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わたしの方が好きでした  作者: 帆々
虚像

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「なるほど。自分の言い分のみで、妻がなぜ離婚を望むのか知ろうともしない。これもかなり利己的だと思いますがね。双方が離婚を望んでいる以上、このまま離婚は合意でよろしいですね」


 エルの強い皮肉が刺さったのかどうか。キッドは面白くなさそうに唇を歪めたが、リゼが用意した離婚の承諾書には署名してくれた。彼女の名は既に婦人の居間で記入済みだった。


 エルがリゼを見た。彼女はそれに頷く。


「離婚の合意が成ったので、あらかじめ伝えたように資金の提供をいたします」


 エルは上着のポケットからリゼから預かっていた礼金の包みを取り出した。それを膝に置いたところでキッドが、


「これは相談というか、お願いなんだが……」


 と切り出した。エルはとりあえず聞くだけは聞くと手で示し、先を促した。キッドはエルではなくリゼに向いて話し始めた。


「僕は健康体ではないし外で働くには無理がある。だから家で出来る執筆業を志した。しかし、将来はともかく、すぐには生活も苦しいだろう。収入もないから若干の資金をもらったって、すぐに尽きてしまうよ。それで考えたんだ。この家を僕に譲ってくれないか? 上の階の賃借人らからの収入があれば暮らしも十分成り立つんだ。合理的な案だ」


 突飛な申し出にリゼは何もかも忘れてキッドを見返した。失笑を噛み殺すのにしくじったのはエルだ。


「ははっ」


 おかしげに手の甲で口元をふさぐ。呆れが勝って笑いこそ出なかったが、彼女だって馬鹿馬鹿しい発言だと感じた。


 エルをひと睨みしたキッドが彼女に訴えた。


「君はここを出ても簡単に住まいを見つけられる。でも、僕はそう身軽にはいかない。優しい君ならわかるよね、この家を譲ってくれれば全てが丸く収まるんだ。最後の僕の願いを叶えてほしい、リゼ…」


 切々と語るその仕草も声も、昨日までのリゼになら心を揺らがせる魅力があった。しかし今では、そこに生々しい打算を感じるばかりだ。


 同じ声が少しだけ前、浴室で『男まさりに商売なんかしているから小賢しいが、僕の言葉は絶対だ』とフランを相手に嘯いていたのは、このことだったと合点がいった。


(離婚を突きつけて動揺したところへ、わたしにこの家を譲れと迫るつもりだったのね)


 ショパン婦人からキッドの裏切りを知らされなければ、彼を失いたくないがために自分はそうしたかもしれない。それほどに人の声も周りも見えていなかった自分が、今は情けなくも悲しくもある。


「この家は父がわたしに遺してくれたもので、あなたにその権利はないの」


「権利なら君が譲れば僕に移る。簡単なことだよ。ここに固執しなくたって、君には他にも工房もあるし農場も持っているじゃないか」


「あなた、どれだけおかしなことを言ってるのかわかっている?」


 キッドは黙り込んだ。リゼの頑なさが意外なようでフランを見やった。


(せいぜい、見つめ合って相談すればいいわ)


 こんな馬鹿な話し合いに同席することになったエルに申し訳なくなった。見れば彼はシガレットケースを取り出したところだった。許可を得るようリゼを見た。「どうぞ」というつもりで頷いた。 



 紫炎がふわりと漂う頃、キッドが両手を開いてリゼに微笑んだ。


「わかった。離婚の話は互いに引っ込めよう。せっかくこの家で上手くいっている僕たちが、別れる道理はないんだ。少しのすれ違いがもう少しで悲劇を生むところだった」


「え」


 いきなりの方向転換にリゼは面食らった。家が手に入らないと知るや、離婚をしても旨味がないことに気づいての早過ぎる翻意だった。


「僕たちが諍うのは、亡きお父上が悲しまれるよ」


「勝手に矛を収めようとしているようですが、咎のあるあなたにそれは許されませんよ」


 エルはタバコを手に立ち上がり、ちょっと歩いて灰が長くなったそれを暖炉に投げ入れた。マントルピースにもたれ片足を曲げて立った。


「妻の名義の家で妻の雇い入れた看護人と不貞を働く夫に、妻が求める離婚を逃れる手はない」


 リゼは目を伏せた。キッドの裏切りは言及しないつもりだった。彼が離婚をのんでくれれば敢えてそこをつく必要はないから。彼らの醜い行為は生々しくリゼの中で続いている。突きつけることで鮮やかにしたくない。


 彼女は見逃したが、その間のキッドとフランの表情の変化は見ものだった。驚愕に頬が強張り、のち赤くなって、キッドはエルに食ってかかる。


「あまりにも無礼じゃないか。根拠のない妄言は撤回したまえ」


「なぜ根拠がないと? リゼがなぜ離婚を望むのか? 人の屋敷を奪う算段をする前に少しは知恵を働かせてくれないか。彼女はあんたの裏切りを全て知っている。お望みなら証人も立てよう」


「あなた」から「あんた」呼びに変わっても、もうキッドは取り合わなかった。気づかなかったのかもしれない。


 リゼは顔を上げた。エルだけを煩わせていいものではない。嫌なところを任せてしまった。自分でけりをつけないといけない。そう気持ちが定まった。


「エルが告げて下さったように少額の資金は提供します。それを持ってここを出て行って」


「まさか、本気じゃないんだろう? 裏切りなんて大袈裟な……、フランとのことは君の嫉妬からの勘違いだよ」


 ここに至ってキッドの顔色は青ざめていた。取り繕うようにリゼに笑いかけながら右腕をさすり出す。


「『コウボウ』は癇癪持ちで小賢しいのでしょう?」


「メイドが告げ口したのか?」


 語るに落ちた。情事にふける間、メイドは彼らに外に使いにでも出されているのだろう。だから今日リゼが帰った時いなかった。しかし気づかれないはずがない。そう思うからキッドもこんなことを言う。


 離婚の申し立てには両者の承諾書に添え証人の証明が必要だ。それはエルが担ってくれることになった。


 エルが金の入った包みを投げた。敢えてか、それはキッドに届かずその前の床に落ちた。


「僕は後三十分しか待てない。その間に手荷物をまとめ出て行ってくれ」


 厳しいエルの言葉に、キッドはリゼをにらんだり嘆いて天を仰いだり。果ては身を固くして離婚に抗った。


「こんな……、おかしい。僕がここを出るだなんて間違いだ。上手くいっていたのに。ここは僕の家だったじゃないか!」


 通らない言い分を駄々っ子のように繰り返すキッドを前に、リゼは彼への愛情が急速に冷めていくのを感じた。もう見るのも辛くない。


「これ以上うんざりさせないで」


 粘ったキッドだが、リゼの突き放した言葉に虚しいと知る。涙を見せた。


 フランが立ち上がった。床の金の包みを拾いキッドを促した。その姿にリゼは妙な潔さを感じた。他人のエルが間に入った以上、リゼを同情で丸め込むのは無理だ。家を手に入れる術はないとあきらめたのだろう。


 それから彼ら二人が家を出ていくまでに短い時間が流れた。キッドのために買い揃えた書籍も多い。大きな荷物は追って彼の実家に送ることにした。妹夫婦の住むそこに落ち着くことになるだろうから。


 全てが片付きリゼは立ち上がった。悲嘆に暮れるべきだろうが暇な身ではない。工房に仕事を残してきた。また感傷に浸っていたくもなかった。


 エルがいてくれて助かった。彼の強い姿勢がなければ、二人をこんな簡単に出て行かせることは難しかったと思う。


「どうもありがとうございます。とても助かりました」


「いや。礼は叔母に言って下されば。あの人の厚意だ」


「それはもちろん。今からお知らせに上がります。心配して下さっているだろうから」


「なら僕はここで、失礼します。顔を見に寄っただけだから、叔母には帰ったと適当に」


「僕は後三十分しか待てない」と行っていたが、確かに急ぐようだ。彼は帽子を頭に乗せ辞儀をした後で、


「あなたはとても勇敢だった」


 と一言告げた。急ぎ足で去って行く。


 リゼは一人きりの居間に少しだけ佇んだ。嵐のような時間だった。振り返りたくもないがショパン婦人は説明を欲しがるだろう。その欲求を満たしてあげないのは残酷だ。


 夫も消えフランも消えた。エルももういない。居間は芝居の終わった舞台のようだと思った。まだ少しタバコの香りが残っている。


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