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わたしの方が好きでした  作者: 帆々
変化

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19/47

19

 

 通りを行く人にぶつかりかけ、謝りつつ走った。息が荒く切れそうになった時に彼に追いついた。彼の腕をつかんだのは、そうしないとまた距離が離れてしまいそうだったから。


 驚いて振り返ったエルと息を乱した彼女は向き合った。彼は彼女を見ながら長く言葉を発しなかった。その間に彼女は呼吸を鎮めることができた。


「ごめんなさい、驚かせて。あの……、あなたに聞きたいことがあって……」


「僕に何を?」


 面と向かってはみたが、きちんと彼女の中で整理ができたのではなかった。もやもやした疑問が胸に渦巻いているだけだ。それが引っ掛かりすっきりしない。


 彼女の工房と契約を結んだのは同情なのか? 裏切られて離婚した可哀想で気の毒な女性への憐憫と親切か? テリアはそれがエルの「自己満足」だとも言った。


(だからどうだというの?)


 そうであれば自分が惨めなのだ。工房の品への自負も自信も彼女の努力も皆、彼から授けられた哀れみのベールを被り、正当な評価を受けていないことになる。


「……契約は、あなたのお考えですか? わたしが気の毒で可哀想な女だから……、その同情でそう計らって下さったのでは?」


 目の縁が痙攣を起こしている。頬もこわばり意固地で嫌な顔をしているだろうと思った。問いをぶつけた後でも、どうして黙って彼の温情をのんでいられなかったのかと悔やんだ。


 垂らされた慈悲を従順に受け取って知らん顔で過ごす。その方がより上品に見映えがする。街なかで施してくれた紳士を追いかけて詰問するような女より、よほど。


「ご親切はありがたいの。でも……、そんな理由で過分な契約をいただいたのでは、すぐにそれほどの品ではないと底が割れてしまうわ。将来的に自分たちのためにならないと思います」


「契約を取り止めたいのですか?」


「……それもしょうがないと思います。分不相応な条件だったのだもの……」


 舌の上でとても苦い言葉だった。どれだけの思いで仕事に取り組んできたか。初めての大きな契約に工房全体が湧くほどに皆で喜んだ。


 涙がこぼれそうになり、慌てて顔を背け指でまなじりを拭う。その彼女の頬に彼の言葉が降った。


「うちに入れるために既に製造に入っているでしょう」


「他に販路を。まだ数を作っていないから、何とか……」


「それはいけない。あなたの工房とは独占契約を結んでいたはず。うちに入れる約束の商品を他でさばかれては困る。それは契約違反だ。しかるべき理由のない履行放棄も違約金の対象になる。大きな損ですよ」


 彼女は顔を上げた。やや伏せて彼女を見るエルの目と会う。


「あなたへの感情がなかったとは言わない。幾分……判断に加味されたのは否定しません。それの何がいけない? 叔母の友人で信頼が置けるというのも気に入らない? 契約の軸に何らかの要素が加わるのは不思議でも何でもないでしょう」


「……要素の大きさによるわ」


「間違えないで欲しいのは、僕が契約の全てを決めたのではないということです。上がってきた報告に若干口を挟んだに過ぎない。それが余計だったと言うのなら、あなたの気分を害して申し訳なかった。ただ……」


 言葉を溜めたエルをリゼは待った。親切を突き返す生意気な女と思われていることは、百も承知だった。


「これを言えば、あなたはまたつむじを曲げてしまうだろうな」


「おっしゃって」


「使えるものは何でも使えばいいのに、と思う。妙なこだわりで道を狭めている。それはあなたのエゴでしかないのに」

 

 リゼは言葉を返せなかった。確かにエルへぶつけたものはごく私的な感情だった。感傷と言ってもいい。憐れまれたことが惨めで情けなく、そんな可哀想な自分が嫌だった。


「遭った災難をお気の毒と感じたが、僕はそれで憐れんでいるのではない。リゼに頑張って欲しいと思っただけのことです」


 やはり彼女は言葉を返せなかった。ここに至り、それすらも不要と突っぱねる滑稽さはよく見えていたから。


「自分の絵をハガキにして売る度胸があるのなら、僕を利用するくらい容易いだろうに」


 ぎょっとする言葉が飛び出て、彼女は目を大きくした。エルが言うのは、前に新聞に載った際の彼女の絵を使って勝手に売られたハガキのことだ。


「売っていないわ。あれは新聞社に勝手にやられたの。まさか自分でだなんて……!」


「なるほど」


 彼は唇の端で笑った。その笑みが「そういうことにしておこうか」とでも言うように見え、彼女は唇を噛んだ。


「では」


 エルはちょっと帽子のつばに手をやりそのまま身を翻した。遅れてリゼも踵を返した。


 会話を反芻してみる。告げたいことは告げた。それに返しもあった。思いがけない答えに今も戸惑っていた。契約に手心を加えたのは同情ではなく、


「リゼに頑張って欲しいと思っただけのことです」。


 という応援の思いからだった。その根っこは同情であっても、励ましに続くのなら意味が違う。決して不快ではなかった。むしろ嬉しかった。


(お礼を言わないと)


 と思う。そして詫びも必要だとも。


 憐憫をかけられたのでは、と過剰反応した感情はもう波立っていない。エルは彼女の離婚劇を肌で知る唯一の人物だ。あの喜劇のような悲劇に立ち会い、彼女により同情を寄せてしまうのは不思議ではない。


 そもそもは純粋な厚意と優しさそのもの。高みからの施しのように受け取ったのは、テリアの「自己満足」という言葉に感化され、外野から見た意見を鵜呑みにしてしまったためだ。


「僕が契約の全てを決めたのではない」。ともエルは言った。現場の意見がまずあって、そこにリゼに有利な要素を足してくれたに過ぎない。


 心が静まれば羞恥が湧いた。恥ずかしさに頰が熱くなる。


 既に『オレアンダー・ホテル』との契約解除の意志など消えていた。つくづく感情的判断に走り過ぎていたと思う。多額の違約金を支払い契約を切る愚かさに、ようやく気づいた。「使えるものは何でも使え」と言った彼の言葉に今なら易く頷ける。そうしないのは彼女のエゴだということも芯から納得がいった。


(経営者失格ね)


 家に帰って居間に入る。盆に置かれた手紙を手に椅子に掛けた。一人の家。彼女一人のためのしつらえ。キッドがいた頃とは様変わりした空間でも、心はあの時につながっているのはわかる。


 何となく膝を抱えて座る。窓辺から猫のピッピがジャンプしてやって来た。


 風景を変えても過去は変わらない。過去がきざす時、あの頃の自分をのぞき込んでいる今の自分を感じる。愚かなほどのめり込んだ痛々しい少し前の彼女だ。それを情けなさと切なさ、哀れみをもって眺めている。


(わたしに一番同情しているのは、わたしかもしれない)


 リゼは唯一の家族を抱きながらふと思った。


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