祖母の家
今年は雨が少なくて、いきなり暑くなったという印象がある。
夏休み。久しぶりに訪れた祖母の家は、管理する者がいなくなっていたので、門扉から玄関までの小道すらも荒れて、草がうんと背伸びをしていた。それでも、まだ想像よりはマシだったのは、やはり雨が少なかったからだろう。玄関を開けた時も、室内に湿気は無く、寧ろ冷んやりと心地良いくらいの空気が、外へと流れ出した。
祖母が亡くなったのは、今年に入ってすぐの事だった。
もともと身体が弱っていたところに、インフルエンザに罹ってしまい、そのまま亡くなったのだけど、それまで祖母は大きな病気もしなかったし、家族としては心構えのないままの葬式だった。それから、気持ちの整理が付くまでに時間を要して、やっと祖母の家を片付ける事になった。
山の中にぽつんと佇む古民家が、祖母の家だ。父が高校生の時に、祖父が亡くなって、女手一つで育て上げた三人の子供が都会に出てからも、祖母はこの家に一人で住み続けていた。夏休みになると、私はいつもこの家に来て、夏野菜の収穫を手伝ったり、川で遊んだりしていた。冬休みには、親戚一同が集まって年を越すことも、通例になっていた。
「稀世、早いわね」
「あ、淑子ちゃん」
締め切っていた雨戸を開けていると、スーツ姿の女性が、門から入ってきた。
私の父の、歳の離れた妹で、私からすれば叔母さんにあたる淑子ちゃんは、まだ三十過ぎで、東京で出版社に務めている。ファッション雑誌の編集長という肩書きもあり、お洒落で美人な淑子ちゃんは、叔母さんと呼ぶと怒るので、小さい頃から姉と思って接している。
「暑いわね……何か飲まない?」
淑子ちゃんは、両手に持ったレジ袋を掲げた。
ペットボトルが数本と、大きな西瓜が見えて、私は綻んだ。
この家の台所は、玄関から続きになっていて、土間を改装した広いダイニングキッチンには、業務用の大きな冷蔵庫がある。冬場は雪に埋もれるこの地域で、祖母が暮らしやすいようにと、淑子ちゃんがリフォームをした時に置いたのだと、以前聞いた。
さすがに、冷蔵庫の中の物は、祖母の葬式の時に捨てていたので、中は空っぽだった。そこに、淑子ちゃんが買ってきた飲み物や西瓜を入れていく。
「電気もガスも、生きてるのよね」
「うん。おばあちゃんの遺言でしょ」
祖母は、遺言を残していた。
この家は、誰にも譲らずに、家族で守って欲しい。
住んでくれとは言わないが、別荘にするなり、他人に貸すなりは任すが、権利だけは譲らないで欲しい。そう言われていたので、この家は親族の別荘として使うことになった。
何時でも使えるように、電気とガスは切らないでいる。裏の山で湧いている水を引いて、水道替わりにしていたので、そちらも心配はないだろう。
「しかし、稀世ったら大人っぽくなったわね」
「やだ、淑子ちゃん叔母さんっぽい」
「む。……まあ、いいわ。来年受験生だっけ?」
「うわー、嫌なこと思い出しちゃった」
ダイニングテーブルを挟んで、私と淑子ちゃんは向かい合って座っている。
スーツのジャケットを脱いで、薄手のブラウスだけになった淑子ちゃんは、仕事の出来るお姉さんといった感じで、格好良い。
「兄さんと義姉さんは来れないんだって?」
冷たい麦茶を飲みながら、淑子ちゃんが言った。
「うん、仕事が大変みたい」
「大学って、夏休みでしょ?」
「講習会とかがあるみたいだよ」
私の父は、大学で心理学を教えている。父は、一部の分野でかなり有名らしく、毎年夏には他大学の学生や、世界中の研究者に対して講習会を開いている。今年は、スケジュールが非常にタイトになってしまったらしく、母もバックアップに回っている。
「ふぅん。姉さんも、美也産んだばかりで来れないから、雅弥を寄越すって言ってたし」
「え、雅弥が来るの?」
雅弥は、私の二つ歳上の従兄弟だ。
昔から、一緒に祖母の家で夏休みを過ごしてきたけれど、小さい頃から意地悪で、私は泣かされてばかりいた。春に弟の美也が産まれたから、少しは優しくなっていればいいんだけど。
「みたいよ。そういえば、あんた達って、水と油だったわね。あー、もう。あたしも来なきゃよかったかな」
淑子ちゃんが、頬を膨らませる。
「子供だけで片付けさせるのはどうなの」
「だからちゃんと来たじゃない」
麦茶を飲み干して、淑子ちゃんは立ち上がった。
「よし、とりあえず片付けますか」
腕捲りをした淑子ちゃんが、にっと笑った。
*
半年程前に、葬式を上げた時から、家の中は何も変わっていなかった。
掃除よりも、まずは祖母の荷物を整理しようと、二人で祖母の部屋に入ると、少し黴臭い空気が滞留していた。
「換気しましょ、換気」
そう言って、物入れの襖を開けた淑子ちゃんに倣って、私も飾り窓に寄る。
障子を開けた途端、ひっと悲鳴を洩らしてしまう。
見知らぬ男の子が、そこに居た。
歳は、私よりも少し上くらい。雅弥と同じくらいに見えるから、大学生かな。染めた事のなさそうな黒い髪は、最近のチャラい男子とは違って、魅力的だ。
中庭に佇む彼は、鬱蒼と繁った草木の中で輝いて見えた。比喩ではなくて、強い日差しが木漏れ日になって、彼の白い肌に反射して輝いている。
「……誰?」
私が尋ねると、彼は困惑した目を向けてきた。
「ごめん、勝手に入って。京塚悠一です。雅弥に頼まれて、手伝いに来たんだけど、はぐれたみたいで……」
「あ、雅弥が?」
そこでようやく、私は胸を撫で下ろした。
不審者とか、幽霊とかだったらどうしようと思っていたから。
「どうしたの、稀世」
淑子ちゃんが、私に並ぶように立って、悠一さんを見つめる。
「ああ、雅弥が言ってた子かな? あのバカはどこ行ったの?」
「すいません、わかりません」
「はぐれたんだって」
本当バカねー、と淑子ちゃんが笑う。
淑子ちゃんは、雅弥から悠一さんのことを聞いていたらしい。
「縁側の雨戸を開けるから、そこから入りなさい。玄関よりは近いから」
「あ、はい……えっと」
悠一さんが、左右を見る。
「あの灯篭のところ、開けますから」
私が指差した方を見て、悠一さんは納得したように頷いた。
ありがとう、と言う声も魅力的だった。
急いで雨戸を開けにいくと、そこに淑子ちゃんの姿はなかった。私が開けると思ったらしい。雨戸を開けると、悠一は大きなスポーツバックを提げて待っていた。さっきは、雑草のせいでバックには気がつかなかった。
「おっきな荷物ね」
いつの間にか戻ってきていた淑子ちゃんが、手招きながら言った。
「雅弥が、せっかくだから小旅行気分で行こうって……すいません、ご迷惑ですよね」
「ああ、いいのよ。あたしも、連休取ったからしばらく実家で過ごそうと思ってたし」
悠一さんを縁側に腰掛けさせて、淑子ちゃんは絞ったタオルを差し出した。首を傾げた悠一の足元を指差して、淑子ちゃんは笑う。
「拭いときなさい」
「あ……ありがとうございます」
悠一さんの足元は、泥が撥ねて汚れていた。サンダルで、山路を進んできたら、確かに泥だらけになる。いくら夏だと言っても、山の道は所々湿っているし、何よりここの山は水源が豊富にある。
「さすが、淑子ちゃん」
「何年あんた達の面倒見てきたと思ってんの」
「えーと、十……」
「数えんでいい!」
指を折って数える真似をした私を、淑子ちゃんが叩いた。
雅弥が生まれた時に、中学生になった淑子ちゃんは、夏休みのたびに祖母の家に預けられていた私たちの相手をしてくれていた。一日中遊んで、泥だらけになって帰ってきた私と雅弥を、問答無用でお風呂に入れたりしていたので、悠一さんにタオルを用意することを思いついたのだろう。
「山にサンダルで来ちゃダメですね。あちこち擦りむいてる」
「あ、絆創膏、持ってるよ」
私はショートパンツのポケットから絆創膏を取り出して、悠一さんに手渡した。少し指が触れて、思わず心臓が跳ねた。
「ありがと。えっと、稀世ちゃん?」
「はい。え、何で名前?」
「雅弥から聞いた。淑子さん、ですよね?」
雅弥は嫌いだけど、これは褒めたい。悠一さんに名前を呼んでもらえたから。
でも、気になることもある。
「あの、雅弥は私のこと……」
「ん?」
「何て言ってたんですか?」
ああ、と悠一さんが笑う。
「小さくてかわ」
「ちんちくりんでからかいがいがあるって言ったんだよ」
悠一さんの言葉に被せて、不機嫌そうな声がした。
声のした方を見ると、縁側の端に雅弥が立っていた。
「ち、ちんちくりん?!」
「おう、久しぶりだなちんちくりん」
相変わらず無礼な態度で、雅弥が私を見下すように立つ。
「雅弥、あんた友達とはぐれたくせに玄関から入ってきたの?」
「淑子ちゃん、久しぶりなのにいきなり説教すんのやめろよ。俺は普通にバス停から歩いてきたのに、悠一が勝手にいなくなってたんだけど」
雅弥がむくれた。相変わらず子供っぽい。悠一さんと本当に友達なんだろうか。
淑子ちゃんは、溜息を一つ吐くと、私たちを見て笑った。
「とりあえず、寝室を掃除してくるわ。せっかく夏休みなんだから、あんた達は遊んで来なさい」
淑子ちゃんはそう言って、家の奥へと引っ込んでしまった。
残された私たちは顔を見合わせて、しばらく無言で過ごしていた。