第一話 残り物のふたり
勇者軍と魔王軍による、永きにわたる大戦。その終止符は、あまりにも唐突で、劇的なものだった。
最強の「勇者王」と、最凶の「魔王」。
二人の頂点が死闘の果てに相打ち、この世界から跡形もなく姿を消したのだ。
絶対的な支配者を失った魔王軍は、蜘蛛の子を散らすように瓦解した。対する勇者軍も大混乱に陥ったが、勝利の余韻が彼らを支え、復興への道はそう遠くないはずだ。
誰もが新しい時代の到来に胸を躍らせ、あるいは安堵の溜息を漏らす。
そんな激動の時代の「はざま」で、私はというと――。
「うっ、ぐ……く、苦しい……ッ!」
足が地面に届いていない。
喉元を締め上げる荒々しい拳と、むせ返るような鉄錆の臭い。
――絶体絶命。まさに今。
私の名前はレニー。今は亡き伝説の大商人の父アーグと、冒険者の母レーネの一人娘。
そんな両親も、この戦禍で亡くなってしまった。
せめて、二人の遺髪を祖国に埋葬しようと出国するために歩み出た。
ハーフット族特有の小柄な体と、両親から譲り受けた“自称”天才的な商才が自慢の女の子。
……なのだけれど。
その自慢の体は今、敗残兵の粗暴な男によって、まるでボロ雑巾のように振り回されていた。
「おいおい、見ろよ。こんなところにネズミが紛れ込んでやがるぜ」
眼前に並ぶのは、血の臭いを漂わせた魔王軍の残党兵。
私を見下ろす男の口端が、下卑た形に吊り上がった。
「ちょ、ちょっと! 乱暴はやめて、降ろしなさいよ!」
バタバタと短い足を動かしても、所詮はハーフットの力。虚しく宙を蹴るだけだ。
すると、横からもう一人の兵士がじろじろと私を覗き込んできた。
「……待てよ。こいつ、商人のハーフットじゃねぇか?」
「あぁ? あの、どっちの陣営にも入り込んで小銭を稼ぎ回る、業突張りの守銭奴どもか」
男の拳に、じわりと力がこもる。
「戦場をちょこまかと……。俺たちが命懸けで戦ってる横で、いい気なもんだな」
その言葉に、私の「商人魂」がピクリと反応してしまった。
「……っ、失礼ね! 私たちが命懸けで物資を運んであげなかったら、あなたたち、今頃お腹が空きすぎて剣も振れなかったはずでしょ?」
あ、しまった。
口は災いの元、商売の基本は「相手を立てる」ことだったのに!
「……なんだとぉ? このチビが、よくもぬかしやがったなァ!」
案の定、男の顔が怒りで真っ赤に染まった。
胸ぐらを締め上げる力がさらに強まり、肺の中の空気が無理やり押し出される。
視界が火花の散ったような白に染まり、思考が急速に遠のいていく。
(……あぁ、私、ここで終わり? お父さんとお母さんの後を、こんなところで追っちゃうの……?)
意識がぷつりと途切れかけた、その時。
「――その手を、離せ」
喧騒を切り裂くような、静謐でいて、心臓の奥まで響く低い声が届いた。
「ぐっ……!? が、はっ、痛えええええッ!」
喉元を締め付けていた万力のような力が、唐突に弾け飛んだ。
突如入り込んできた細身の兵士が、私を締め上げている倍もあるガタイの男の手首を強く握っていた。
男が悲鳴を上げて私を放り出し、私は無様に地面へと転がる。
「……子供をなぶって悦に浸るとは。魔王軍の誇りは、主と共に露と消えたか」
響いたのは、冷徹なまでに静かな声。
そこにいたのは、漆黒の髪を持つ一人の青年だった。着古した軍服姿だが、所属を示す紋章は見当たらない。ただ、彼が纏う空気だけが、周囲の敗残兵たちとは決定的に異なっていた。
「な、なんだテメェ……ッ! どこの部隊だ、ナメやがって!」
逆上した大男が殴りかかろうとした、その瞬間――。
「べ、ベル……ッ!?」
その大男が、恐怖に引き攣った声を上げた。
青年は表情一つ変えず、吸い込まれるような動作で手を伸ばすと、襲いかかってきた巨漢の顔面を正面から鷲掴みにした。
そのまま、丸太のような男の体を、片手一本で軽々と吊り上げる。
「ぎ、ぎぎ……っ、あ、が…………ッ!!」
骨がきしむ嫌な音が響く。それはもう、悲鳴にすらならない絶望の呻きだった。
「す、すみません! 悪気があったわけじゃ……ちょっと、その、からかっただけでっ! 許してください、命だけはぁぁ!」
さっきまで威張り散らしていた他の兵士たちが、蜘蛛の子を散らすように地面へ這いつくばった。額を泥に擦りつけ、必死に許しを請う。
無造作に手が離され、大男がズシンと物言わぬ肉塊のように地面へ落ちた。
辺りは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
「す、すまなかった、お嬢ちゃん……。俺たちも、その、気が立ってたんだ……」
毒気を抜かれた兵士たちは、青年の視線を恐れるように何度も頭を下げ、逃げるようにその場を去っていった。
嵐が去った後のような静けさの中、私は恐る恐る、助けてくれた青年の顔を見上げた。
(……誰、この人?)
ただの兵士じゃない。あの荒くれ者たちが名を聞いただけで震え上がるほどの存在。「ベル」……。もしかして、魔王軍の間では誰もが知る有名人なのだろうか。
何はともあれ、私が今こうして呼吸をしていられるのは、彼のおかげだった。
「すまなかった。うちの連中が、無体な真似を……。子供にまで手を出すなんて、兵士の風上にも置けないな」
青年は、心底申し訳なさそうに眉をひそめて謝罪した。その声には、先ほどまでの冷徹さとは打って変わった、誠実な響きがある。
(……一応、これでも成人してるんだけどな。ハーフットなめないでほしいわ)
心の中でちっちゃく毒づきながらも、私は愛想笑いでその場を収めることにした。
「いえ、助かりました。本当に、人生の帳簿がここで閉じちゃうかと思いましたよ」
そう言って彼を見上げた時、商人の娘としての「勘」が、私の視線を一点に釘付けにした。
煤けた鎧、しなやかに鍛え上げられた四肢。そこまでは「腕の立つ兵士」で説明がつく。
けれど、彼の背に負撃たれた「それ」は、明らかに周囲の空気から浮いていた。
「っ……その、槍……ッ!」
私は思わず、喉を鳴らした。
網膜に焼き付くような独特の造形、立ち上る微かな魔力の残り香。
「それ……もしかして、『雷槍 “リボルグ”』じゃない!?」
大商人のパパが「一生に一度拝めれば商売人冥利に尽きる」と語っていた、伝説級の魔槍。かつて雷雲を割り、戦場を光速で駆け抜けたという神話の遺物だ。
市場に出れば、小国の国家予算が数年分は吹き飛ぶ。そんなとんでもない代物が、今、目の前にある。
「ん? ああ、これのことか」
彼は戸惑ったように槍の柄に触れ、愛おしむような、どこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「遠く離れてしまった友人から借り受けた、大切な形見なんだ。……よく知っているな」
(……形見!? 冗談でしょ、そんなレベルの代物じゃないって!)
見た目とのギャップが凄まじい。この槍を「友人からの借り物」として無造作に背負い、それでいて槍の強大な魔力に呑まれることもなく平然と使いこなしている。
この男、ただの兵士じゃない。
私の商売人としての直感が、これまでにない激しさで警鐘を鳴らしていた。
「君は……こんな戦場跡で、どこへ向かおうとしていたんだ?」
彼が私を見下ろす瞳には、隠しきれない「保護欲」が滲んでいた。
……うん、相変わらず完全に子供扱いされている。
(ふふん、いいわよ。その『可哀想なチビっこ』フィルター、利用させてもらうわ!)
私は瞬時に「商談用(泣き落としモード)」の仮面を被り、眉を八の字に下げて見せた。
「はい……この混乱で逸れてしまって。なんとか故郷へ戻ろうとしていたんです。でも、見ての通りこの小さな体でしょう? 荒くれ者たちに絡まれてばかりで、ちっとも進めなくて……」
狙い通り、うるうるした私の瞳に彼の目が「放っておけない迷子を見る目」に変わる。
強い。伝説の槍を持っている。そして、お人好し。――これ以上の優良物件があるかしら!
「あの、もし……もしご迷惑でなければ。国境のあたりまで、私を護衛していただけませんか?」
「護衛、か」
彼は少しだけ意外そうに眉を上げた。数瞬の沈黙。私の心臓が「商談成立か否か」で跳ねる。
やがて、彼は小さく息を吐き、静かに頷いた。
「……分かった。安全な場所まで送り届けよう」
(――ビンゴ! 契約成立!)
内心で快哉を叫びながら、私は淑女のような所作で深く頭を下げた。
「ありがとうございます! 私はレニー・フロド。商人の娘です。……ええと、お名前は『ベル』さん、でしたっけ?」
その名を口にした瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
「古代語で『鈴』を意味する、とても響きのいいお名前ですね」
「……ベル。そうか。そうだ。俺は、ベルだ」
彼は自分に言い聞かせるようにその名をなぞり、ふっと視線を落とした。
「一介の兵卒……いや、今はただの元兵士だ」
差し出された彼の右手は、数多の死線を潜り抜けてきた男の、硬く武骨な手だった。
私はその手を、逃がさないと言わんばかりにしっかりと握り返す。
この握手が、のちに世界を揺るがし兼ねない運命の第一歩になるなんて――。
当時の私は、まだ「最高に割のいい護衛を雇えた」としか思っていなかったのだ。
◆◆◆
「少し、寄りたい場所がある」
ベルに促されるまま、私は彼に同行することにした。
辿り着いたのは、街の片隅にひっそりと佇む古びた道具屋だ。
(げっ……常設の店舗かぁ……)
正直、私たちのような流れの行商人にとって、街の店主は天敵に近い。余所者への警戒心、縄張り意識、そして何より「信用」という名の壁。
商売上の相性は最悪だけど、今は護衛の彼についていくしかない。
「ここは、不用品の買い取りもやっているだろうか」
ベルは至って淡々と、カウンターの奥に座る店主に問いかけた。
「んあ? ああ、価値のあるもんなら、二つ返事で引き取ってやるぜ」
店主の濁った瞳が、獲物を探すようにこちらをなめた。
「助かる」
ベルは事も無げにバッグを開くと、中からいくつかの品を無造作に、そう、まるで路傍の石ころでも置くかのような手つきでカウンターに並べた。
精緻な彫金が施された宝飾品、重厚な輝きを放つ純銀の食器、そして――見たこともない神聖な意匠が刻まれた、金細工の装飾品。
「これらを、引き取ってもらいたい」
「……ふむ。どれどれ」
店主は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに「カモが来た」と言わんばかりの下卑た笑みを口元に浮かべた。
「――まあ、まとめて『1ギル』ってとこかな。ガラクタ混じりだしよ」
※1ギル=日本円でいう10〜20万円ほどの価値がある魔石を含んだ金貨
「1ギルか。……分かった、頼む」
……え?
今、この男、なんて言った? ベルも、何に納得したの!?
「――ちょ、ちょおぉぉっと待ったあぁぁぁぁッッ!!!!!」
私は、考えるより先にカウンターへダイブしていた。
「ちょっとおじさん! 1ギルって、寝言は寝てから言いなさいよ! ぼったくりを通り越して強盗の領域よ、それ!」
「あ、あぁ!? なんだと、このガキ……っ」
驚愕に目を見開く店主の鼻先に、私は身を乗り出して銀食器を突きつけた。
「いい? この刻印をよく見て! これ、あの“ギルベール”の作品じゃない! 魔族の名工で、全盛期の作品は王宮の晩餐会に並ぶレベルよ!? 多少の傷はあるけど、保存状態は極上。これ一枚だけで、買い叩いたって5ギルは下らないわよ!」
ベルが隣できょとんと目を丸くしている。構うもんか、今は商売の時間よ!
「へっ……。だがな、今はあいにくの大戦後だ。相場ってのは暴落して――」
「相場を語るならこの魔石を見なさいよ! 希少な火属性の原石に、この緻密なカット……。古代様式のデザインと合わせれば、好事家が10ギル積んででも奪い合う代物よ!」
私の指先が、カウンターの品々を正確に、かつ情熱的に弾いていく。
「――これだけの至宝をまとめて1ギル? どこのブラック店舗かと思えば! 恥を知りなさい、この商人界の恥晒し!」
「こ、この……クソガキがぁっ!!」
図星を突かれ、顔を真っ赤にした店主が逆上して太い腕を振り上げた。
(しまった、つい言い過ぎた)
その拳が私に届く――そう確信した、次の瞬間。
ドッ……、と。
店内の空気が、文字通り「凍りついた」。
心臓を冷たい刃で直接撫でられたような、形容しがたい悪寒。
振り上げた店主の手は、空中で金縛りにあったように静止し、その顔面からはみるみるうちに血の気が引いていく。
ベルが、ただ静かに店主を見つめていた。
表情はない。声も出さない。けれど、彼の瞳の奥に揺らめくのは、数多の命を屠ってきた者だけが持つ――深淵の如き殺意。
蛇に睨まれた蛙どころじゃない。死神に鎌を突きつけられた亡者のように、店主はガタガタと歯の根を鳴らし始めた。
「ヒッ、ヒィィ……ッ!」
店主の喉から、ひきつけを起こしたような短い悲鳴が漏れた。
振り上げた拳は逃げ場を失い、あろうことか行き場を求めて――私の頭の上に、そっと、壊れ物に触れるような手つきで置かれた。
「お、お嬢ちゃん……す、すごい鑑定眼だなぁ……。いやぁ、おじちゃん、勉強になっちゃった……よぉ……」
そのまま私の頭を、ぷるぷると小刻みに震える手でポン、ポンと撫でる店主。
その顔面は土気色を通り越して真っ白。目は泳ぎ、額からは滝のような脂汗が流れ落ちている。
(うわぁ……。ベルの殺気、利きすぎておじさんの精神が壊れかけじゃない)
真後ろに立つベルからは、依然として「いつでも首を撥ねられる」と言わんばかりの重圧が放たれている。
私は内心で冷や汗を拭いながらも、商機を逃さないよう、極上の営業スマイルを店主に振りまいた。
「あら、分かっていただけて光栄です。おじさんもプロなら、こういう『時代の遺物』には相応の敬意(と金額)を払わなきゃ……ですよね?」
「も、もちろん、もちろんだともぉ! 1ギルなんて冗談だ、悪い冗談だったんだよぉ……!」
店主は震える手でカウンターの下から革袋を引っ張り出し、中身を確認することなく私の方へ突き出してきた。
◆◆◆
「――ここから先の交渉は、私に任せて」
私はそれだけ言い切ると、ベルの逞しい腕を強引に掴み、さっさと店の外へと押し出した。
「え……? 待ってくれ、レニー」
「いいから、いいから! ベルさんはお外で美味しい空気でも吸ってて!」
きょとんとしている彼を尻目に、私は店の重厚な扉をぴしゃりと閉める。
……だって、あのままじゃ交渉どころじゃない。おじさんの心臓が物理的に停止して、死体と取引する羽目になっちゃうもの。
くるりと店主の方へ振り返ると、彼は数分前より十歳は老け込んだような顔でカウンターに突っ伏していた。もはや威勢のいい商売人の影はなく、捕まった小動物のように肩を震わせている。
「す、すまなかったね、お嬢ちゃん。……というか、君のあの連れ、ありゃあ一体何者だい……?」
「ふふん、凄かったでしょ? さっき絡んできた兵士たちも、今の店主さんと同じ顔して逃げていったわよ」
私が得意げに肩をすくめると、店主は絞り出すような声で「やっぱりか……」と呟いた。
「あの名槍……そして、あの背格好……。どこかの英雄譚か、魔王軍の資料で見たような気がするんだが……」
店主が記憶の糸を解きかけた、その時。ピクッ、と彼の背中が大きく跳ねた。
今しがたベルが放った「死の気配」がフラッシュバックしたのだろう。店主の顔面が再び土気色に染まる。
「い、いや! 思い出さなくていい! 詮索は寿命を縮めるだけだ! 分かった、お嬢ちゃんの言い値で買おうじゃないか。さっきは本当に……本当に、悪気があったわけじゃないんだ!」
もはや主導権は完全に私の手中にあった。店主は、まるで神様に許しを請う信者のように何度も頭を下げてくる。
私は懐から算盤を取り出すような心持ちで、慈悲深い微笑みを浮かべてみせた。
「いいのよ、店主さん。混乱期だもの、足元を見たくなる気持ちも分からなくはないわ。でもね、商売っていうのは――お互いが『生きて』笑い合える、WIN-WINの関係じゃなきゃ」
「う、うむ……! WIN-WIN、大事! 命あっての物種だ、本当に大事っ!!」
店主は、まるで死刑判決が取り消された囚人のような顔で激しく頷き、震える手で金貨の袋を用意し始めた。
◆◆◆
「――ベルゼルガ様」
風の鳴るような、静謐な声が背後に落ちた。
いつの間にかベルの影に溶け込むように立っていたのは、漆黒の装束に身を包んだ「影」の者。
「四天王が二名、バルバスは第一王子に、フルグスは第二王子に付きました」
ベルの眉が、わずかに、だが鋭く動く。口元に手を添え、戦況を俯瞰するように短く思案を巡らせた。
「……姫のご様子は」
「王位継承の醜い争いからは距離を置かれ、現在は別邸にて静養中。おそらくは……未だ、心を決めかねておられるのでしょう」
ベルの瞳に、深い夜のような陰が差す。それはかつて共に戦場を駆けた者への情か、あるいは守りきれなかった何かへの悔恨か。
「そうか。ならばお前は、このまま姫の傍へ戻れ。……彼女を、護ってやってくれ」
影の者が、わずかに息を呑んだ気配がした。
「……御意。しかし、ベルゼルガ様。貴方様がいらっしゃらなければ、我ら影の寄る辺は――」
「俺はもう『ベル』だ。ただの元兵士だよ。今の俺に、もはや大義のために剣を振るう理由はない」
「……ベル様。それでも、第3王子が動けば再び火種は燻り、この国は、世界は再び戦火に――」
言葉を最後まで紡がせる前に、ベルは静かに首を振ってそれを遮った。
「四天王が割れ、王族が互いの喉元を狙う。……いずれ戦は戻るだろう。だが、それを止めるのは、もはや俺の役割ではない」
「……それでも、姫様は貴方様を」
「――だからこそ、お前に頼んでいる。彼女を……あの方を、頼んだぞ」
その声に込められた、拒絶しようのない重い決意。
影の者は、主の想いをその身に刻むように深く、深く一礼した。
「……承知いたしました。あのお方に、必ずや平穏を」
陽光が雲間から差し込んだ刹那、その姿は陽炎のように掻き消えた。
残されたベルは、ただ独り、どこまでも高く広がる空を仰ぐ。
戦場の砂塵も、血の臭いも、誰かの叫びも混じっていない。
誰のものでもない名もなき風が、過去を振り切るように彼の頬を撫でていった。
◆◆◆
「ベーーール! 見て見て、大・勝・利! 25ギルもぎ取ってきたわよ!」
私は勝ち誇ったような声を上げ、金貨の詰まった小袋をジャラジャラと鳴らしながら駆け寄った。
先ほどまでの暗雲を吹き飛ばすような私の勢いに、ベルは目を丸くして、呆然と袋を見つめている。
「……25? さっきの1ギルから、一体どうやったらそんな金額になるんだ。レニー、君は魔法使いか何かか?」
「ふふーん! 大商人の娘をなめないでよね。冒険者の旅商人にとって、言葉は剣より鋭い武器なの。物の価値を見抜き、相手の腹の内を読む。これこそが、乱世を生き抜く『戦術』なんだから!」
私が自慢げにふんぞり返って胸を張ると、ベルは参ったと言わんばかりに苦笑し、肩をすくめた。
「どうやら俺には、その方面の才能は欠片もないらしい。……今まで、命のやり取りしかしてこなかったからな」
ベルはふと視線を落とし、少しだけ気恥ずかしそうに、けれど真剣な眼差しで私を見つめた。
「……なあ、レニー。もしよかったら、俺に教えてくれないか。この『戦場以外の世界』での歩き方を。物の価値や、交渉のやり方……戦うこと以外に必要な、旅の知恵を」
まさかの弟子入り志願。私は一瞬きょとんとしてしまったけれど、すぐに顔をほころばせ、大きく頷いた。
「そっか。ベルはずっと、戦場という狭い世界で生きてきたんだね」
その生き方が、少しだけ――あまりにも不器用で、寂しいものに感じてしまったから。
「いいわよ! 国境までの護衛をしてもらうお礼に、私の『冒険者哲学』をぜーんぶ叩き込んであげる。これで、ね? お互いWIN-WINってやつよ!」
「WIN-WIN、か……」
ベルはその不慣れな言葉を、どこか愛おしむように呟いた。そして、憑き物が落ちたような柔らかな笑みを浮かべ、大きな手を差し出してきた。
「よろしく頼むよ、『師匠』」
「……っ、ふふっ、あはは! 何よそれ、似合わない!」
私は思わず吹き出し、差し出されたその手をしっかりと握り返した。
血を流すことしか知らなかった元・最強の兵士と、口先ひとつで世渡りする小さな冒険者の旅商人。
正反対な二人の、でこぼこで奇妙なコンビの旅が、今ここから始まるのだった。




