを超える人物がいるかも定かではない。住み込む家庭教師に絶対ほしいのは人品の正しさと家庭への協調性だ。家との相性がある。優秀さは二の次であるかもしれない。それらをクリアしたミス・クローバーは得難い存在に違いなかった。
「僭越だけれど、わたしから彼女にお話をしたの。軽率で無責任な行動だったと責めたら、反省して下さったようよ。差し支えなければ、わたしもブーケの様子を見にお邪魔させてもらうから、当座は現状維持でも大丈夫ではないかしら?」
「それはありがたい。あなたに迷惑ばかりかけて申し訳ないが、とても助かる」
エルは破顔した。リゼは彼のこんな笑顔を見たのは初めてではないかと思った。
「ブーケはお友だちよ。当然だわ」
そう返した後で、ここ一月余りのエルとのぎごちなさが消え去っていることに気づく。彼の側にもわだかまりは感じない。テリアのことが原因だったが、その理由も掘り下げたくなかった。単純に、エルはテリアの行動が気に入らないのだろう。二人は相性が良くないに違いない。
(自分と合わない人がいてもおかしくないわ)
それをリゼにまで押しつけるのはお節介が過ぎたが。もう蒸し返したくなかった。
書斎を出てエルはブーケの寝室に向かった。扉を開けるとベッドに少女が身を起こしている。仮眠を終え考え事をしていたようだ。彼は何も言わずにその側に腰掛けた。小さな身体を抱きしめて背を撫ぜている。
ブーケの嗚咽が続き、リゼは扉から離れた。




