第十三話 始まりのふたり
雷光を怒涛のごとく纏うベルの愛槍「リボルグ」と、地獄の火炎を宿すベリアスの大剣「レーヴァテイン」が打ち合わされるたび、空間そのものが激しく軋み、世界が悲鳴のような衝撃音を上げた。
ドォンッ!! パァンッ!!
一撃交わるごとに生まれる真空の衝撃波だけで、何千年も耐え抜いてきた古代の巨柱が豆腐のように砕け散り、激しく舞い上がった土煙は二人の放つ凄まじいオーラに焼かれて一瞬で雲散霧消する。あまりの威圧感に、コロシアムを囲んでいた千の精鋭兵たちすら悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
あの極寒の冬、凶悪な巨大アイスドラゴンを赤子のように捻り潰したベルの圧倒的な力が、今はこの惨状の中でどこか霞んで見えてしまう。目の前のベリアスが纏うオーラは、それを遥かに凌駕する絶望的なまでの質量と殺意を誇っていた。
「どうしたベル!! 殺し合いのテンポが遅いぞッ!!」
ベリアスの咆哮とともに、地獄の業火が渦を巻く。
「『獄炎穿裂斬』ッ!!」
空間ごと切り裂くようなベリアスの極大の大技が襲いかかる。ベルは即座にリボルグの柄で受け止めるが、打撃の重圧だけで足元の頑丈な石畳が放射状に砕け飛び、ベルの巨躯が数メートルも押し込まれた。
「『焦熱地獄陣』!!」
畳み掛けるように、ベリアスは剣を地面に突き立てた。全方位から立ち昇る灼熱の火柱。ベルは蒼と赤の気闘術を限界まで展開し、身を挺してその暴風を正面から受け止める。
「グッ……ガハッ……!」
ドゴォンッ! と響く破壊音と共に、ベルの口から鮮血が飛び散った。
ベリアスの一方的とも言える大技の連続撃。しかし、ベルは一切攻撃に転じようとしない。ただひたすらに、耐え難い打撃と熱波をその身一つで受け止め続けていた。
「何をしている、ベル!! なぜ打ち返してこない! 牙を抜かれた狼の真似事は終わりと言ったはずだぞッ!!」
苛立ちを募らせたベリアスが、さらに巨大化した火炎の刃を振りかざす。
衝撃波で吹き飛ばされ、這いつくばりながらその光景を見ていた私は、恐怖で叫び出しそうになる胸を必死で押さえた。
ベルは――反撃できないのではない。あえて、ベリアスの全てを受け止めているのだ。
空が赤と青の禍々しい魔法光に染まり、降り注ぐ強烈な魔力の残滓だけで、何千年も耐え抜いてきた古代の石畳が溶岩のようにドロドロと溶けていく。
遠巻きに周囲を囲んでいた精鋭兵たちは、自分たちが仕える絶対の王の、そしてかつて魔王国を震撼させた「処刑人」の底知れぬ実力と桁違いの破壊力に言葉を完全に失い、ただ口を開けて呆然と立ち尽くすしかなかった。
ベリアスの繰り出す一方的な激闘。その完璧に見えた均衡は、あまりにも唐突に、そしてあっけなく崩れ去った。
――ドカァンッ!!
爆烈する音と共に、空中で強烈な弾丸のように弾き飛ばされたのは、なんとベリアスの方だった。豪快に地面を転がり、力任せに爪を立てて土煙を巻き上げながら、彼は屈辱に満ちた表情で膝をついた。
「な……ッ!?」
ベリアスが信じられないという表情で、地面から上空を見上げる。そこには、赤と青のオーラを全身から激しく立ち昇らせ、肩で荒い息を吐きながらも、静かで鋭い眼光を放つワータイガー――ベルの姿があった。
ベリアスは即座にその屈辱をかき消すように獣の咆哮を上げると、全身に凄まじい爆炎を纏って再び上空のベルへと牙を剥いて突撃した。
ガギィンッ!! と激しい金属音が響き、ベリアスの炎の爪がベルの脇腹を深く引き裂く。鮮血が空中に散り、凝縮されていた膨大な魔力が大気へと激しく漏れ出す。
だが――両者の巨大な力が一点で重なり、目が潰れるほどの眩い閃光が走った次の瞬間。
またしても、凄まじい速度で地に堕ちたのはベリアスの方だった。
ドスゥンッ! と地響きを立ててコロシアムの中央に叩きつけられる炎の獅子。
「一体、何が起きているの……!?」
私は飛び散る衝撃波から顔を守るため、目元を両腕で覆いながら完全に混乱に陥っていた。
見間違えるはずがない。溢れ出る魔力量も、圧倒的な身体能力の押し切りも、どう見てもベリアスの方がベルを遥かに上回っているように見えた。なのに、互いの攻撃が交差し、巨躯同士が接触するたびに、なぜかベリアスの方が一方的に地面に叩きつけられているのだ。まるで、ベリアスの放つ必殺の刃が、ベルの核心にだけは「届いていない」かのように。
ベリアスは荒い息を吐きながら立ち上がるたびに、己の巨躯に刻まれていく「青い雷の傷跡」を、燃えるような金色の瞳で忌々しそうに見つめていた。
◆◆◆
何度も、何度も。ベリアスは全身を怒りの炎で包み、地獄の流星となって空中のベルへ突撃を繰り返した。
その度に、空中で耳を刺すような凄まじい撃突音が走り、地面へと容赦なく叩きつけられるのは決まってベリアスの方だった。
純粋な魔力の質量も、大気を焦がす破壊の規模も、圧倒的にベリアスが勝っている。普通なら一撃かすっただけで跡形もなく蒸発するような暴威だ。しかし、両者が触れ合う寸前、ベルはあえて己の肉体を差し出していた。
ベリアスの放つ灼熱の必殺剣に対し、ベルは最小限の身のこなしで心臓などの急所だけをギリギリでかわし、肩や脇腹を深い爪痕で切り裂かせているのだ。そして、ベリアスの刃が自身の肉を削ぎ、血が噴き出すその刹那――「肉を切らせて骨を断つ」絶妙のタイミングで、ベルの両腕に宿るバロールの魔瞳が怪しく輝く。
ベリアスの爆炎がベルの肉体に触れた瞬間に霧散し、まるで吸い込まれるようにその巨大な威力が無へと逃げていく。ベルは相手の威力を殺しながら、カウンターの「雷槍」をベリアスの急所へ的確に叩き込んでいたのだ。
「ぐ、ハッ……! 貴様……わざと打撃を受け止めて……ッ!?」
どれほど絶大な力を振るおうとも、自慢の炎は削られ、衝撃だけが何倍にもなって己の体へと跳ね返ってくる。それが何よりも気に食わないのか、地に叩きつけられたベリアスは屈辱と激怒に顔を歪ませ、巨大な拳を何度も石畳に叩きつけた。
「なぜだ! なぜ俺の剣が届かん! なぜ貴様ごときに、この俺が地を這わされねばならんのだぁッ!!」
ベリアスの怒りの咆哮と共に、激しい地震のような地響きが古代遺跡全体をガタガタと揺らした。取り囲む兵士たちは主君の収まらない逆鱗と、命を削りながら圧倒的な王を追い詰めていくベルの執念に、恐れおののいて震え上がるしかなかった。
舞い散る土煙と激しい熱風を切り裂き、ベルが静かに地上へと降り立ってきた。
見た目だけの損傷で言えば、ベルの方が圧倒的にボロボロだった。重厚な鎧はズタズタに砕け散り、全身の爪痕や焼き傷から赤黒い血が流れて石畳を濡らしている。正直、今この場に立っていること自体が信じられないほどの深手だ。対するベリアスは、豪快に地に叩きつけられたものの、衣服や甲冑が焦げている程度で致命的な傷を負っているようには見えない。
けれど――そこに漂っていたのは、あまりにも残酷なまでの「格」の差だった。
ボロボロの身体で、静かに相手を見下ろしていたのは、紛れもなくベルの方だったのだ。
「……お分かりになりましたか、ベリアス様」
ベルの声は枯れ果ててかすれていたけれど、どこまでも澄み切っていた。
「先代魔王様……あのお方であれば、俺のような迷える者の命を賭した剣など、一顧だにせず完璧に踏みにじり、圧倒してみせたはずだ。ですが……今の貴方の力は、ただの野蛮な『暴力』に過ぎない。そこに民を背負い導く覚悟も、己の暴威を律する王の器も存在しない。……今の貴方に、魔王の座はあまりに重すぎる」
地を這い、見上げるベリアスの金色の瞳から、溢れていた苛烈な戦意が急速に失われていくのを私は見た。
素人の私の目から見ても、身体的なダメージはベルの方が遥かに深い。けれど――魂の芯を叩き折られ、完全に敗北したのは、間違いなくベリアスの方だった。
二人の巨躯を包み込んでいた蒼と赤の気闘術、そして灼熱の赤蓮のオーラが、風に溶けるように霧散していく。
獣化の変身が解け、そこにはただの二人の青年の姿があった。
「……ベル……っ!」
私はいたたまれなくなり、思わず駆け寄ろうとして――ハッと息を呑み、足を止めた。
前を進むベルの背中を見つめたまま、声が出ない。
あんなに夜のように濃く漆黒だった彼の髪の毛が――今は透き通るような、息をのむほど綺麗な「純白」へと変わっていたのだ。
己の命の根源である魂そのものを、今の死闘の一撃一撃に全て注ぎ込んだ証。自らの存在を全て燃やし尽くしてまで、かつての絶対の主に「新時代の在り方」を命懸けで突きつけた代償。
白銀へと変貌した髪を乾いた風に靡かせながら、ベルは静かに、けれどどこか誇らしげに、膝を折ったかつての主であり親友を見つめていた。
◆◆◆
「はぁ〜……ッ! やめだ、やめだ! やっぱ俺には向いてねぇわ、こういうややこしいのは!」
重苦しく張り詰めていた静寂を破ったのは、ベリアスのあまりにも投げやりな叫びだった。彼は手にした愛剣レーヴァテインを石畳の上にガランと無造作に放り投げると、そのまま大の字になってコロシアムの真ん中に寝転がった。
「そもそも俺は、王なんて柄じゃねぇんだよ。現場の最前線で暴れて、敵をなぎ倒してる時が一番スッキリする。玉座なんぞに大人しく座ってふんぞり返るなんて、窮屈すぎて三日で死にそうだぜ!」
「ベリアス様……」
ベルが、私にはこれまで一度も見せたことがないような、心の底から愛おしむような穏やかな笑顔で彼を見つめていた。……なんだろう、この胸の奥がキュッと絞られるようなザワつきは。ほんの少しだけ、ベルのその見たこともない笑顔に嫉妬してしまったのは……絶対に内緒だ。
「……はぁーあ、わかったよ。俺はイシュタルの奴を魔王に据える。そのために邪魔な他の兄弟どもをぶっ飛ばして回る方が、よっぽど俺の性に合ってるわ」
ベリアスのその吹っ切れた言葉を聞いた瞬間、息を殺して見守っていた周囲の千の兵士たちの間から、ハァッと大きな安堵の溜息が漏れ聞こえた。もちろん、私もだ。一時はどうなることかと最悪の結末を覚悟していたけれど、この圧倒的な魔族たちの激闘は、まるで巨大な嵐が過ぎ去った後のような、不思議と爽やかな風を古代の遺跡に残していった。
「ベル、俺について来い。あの甘っちょろいイシュタルを魔王にするには、俺の腕力だけじゃ足りねぇ。……お前の知恵と力が必要だ」
ベリアスは石畳に寝そべったまま、長い右手をぐっとベルへと差し出した。かつて、冷たく暗い地下の檻の中で、行き場を失っていたベルに差し出されたあの時と同じように。
「ベリアス様。……いえ、俺はもう軍を引いた身。それに……」
ベルは一瞬だけ躊躇うように視線を落としたが、すぐに力強く顔を上げ、後ろで見守っていた私の方をまっすぐに見つめた。
「俺には、成し遂げなければならない目的があります。それに……やりたいことも、守りたいものも、新しくできたんです。だから……今はまだ、貴方と一緒に行くことはできません」
ベルはベリアスの手を取ると、ぐっと腕に力を込めて彼を豪快に引き起こした。差し出された手を取って従うのではなく、一人の対等な男として彼を「立ち上がらせる」ために。
「……マジかよ。あの冷酷無比な『処刑人』ベルゼルガが、こんなちんちくりんのガキに骨抜きにされたってのか? はぁ〜……信じらんねぇ」
呆れ果てたベリアスが盛大に鼻を鳴らし、立ち上がりながら不躾に私を指差した。
「おい、ガキ。こいつのこと、よろしく頼んだぞ。こう見えて手加減を知らねぇ不器用な奴なんだ」
「ガキじゃないわよ! 私はこれでもハーフットのちゃんとした成人女性なの!!」
私が精一杯の抗議を込めて両頬をプクッと膨らませると、ベリアスは「……は?」と凄まじい顔で固まった。
「ま、マジか……。おいベル、嘘だろ。お前、ハーフットのレディを荷物みたいに担ぎ上げて屋根の上を跳ね回ってたのか? それは……男としてねぇわ……」
「……あ、あの場は緊急事態だったので……」
「あはははは!」
そのどこかズレたやり取りに、今まで固まっていた兵士たちからも、ついに堪えきれなくなったような爆笑と笑い声が次々と漏れ出した。
白銀の髪へと変わったベルと、赤髪の炎の王子。そして、ぷんぷんと怒り心頭の小柄な私。
夕暮れの赤に染まり始めた古代のコロシアムに、なんとも奇妙で温かな空気が満ちていった。
ベルは自身の手にした雷槍リボルグを、名残惜しそうに、けれど潔い手つきでベリアスへと差し出した。
「ベリアス様。この槍をお返しします。これはもともと、貴方の……」
「いいや、そいつはお前がそのまま持っておけ。今さら返されても困るぜ、そいつはお前のものだ。……何より、今のその白い髪のお前には、その漆黒と雷光の槍が死ぬほどよく似合ってる」
ベリアスは悪戯っぽくニカッと笑うと、突き出された槍の穂先を親指で軽く押し戻した。
この雷槍リボルグは、もともとベルの初陣の夜、戦場の恐怖で震えていた彼を見かねたベリアスが「お守りだ」と言って貸し与えたものだったのだ。
「あの時、暗闇で槍を抱きしめてガタガタ泣いてた泣き虫ベルが、今や世界を揺らす『処刑人』だもんなぁ。ククッ、人生ってのは本当に面白ぇや」
「……ベリアス様。それは……その。できればレニーの前では一生伏せておいて欲しかったのですが……」
ベルが珍しく、顔をほんのり赤くしながら心底困ったように眉を下げた。
「ガハハ! すまんすまん! 『泣き虫ベル』の過去は極秘事項だったか!」
二人の間に流れる、二百年という途方もない年月を超えた幼馴染ならではの温かな空気。その特別な空気の端っこに、私はほんの少しだけ混ぜてもらったような、なんだか誇らしくて不思議な充足感を感じていた。
「よし、野郎ども撤収だ! これから『バカ兄貴たち』を一人残らず力任せにぶん殴りに行くぞ! 遅れるんじゃねぇぞッ!」
ベリアスが豪快に吼えると、千の精鋭兵たちが一斉に地を揺らすような歓声を上げた。先ほどまでの絶望を振りまく冷酷な王としての背中はどこへやら。今の彼は、まるで血気盛んな愚連隊のボスそのものに見えた。
「……あれが、ベリアス様の本当の素顔なんだ」
夕空へ去りゆく軍勢の背中を見送りながら、ベルが私に優しく語りかけてきた。けれど、私はそれどころじゃない。
「そんなこと感心しながら言ってる場合じゃないでしょ!!」
私はリュックから引っ張り出した高価な高級回復ポーションを、キャップを投げ捨てて次から次へとベルの痛々しい傷口に容赦なくぶっかけた。
「あんた、自分がどれだけボロボロか分かってるの!? 髪まで真っ白になっちゃって……本当に、よく生きてるわね!」
「……っ、冷たっ……!?」
きょとんとした顔で薬液まみれになったベルだったけれど、すぐに「ふふっ」と胸の奥から響くような声で笑った。
「大丈夫だ、安心しろ。俺はまだ死なない。レニー、君と交わした『約束』があるからな」
「当たり前よ! 私との雇用契約があるんだから、勝手に死んだら重度の契約違反よ! それに、この高級ポーションだってタダじゃないんだからね! 請求書、しっかり100倍にして書いておくんだから!」
「はは……おお、相変わらず商売には厳しいな、ボス」
「ガハハッ! すっかりちびっ子ボスの尻に敷かれてるじゃねぇか、ベル!」
遠ざかっていく大軍勢の真ん中から、ベリアスの愉快そうな大爆笑が風に乗って響いてきた。
殺伐とした死の気配も、二日酔いの重苦しい不快感も、夕暮れの心地よい風がすべて古代の遺跡の向こうへと押し流していった。
そう……世界はまだ不穏な予感に包まれているかもしれないけれど、私たちの「戦争」は、もうとっくに終わっているのだから。
◆◆◆
国境へと続く、見渡す限りの地平線を貫く最後の一本道。
ついに、私たちはここまで辿り着いた。
視界の先には、空を突くほど巨大で重厚な国境の門が聳え立っている。この門を潜れば、そこはもう魔王領ではない。私の故郷に近い、人間たちが暮らす温かな世界。
けれど、それは同時に――ベルとの雇用契約が終わり、彼との旅に終わりの時が来たことを意味していた。
一歩、また一歩と門が近づくにつれて、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛む。
最初はただ、腕の立つ用心棒を安く買い叩きたいという、浅ましい打算から始まったこの旅。けれど、あの凍える冬を共に過ごし、数々の命懸けの修羅場を乗り越えてきた今の私にとって、隣を歩く白銀の髪の男は、もう「雇われ用心棒」なんて冷たい言葉では到底収まりきらない、世界で一番大切な存在になっていた。
(行かないで。……私と、ずっと一緒にいて)
喉のすぐそこまで出かかった身勝手な言葉を、私は必死に唇を噛んで飲み込んだ。彼は「四天王」というあまりに重すぎた宿命の枷を、ようやく外したばかりなのだ。これからどこへ行って、どんな生き方をするのも彼の自由。私の一方的なわがままで、彼の新しく広がる翼を縛ってはいけない。
そんな私の必死の葛藤を察したのか、それとも彼自身もまた、その大きな胸の中に同じ想いを温めていたのだろうか。
立ち止まったベルが、ゆっくりとこちらを振り返り、静かに口を開いた。
「レニー。……俺を、門の『向こう』の世界へ連れていってくれないか」
「え……? いいの……? 私は国境まで送ってもらえれば十分っていう約束だったじゃない」
動揺と跳ね上がる心拍数を隠すために、私はわざと明るく笑ってみせた。けれど、そんな私を、ベルはどこまでも穏やかな、そして決して揺らぐことのない温かな眼差しで見つめ返してくる。
「ああ。俺はもっと、君が見せてくれる広い世界を知りたい。だが……俺には、もう暗闇で迷わないための『道標』が必要なんだ。……レニー。俺の道標になってくれないか。これまでも、そしてこれからも」
「ベル……っ」
その言葉のあまりの嬉しさに、目頭がじわりと熱くなり、視界が滲んでいく。溢れ出しそうな涙を悟られないよう、私は慌ててプイッと顔を背け、精一杯の強がりを声に込めた。
「……ま、まぁそうよね! ベルは冒険者としてはまだまだ半人前のひよっこなんだから! 私みたいなプロの商人がついててあげないと、またどこかで騒ぎを起こしかねないもの! それに、私の本当の目的地まではまだ道のりの半分よ? あんたには私を無事に送り届ける護衛の義務があるんだから、しっかり守りなさいよね! ポーション代の貸しだって、一銅貨だって負けてあげないんだから!」
「はは……手厳しいな、ボス」
私は「えいっ!」と、ありったけの強がりと愛おしさを込めて、ベルの大きな背中を拳でポカッと叩いた。
ハーフットの私のちっぽけな力なんて、魔族である彼には蚊が止まったほどにも感じないはずなのに、ベルは少しだけ大げさに「参ったな」というように肩をすくめてみせた。
「痛いな。……そうだな、俺はまだまだ半人前だ。これからもよろしく頼む、俺のボス」
「ええ! 私たちの商会兼パーティー――『エコーイングベルズ』の冒険は、まだ始まったばかりなんだから!」
二人の晴れやかな笑い声が、国境を渡る爽やかな春の風に乗って、遥か彼方へと響き渡っていく。
私たちは新しい未来への希望を胸に、しっかりと肩を並べ、光の射す門の向こう側へと足を踏み出した。
二人が踏み出した門の向こうには、どこまでも果てしない世界が広がっている。
魔族であるベルと、ハーフットであるレニー。
種族の壁を越えた二人には、避けることのできない「寿命の違い」という未来が待っている。
数十年後――歳の届かない見た目のままの魔族が、小さく年老いたハーフットの老婆に優しく寄り添いながら、どこかの静かな村で小さな道具屋を営んでいるかもしれない。
あるいは、最愛の相方を失い、再び生きる希望を見失った一匹の魔族が、ただ孤独に虚ろな戦場を駆け抜けているのかもしれない。
はたまた、長き時を生きる一人の冒険者として、世にも摩訶不思議な秘境を求めて旅を続けているのかもしれない。
けれど、それはずっと、ずっと先のお話。
二人の凸凹コンビが歩む長い物語にとって、今の旅などほんの序章にすぎないのだから。
塩の砂漠、炎の海、天を突く水晶の山脈――。
彼らがこれから刻む足跡が、数百年後に壮大な「英雄譚」として語り継がれるのか。
それとも、歴史の隙間に消えていく「ただの旅人の記憶」となるのか。
それはまだ、誰も知らない。
ただ確かなのは、果てなく広がる空の下、彼らの可能性は無限大に満ちているということだけだ。
「ねぇベル、あの形の雲はね――」
「なるほど。さすがはボスだ、雲の種類まで詳しいんだな」
青空へと溶けていく二人の温かな会話。
どこまでも続く一本道を、風を纏った白い髪と小さな足跡が、どこまでも、どこまでも重なって続いていっていた。




