第1話 黒い牙
村が焼けていた。
火の勢いはもうない。
柱が黒く残って、煙だけが上がっている。
その中の一軒に男がいた。
灯りはつけていない。
床に膝をついて、板を剥がしている。
一枚。
二枚。
三枚目が釘で止まっていた。
爪をかけて引いた。
爪が割れた。
構わず引いた。
四枚目を外すと土が見えた。
男は素手で掘った。
四年分、踏み固められた土だった。
かつて、二人でかぶせた土だった。
指の皮が剥けて、血が土に落ちた。
石の蓋に指先が当たる。
一人では開けられない、と言って据えた蓋だった。
男は三度引いて、それを横へずらした。
穴の中に二つあった。
砕けた鉄の塊。
その隣に、黒い布に包まれた、細長いもの。
男は布に手をかけた。
その手は震えていなかった。
この男を、かつて人は黒い牙と呼んだ。
これは、そう呼ばれていた頃から始まる話である。
朝霧に、血の匂いが混じる。
風はない。
焼け落ちた木が、まだ小さく燻っていた。
灰と鉄錆の匂い。
霧に溶けて、重く垂れ込めている。
三日前まで、ここは砦だった。
今はただの瓦礫。
崩れた壁の向こうに、生き残った敵兵が数珠つなぎにされている。
縄で縛られ、地に座らされ、誰もが俯いていた。
三日、そのままにされている。
隊長はその列の前をゆっくり歩いた。
黒い甲冑が朝日を鈍く跳ね返す。
兜の奥の瞳に、感情らしいものはない。
踏みしめる足音だけが、やけに大きく響いた。
「隊長。捕虜の扱いは」
若い副官が恐る恐る声をかける。
ディーター・ラング。
半年前に来たばかりの、まだ二十歳前の男だ。
返答は、ない。
隊長は二歩、三歩と歩き続ける。
聞こえていないのではない。
声が届くまでに、時間がかかっている。
ディーターがもう一度口を開こうとして、やめた。
「殺せ」
ようやく、返答があった。
迷いはない。
間だけがあった。
「……全員、でありますか」
「当然だ」
隊長は足を止めない。
「どうせ国に戻れば、また牙を剥く。生かす理由がない」
「ですが、兵糧の無駄遣いというだけでは」
「無駄遣いだ」
淡々とした声だった。
「食わせる値もない。それだけの話だ」
ディーターが口を噤む。
それでも、食い下がった。
「もし我々が、逆の立場になったら」
隊長は初めてそこで振り返った。
兜越しでも、空気が変わるのが分かる。
並んだ捕虜が揃って身を縮めた。
縮んだのは、捕虜だけではない。
縄を握っていた兵が半歩下がる。
見張りの者が目を伏せる。
ディーターの背が、わずかに強張った。
誰も、それを口にしない。
口にすれば、次は自分かもしれないからだ。
「捕虜になるような腰抜けは、我が軍に不要だ」
熱のない言葉だった。
事実を述べているだけの声。
「それは私も、貴官らも同じだ」
ディーターはもう何も言えなかった。
処刑はその日のうちに終わる。
悲鳴も、抵抗もない。
あったのは静かな諦めだけ。
三日前の夜を、誰もが忘れられずにいた。
砦の門は分厚い鉄で閉ざされていた。
援護もなく、隊長はただ一人でそこへ向かう。
誰の目にも無謀としか映らない。
門の向こうには弓兵が並んでいる、という話もあった。
それでも、隊長は止まらなかった。
矢の雨をかいくぐり、門にたどり着く。
纏った甲冑がひときわ深く光った。
剣を一閃させただけで、分厚い閂が両断される。
そのまま内側へ躍り込み、待ち構えていた守備の兵を斬り伏せた。
生き残ったのは、命乞いをした数名だけ。
その数名が、今日の列に並んでいた者たちだった。
戻ってきた隊長の甲冑に、返り血は一滴もついていない。
浴びる前に、すべてが終わっているからだ。
それを見た兵は、誰も声を出せなかった。
「あれが、黒い牙の隊長か」
「噂以上だな……」
離れた場所で、若い兵がそう囁き合う。
声に滲むのは、恐れだ。
畏敬とは違う、もっと冷たいもの。
これが、ダークナイトと呼ばれる男の日常である。
黒い牙。ヴァルクシア帝国が誇る、最強の部隊の名だ。
率いる男の名は、誰も知らない。皆が「隊長」と呼び、あるいは畏れを込めて「ダークナイト」と呼ぶ。敵国では、その名が出ただけで進軍が止まるという。
味方の兵ですら、背中を見るときは息を潜めた。強さへの尊敬と、得体の知れないものへの恐れ。いつも同じ分量で混じっている。
腕を斬り落とされても剣を離さなかった。味方を庇って動いたことは一度もない。真偽の定かでない話が、尾ひれをつけて広まっていく。誰も、本人に確かめようとはしない。
隊長は、孤児として帝国に拾われた。物心つく前から、戦うためだけに育てられている。仲間を蹴落とさなければ、生き延びられない場所だった。
幼いころ、隣の寝床に少年がいた。剣の型を覚えるのが遅く、いつも殴られていた。ある朝、その寝床は空になっていた。
誰も、行き先を口にしない。聞いてはいけないと、皆が知っていたからだ。
次は自分かもしれない。そう思うことすら、いつからか無くなった。感じなくなった、というほうが近い。
教官はいつも言っていた。
「弱い者を庇えば、庇った方から死ぬ。友を作るな。情けは、お前の首を絞める縄になる」
疑ったことは一度もない。疑う理由が、どこにも無かった。
そこに愛情はなかった。だから知らずに来た。人を想うことも、誰かに優しくされることも。知る必要すら、なかったはずだ。
剣を振れば、敵は死ぬ。それだけが世界のすべてだった。
暗黒の魔法による強化を、幾度も受けている。常人なら鞘から抜くだけで指を落とすという、曰く付きの剣。自我を持つと言われるその魔剣にすら、隊長は認められていた。
ネメシス。復讐を意味する名だと、誰かが言っていた。誰が名付けたのかは知らない。隊長にとっては、ただの剣だ。
その剣は、今も腰にある。二度と脱げないと噂される、呪われた甲冑もまた、体を包んでいた。
深手を負っても、朝には塞がる。どれほど魔法を浴びても、傷ひとつつかない。着込んでいる限り、食べる必要も眠る必要もない。汗もかかず、体が汚れることすらなかった。
鞘に剣を納めるたび、指先に渇きに似たものが走る。喉の奥が、少しだけ乾く感覚。それが何なのか、深く考えたことはない。
この二つを身につけている限り、彼は誰よりも強い。同時に、誰よりも人間から遠い。
砦の跡を後にし、野営地へ戻る道で、伝令が追いついてきた。
「隊長。皇都からの使者です」
差し出された書状に、皇帝の署名がある。至急、皇都へ帰還せよ。理由は書かれていない。それだけだった。
「栄誉ですね」
ディーターの声が、少し弾んでいた。これほどの戦果を挙げたのだ。皇帝から直に呼ばれるなど、名誉以外の何ものでもない。
野営地に戻ると、他の将校たちも次々に祝いの言葉をかけてくる。
「さすが黒い牙だ」
「これで、また位が上がるな」
焚き火を囲んで、部下たちが小さく笑い合う。誰かが、酒の入った杯を差し出した。
「お祝いです」
隊長は、黙って受け取った。口はつけない。何と返せばいいのか、分からなかったからだ。
杯の中身はそのまま冷めていった。
栄誉なのだろう、と思おうとする。誰もがそう言うのだから、きっとそうなのだ。
だが、書状を握る指先に、これまで感じたことのない違和感があった。戦場で、幾度も死線をくぐってきた。恐怖という感情すら、とうに擦り切れていたはずだ。
それなのに。背筋を、冷たいものが這っていく。
夜。一人になった天幕で、隊長は兜を外した。
外気に触れた頬が、思いのほか冷たい。甲冑を纏っている間は、暑さも寒さも遠い。雨に打たれても、濡れている実感がなかった。
そういうものだと思っていた。強くなるには、それくらいの代わりが要るのだと。
だが、外してみて分かる。冷たいという感覚は、こんなにはっきりしたものだったのか。
磨いた剣の腹に、自分の顔が映っていた。そこにいたのは化け物ではない。ただの、疲れた男の顔。
隊長はその顔から目を逸らした。
縋るものは、剣の他に何もない。それだけが、これまで彼を支えてきた。他に何も要らないはずだった。今夜まで、確かにそうだった。
もう一度、書状を開く。署名の下に、小さく添えられた一文があった。
功績を、皇都で祝いたい。
ただの言葉だ。それだけのはずだった。
隊長は、皇都へ続く一本道を、じっと見つめる。長く仕えた帝国が、初めて得体の知れないものに見えた。
その予感は、正しかった。
三日後、彼は皇都の玉座の間で、抜き身の剣に囲まれる。
そして皇帝は、こう言うのだ。
「反逆者を、討て」
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