第10話 玉手箱
嵐が過ぎても、海はまだ完全には凪いでいなかった。
けれど太郎は、“帰るなら今しかない”と知っていた。
だから乙姫は、笑って送り出す準備を始める。
嵐が去った翌朝。
竜宮は、まだ完全には静まりきっていなかった。
昨日まで膜を激しく叩いていた海流は、少し勢いを弱めたものの、今も世界の遠くで低く唸っている。
ときおり、大きな水流が膜の外を擦り抜けるたび、
竜宮全体が、ゆらり、と微かに揺れた。
それでも。
ミドリなら、地上まで泳ぎ切れる程度には、
海は落ち着き始めている。
私は、ゆっくりと目を開けた。
薄青い朝の光。
静かな潮の音。
そして、嵐の名残みたいな、鈍い海鳴り。
それから――
「……あ」
太郎が、もう起きていた。
きちんと衣を着て、部屋の端へ静かに座っている。
その張り詰めた横顔を見た、その瞬間。
私は、すぐに分かってしまった。
もう、心を決めたのだと。
私は、乱れた衣を胸元へ引き寄せながら、
静かに床の上に身体を起こす。
太郎が、こちらを見た。
少しだけ、困ったみたいに愛おしそうに笑った。
「起こしちゃいました?」
「いいえ。ちょうど目が覚めたわ」
私は、真っ直ぐに彼を見つめる。
それから、ぽつりと寂しそうに呟いた。
「……もう、行くのね」
太郎が、静かに深く頷く。
「はい」
低い、確かな声。
「少し波が落ち着いてきたので。
これなら、ミドリなら外へ出られると思います」
私は、小さく目を伏せた。
太郎が、少し視線を落として続ける。
「それに……」
少しだけ、迷うように間を置いてから。
「このままここにいたら。
……本当に、帰りたくなくなりそうなので」
胸の奥で、潮満珠が静かに激しく痛んだ。私は、泣きそうなのを堪えて少しだけ笑う。
「……そう」
喉の奥が、熱く焼けるように少し重い。
「そうね」
引き止めたい。本当は。
もう一度あの腕に抱かれて、
もう少しだけ、ここへ永遠に閉じ込めていたい。
でも。
昨夜、彼はちゃんと自分の口で“帰る”と言った。
なら。
私は、ちゃんとあの人を送り出さなければならない。
◇
私は、床からゆっくりと立ち上がる。
乱れた衣を静かに合わせながら、
太郎の方へゆっくりと近づいた。
太郎が、少しだけ緊張したみたいな顔になる。
私は、その逞しい腰へそっと腕を回した。
ぴくり、と。太郎の肩が小さく揺れる。
近い。
身体のあちこちに、まだ昨夜の熱が残っている。
私は、愛おしそうに彼を見上げた。
「……ありがとう、太郎」
太郎が、驚いたように目を瞬く。
私は、そっと静かに目を閉じた。
太郎が、小さく甘く息を呑む気配がした。
それから。
とても、とても優しく、私を強く抱き締めた。
触れ合う、唇。
静かな、深い口付け。
それは別れを急かさない、
お互いを慈しむような、優しい熱だった。
太郎の大きな手が、私の長い髪を何度も優しく撫でる。私は、その温もりを一生忘れないように、心臓の音を聴きながら、静かに抱きしめた。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。
見上げると、太郎の顔は耳の先まで真っ赤だった。
私は、その初々しさに思わずふふっと吹き出す。
「ふふ……なによ、その顔は」
「……乙姫さん、
そんな普通に楽しそうに笑うの、ずるいです」
「だって、あなたがあまりに可愛いんだもの」
「男に向かって、可愛いって言わないでください」
本気で困ったように、太郎が照れくさそうに顔を背ける。その真っ直ぐな顔が、最後までどこまでも太郎らしくて。私は、少しだけ安心して小さく微笑んだ。
◇
身支度を終えたあと。
私は、静かに宵臣の名を呼んだ。
しばらくして。
白い回廊の奥から、宵臣が静かに現れる。
その後ろには、
玉依とミドリの姿もあった。
「お呼びでしょうか、姫」
宵臣の金色の視線が、
私と太郎の姿を順番に、静かに見つめる。
ほんの一瞬。
その切れ長の目を、寂しそうに細めた。
でも。この聡明な側近は、何も言わない。
それが、宵臣なりの最大の優しさなのだと分かった。
「宵臣」
私は、ゆっくりと口を開く。
「例の、玉手箱を」
「……承知いたしました」
静かな、どこか厳かな返事。
宵臣が、衣服の袖から、
そっと一つの箱を私の前へ差し出した。
白い貝と黒い貝を美しく重ね合わせた、
手のひらサイズの小さな箱。
それは、差し込む朝の光を受けて、
水面のように静かに揺らめいている。
隣で、太郎が小さく息を呑んだ。
「……綺麗だ」
「ふふ、見た目だけはね」
私は、少しだけ寂しそうに笑った。
その横で。玉依が、めちゃくちゃにすべてを察した顔をしていた。
でも。
いつもなら真っ先にからかう癖に、何も茶化さない。
ただ、少しだけ泣きそうな、優しい目で、
じっと私を見つめている。
「それと、浦島殿」
宵臣が、もう一つ小さな包みを太郎へ差し出した。
太郎が、大きく黒い目を見開く。
「……これ」
包みを開けた、その中。
そこには、小さな一寸の釣り針が入っていた。
太郎が、完全に呼吸を止める。
「これ、兄貴の……!」
「地上の激しい潮流をすべて辿って、
魚たちに探させました」
宵臣が、静かに、けれど誇らしげに言う。
「姫の、直々の御命です」
太郎が、ゆっくりと、愛おしそうに釣り針を握りしめる。その顔は、今にも涙が溢れそうに歪んでいた。
「……ありがとうございます。本当に」
深く頭を下げる太郎に、私は小さく肩を竦めてみせる。
「なによ。自分がナンパした男の責任くらい、
神様として、最後まで取るわよ」
太郎が、たまらずふっと笑った。
でも。その黒い目は、少しだけ赤く潤んでいる。
◇
「太郎」
私は、差し出された玉手箱へそっと指先で触れる。
衣服の奥で、潮満珠と潮干珠が、静かに神秘的に光った。
「この箱はね、あなたへ渡すために作ったものよ」
太郎が、私の目を見て真剣に頷く。
「はい」
「もしこれを開けなければ。
あなたは地上の、あの“日常の続き”へそのまま帰れる」
太郎が、抱えられた箱をじっと見つめる。
「でも……もし、開けてしまったら?」
私は、少しだけ切なく息を吐いた。
「竜宮で私と過ごした、この全ての時間が、
一気にあなたへ戻ることになるわ」
横で、玉依が静かに痛ましそうに目を伏せた。
宵臣も、何も言わずに静かに聞いている。
「どちらの道を選んでも、きっと、人間だもの後悔はするわ」
私は、真っ直ぐに太郎を見た。
「でもね。どちらの道を選んだとしても、
あなたはきっと、その思い出を大切にできるはずよ」
太郎が、ゆっくりと、壊れ物を扱うように箱を抱きしめた。
「……はい」
私は、少しだけ愛おしさに笑う。
「だから」
胸元で、潮干珠が静かに、冷たく揺れた。
「もしも……あなたがこれを開ける日が、いつか来たら」
太郎が、顔を上げてこちらを見る。
「ちゃんと、笑いながら開けなさい」
その予想外の言葉に。
太郎が、少しだけ驚いたように目を見開いた。
私は、ゆっくりと言葉を紡ぎ続ける。
「泣きながら開けたら、
“失ってしまったもの”しか見えなくなるわ」
衣服の奥で、潮満珠が優しく、温かく光る。
「でも、もしあなたが笑って開けられたなら」
私は、最高に綺麗に小さく笑ってみせた。
「きっと、“ここに私といた時間”のことも、
ちゃんと最後まで好きでいられるから」
太郎は、しばらくの間、黙って私を見つめていた。
やがて。
箱を大切そうに抱えたまま、小さく男らしく笑う。
「……乙姫さん、本当にどこまでもずるいです」
「あら、またそれ?」
「はい。降参です」
太郎が、少し照れくさそうに頭を掻いて笑う。
「でも……、そんな乙姫さんが、大好きです」
胸の奥で。
潮満珠と潮干珠が、同時にドクンと激しく鳴った。
私は、嬉しさに少しだけ目を細める。
「そう……」
それから。寂しさを全部吹き飛ばすように、わざと明るく笑ってみせた。
「じゃあ、最後にもう一回だけよ」
太郎が、きょとんとした顔をする。
私は、いつものように傲然と胸を張った。
「ちゃんと、私にナンパし直させてちょうだい」
「ぶふっ……!」
玉依が、堪えきれずに横で派手に吹き出した。
「お姉様ってば、本当に最後までそれなんですねぇ!」
「あったり前でしょう? 一番大事なところよ」
私は、一歩近づいて太郎を真っ直ぐに見上げる。
「浦島太郎」
波の音が、世界の境界線で静かに響いていた。
「今でも、私のこの退屈を、綺麗に追い払ってくれる?」
太郎は、少しだけ目を潤ませながら、
世界で一番眩しい笑顔で笑った。
「はい!」
その声は、ちゃんと、心底嬉しそうだった。
「たぶん……一生、
俺が退屈しなくなるくらいには!」
私は、満足したように深く頷く。
それから。涙が溢れそうになるのを隠すために、
少しだけ、視線を遠い海へと逸らした。
――だめね、本当に。
最後は笑顔で、綺麗に送り出すって。
心に固く決めていたのに。
胸の奥が、ちくちくと、まだ少しだけ痛かった。




