13
キッドと別れ三月が過ぎた。リゼは変わらず日々を忙しく過ごしている。
当初は家を出ようかとも考えた。そこかしこに夫との思い出が残る。幸せな記憶にとびきり悪いものが混じり、気持ちを暗くした。しかし、父の遺してくれた実家でもある家を出ることにためらいが強かった。次の住まいを探すのも面倒でその意欲も起きない。
結果、大きく室内の模様替えや改装をして嫌な印象を払拭することで落ち着いた。贅沢をしないリゼだが、費用を気にせず好みの部屋作りを楽しんだ。絨毯から家具も一新し以前とはがらりとと雰囲気を変えた。
交際が復活したショパン婦人も新たなリゼの住まいを喜んでくれた。
「いいわね。明るく華やかで女性的よ。女の城という感じで素敵だわ」
大幅な改装のおかげで嫌な思い出が蘇ることも減った。一人の夜に泣くことも少なくなった。しかし寂しさに似た虚無感はつきまとった。何をしていても芯から笑えない感じがする。大きな裏切りが残した心の傷なのかもしれない。
(もう癒えることはないのかも)
たとえば、少女の頃の母からの態度や言葉で傷ついた自分を今も残してるように。そこにキッドに付けられた傷が並んで残っていくような気がしている。
ある時、工房のジンが子猫をもらわないかと触れ回っていた。
「うちの猫が子供を四匹産んだんだ。みんな可愛い三毛だよ」
動物を飼うなどこれまで考えもしなかった。キッドの健康に障りそうだったし、彼は猫を嫌っていた。従業員が子供のために一匹引き取ったのを見て、どういう衝動かリゼも手を上げた。
「わたしも引き取らせて」
皆がそれを勧めた。一人になった彼女に猫の家族ができるのはいいことに思われた。工房の皆には離婚してすぐ、そこに至った経緯も公表してあった。キッドの素行には首を傾げていたのに「それ見たことか」とは誰も言わなかった。
リゼは子猫の飼い方をジンに教わり、小さな家族を抱いて帰ってきた。まだ小さいから物置から出してきた大きな鳥籠を寝床にした。
メイドにも手伝ってもらい、日々世話をするのが楽しくなった。名前はピッピになった。
キッドが消えて静かな家にピッピが賑わいをくれる。ふと笑っている自分に気づき、少しだけ過去を忘れていることが嬉しくなった。こうやって思い出に囚われなくなっていくのだろう。徐々にゆっくり。
人生の大半に及ぶ彼の存在は大きい。その人との終わりが惨めで情けないものであったことが、悔しくも切なくもある。
「男女の別れにきれいごとなんかないわよ。離婚ともなれば財産も絡むからひどい話も多いの。それに思い出すのも嫌なくらいでちょうどいいの。完全に相手を見限れるでしょう」
ショパン婦人の言葉だ。
「謝罪の一言もなくてみっともなかった。結局自分だけが可愛い人でした。何であんなに好きだったのか、わからない」
「のちに甥も「話が通じない種の人間だ」ともらしていたわ」
「そう、甥御さんはキッドの要求に吹き出していらした。あんまり馬鹿げていたからびっくりなさったのね。家をくれたら全て丸く治るんだ、なんて当たり前みたいに言っていた。それが合理的なんだそう」
「当然の権利と思っていたのでしょうね。こういうことになったけれど、あなたにとって離れて良かったの。あの母親とも縁が切れたのだから、わたしも嬉しいわ」
婦人が言及したキッドのその母親がある時工房に現れた。メイドが家に入れなかったためにこちらを目指したと言った。
「鍵も変わっちゃってるから前のが使えないのよ。入れなかった」
元姑はバッグから出した鍵をオフィスのデスクにぽいっと投げた。キッドにも家の鍵は渡してあったから、それで合鍵を作らせたのだろうか。
リゼはお茶を入れ離婚の報告を怠っていたことを詫びた。
「ついこの間聞いてびっくりよ。キッドは真面目過ぎて面白味が乏しいけど、真っ直ぐな人間よ。しかも具合の悪いあの子を家から放り出すって、どういうことよ?」
その言葉からキッドは離婚の理由を母親に話していないようだった。三月以上たって離婚の事実だけ聞かされれば、仰天して当然だ。
誤魔化すことも考えたが、彼に身勝手に事実を歪められても困る。ありのままを告げることにした。
全てを聞いた元姑はしばらく黙ったままだった。「真っ直ぐな」息子がリゼにした仕打ちは意外だったようだ。たっぷりの沈黙の後で、
「それはあの子が悪いわ。あんたに愛想を尽かされて当然だわ。悪かったわね、ごめんなさいね」
と詫びてくれた。不貞腐れて最後まで本人からは謝罪がなかった。その母親も同じような態度だろう。そんなあきらめもあった。なのにあっさり息子が悪かったと認め、それを詫びてくれた。驚きの後で、しんとそれが胸に沁みた。
「悔しいわね、腹が立つわね。わたし、代わりに折檻してやるわ。あんたみたいないい嫁をもらってあの子……、本当に馬鹿だよ」
「いいんです。もう終わったことですから」
元姑は離婚の事実にしょげたように肩を落とした。それがリゼには申し訳なくて、責任もないのに胸が痛んだ。
乗り合い馬車に乗ってやって来た彼女に家まで送り届けてくれるよう馬車を手配した。ふと思い出して、工房のパイを手土産にして持たせた。「いける味」と褒められたことがあったから。




