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ただそれだけ

 男が地面へと崩れ落ちる。

 そこに至ってもなお、周囲に声を発する者はいなかった。

 芳樹の突然の行動に周囲の理解が追いつかなかった為だろう。

 ひと時の沈黙。

 それはまるで稲妻の如き拳が時間の流れさえも断ち切った・・・そのようにさえ感じられた。

 そんな中、最初に口を開いたのは田鍋でもその手下でもなく、やはりこの期に及んでも勝手きままなこの男であった。


「・・・今の拳はよかった。狙いがもし俺だったのならよけることは叶わなかったでしょう。」


「下手な世辞はいらねぇよ。鉄さん。」


 打ち抜いた拳は芳樹にとって会心のものに近かった。

 しかし、正面から何の駆け引きも無しに打ったそれが鉄馬に本当に通じるかと言えば疑わしかった。

 よけることはできずともこの男であれば、なんらかの対処は講じてくる。

 いや、微動だにしなかった事実こそ、この男がこちらの狙いを最初から見切っていたという紛れもない証拠であろう。


 一筋縄じゃいかねぇ。


 悔しさ半分、奇妙な嬉しさ半分に芳樹は小さく笑いながらようやく拳をおさめる。

 拳をおさめた芳樹が改めて鉄馬と正対する。

 そこに至って、ようやく周囲の時が針を進めた。


「てめぇ!芳樹!どういうつもりだ。」


 いまだ事態を掴みきれぬまま怒声を上げたのは田鍋である。

 目の前で突如手下が同士討ちを始めたのだ。彼の反応は極めて妥当といえるだろう。


「悪いな田鍋の旦那。俺はやっぱ抜けさせてもらうわ。」


「あぁ?どういうこった。」


「盛り上げる為の八百長染みた試合まではまあ我慢できなくもなかったが、こういう地上げ屋染みたやり口はどうも気にいらねぇ・・・俺はボクサーであってあんたの手下でもなきゃ舎弟ってわけでもねぇからな。」


「ボクサーだ?何言ってやがる。試合ならちゃんと組んでやってんだ。それに何の文句がある。だいたい抜けるだと?この東京で俺のところを抜けてどこでボクサーがやれるってんだ?ええ?」


「さあね。思い切って西に行くか、それとも機会を待つか、それともあんたを見習って自分で興行を起こしてみるか・・・どちらにせよあんたの下に就くのは今日で終いだ。どうやらあんたの言う『ボクサー』と俺の『ボクサー』はまったく違うものらしいからな。」


「てめぇ、恩を仇で返す気か?」


「恩?やっすい金で試合を組まれて、それ以外はあんたの用心棒代わりにされたことがか?言っとくが『用心棒』としての俺を雇おうってんならちょいと御代が安すぎらぁ。」


 飄々と言葉を返す芳樹の様に田鍋の顔色が目に見えた赤く染まる。

 彼からすればまさしく「飼い犬に手を噛まれた」そういう気分なのだろう。

 それこそ彼が芳樹たちのことを『ボクサー』ではなく『手下』として見ていた紛れもない証拠だと言えるだろう。


「もういい!てめえら!いつまで寝てやがる。そこの裏切り者と用心棒野郎、まとめて包んでぶっ殺せ!」


 田鍋の怒声に周囲の手下たちが動きを見せる。

 が・・・彼らにはいささか戸惑いがあった。

 さっきまでの仲間に対する気遣い・・・ではない。単純な恐怖によるものだ。

 田鍋の言う用心棒野郎・・・鉄馬の存在だ。

 鉄馬が田鍋の取り巻きを一人で相手取り手玉にとって見せたのは記憶に新しい。

 多勢を頼みに死に物狂いでかかれば勝機はあるのかもしれないが、やはり先ほどの記憶が彼らにそれを行うことを躊躇わせる。

 勝てない勝負はやりたくない。これは彼らに限らず至極当然な人間の考えである。

 そうなると必然狙いは絞られる。

 よりくみし易い相手を。より勝ちの目がある相手を。

 気がつけば田鍋の手下たちは半円を描くように芳樹を囲んでいた。


「芳樹さん。」


「ああ、いいよ鉄さん。迷惑かけちまったみたいだからな。これ以上は俺がやらせてもらうさ。」


 そう言うと芳樹は歩を進め鉄馬から離れる。

 それを好機ととったか手下たちは更に芳樹の周囲を固める。

 しかし芳樹はそれを意に介さない。恐怖も緊張も見せぬまま歩み続ける。

 それがある距離まで達した時、芳樹の左右を陣取っていた二名がとうとう彼目掛け襲い掛かった。

 左の男は小兵ながらもその素早い動きで、右の男は大柄な身体を生かしたリーチと膂力で、それぞれ田鍋の興行では上位に入る実力者たちであった。

 その二人が一斉に襲い掛かる。

 左右からの挟みうち。

 いかに芳樹がボクサーとして優れていようとも同じボクサー二人からの同時攻撃には抗しようもない。

 抵抗むなしく袋叩きにあい、地べたを這う芳樹の姿。

 田鍋はもはやそれを既定の未来をして脳裏に浮かべていた。


 だが、現実は田鍋の予想をあっけなく裏切った。


 乾いた音が響く。

 同時に倒れ付す二人の男。

 いや、正確には同時ではない。小柄な男の方がほんの僅か(・・・・・・・・・・)に早かった。

 驚愕する男たち。

 手下の男の一人が倒れた男たちに眼を向け、驚きのまま再度芳樹へと目を向けた時、


 芳樹の姿はそこに無かっ・・・・・・


 三人目の男が沈む。

 ボディへの一撃が彼を生きながらにして地獄へと誘う。

 瞬く間に倒れた三人。

 その時、手下の男たちの混乱は極地へと達していた。


 混乱していたのは田鍋もまた同じであった。

 理解ができない。

 袋叩きどころの話ではなかった。


 何が起きている?


 いったい何が起こっている?


 自問したところで答えなどでない。

 ただ判るのは、一人、また一人と自分の手下が倒れ付し、地面を這っている。それだけだった。

 呆然とする田鍋に対し、まるで嫌味とも取れるほどに淡々とした声がかけられる。


「田鍋と言ったか。お前は一つ大きな間違いをした。」


 声の主は鉄馬であった。

 田鍋は鉄馬の方に顔を向けるが、鉄馬自身はそれにまるで構うことなく、やはり淡々と独り言のように言葉を続ける。


「もしお前が本当に金を儲けようと思ったのなら」


 一人の手下が倒れ付す。


「白井 芳樹という男に馴れ合い試合などさせるべきではなかった。」


 また一人、糸の切れた人形のように倒れる。


「地上げ屋の真似事などさせるべきではなかった。」


 更に一人、這い蹲り自身と地面に吐しゃ物をぶちまけている。


「当人の望むよう、『ボクサー』としてあの男を世間に出してやるべきだったのだ。」


 一人、また一人、更に一人・・・・・・


「なぜならあの男は世界を相手取っても十分に戦い抜けるだけの力を持っているからだ。少なくとも俺は用心棒『紫電』の芳樹より速い男を他には知らない。」


 それは果たして天を裂く雷からとったものか、それともかつて戦場を空を飛んだ戦闘機からとったものか。

 その由来は定かではない。

 確かなのは『紫電』こそ用心棒 拳闘屋 白井 芳樹の通り名であり、その通り名の意味するところは他の追随を許さぬ圧倒的なまでの『速さ』・・・その事実であった。


 運足フットワークが、拳が、体捌きが、判断が・・・・・・その全てが速い。

 少々の遅れなど覆してあまりある迅速無比の拳。

 千変万化の戦況を見定め、常に最適解を見出すいっそ無機質なまでの判断能力。

 それらが十全に振るわれたならば、もはや芳樹は周囲の人間と同じ世界にはいない。

 凡百の人間を置き去りにした高速の世界。

 彼はそこに君臨し、のろまな有象無象たちを真正面から一方的に殴殺することが可能なのだ。

 たとえ鉄馬でもこと『速さ』と言う点では大きく遅れをとる。技、読み、戦略、経験・・・その全てを活用することでようやく同じ舞台に立てるのだ。もし、芳樹と『速さ』でもって勝負をつけようとするならば、おそらく鉄馬であっても子供扱いは免れないであろう。

 ましてや田鍋の手下たちではなおのことであった。

 馴れ合い試合を良しとし、地上げ屋まがいの所業にも疑問すら感じず、鍛錬を怠り、『ボクサー』としての矜持が錆びきった彼らでは相手になろう筈もなかった。

 

 彼らは混乱しているが何も芳樹は特別なことなど何もしていない。

 最初の二人にしたところで、まず左拳でもって小柄な方の男を昏倒させ、返す刀で大柄な方の男を撃ちぬいた。


 ただそれだけ。


 そして二人を倒すや、すかさず次の男の死角へと移動した。

 

 ただそれだけ。

 

 ただそれだけである。

 ただそれだけであるが、その圧倒的な速力ゆえに彼らにはその『ただそれだけ』のことが理解できない。

 もし彼らがボクサーとしての矜持を忘れず、日々の鍛錬を怠っていなかったなら話はもう少し違ったかもしれない。しかし、怠惰に溺れた彼らの現実はまさにこの通りである。

 そしてこの光景こそが彼らと芳樹のボクサーとしての格の違いを示すなによりの証左と言えた。


 もはや彼らの運命は語るに及ばない。

 最初十人近くいた筈の男たちは全て倒れ伏し、もはや身動き一つとらない。

 夜闇にかすかに聞こえる呼吸の音だけが彼らの存命を示す唯一のものだった。


 芳樹は田鍋に向けて歩む。

 少し前まで怒気で染まっていた田鍋の顔はいまや蒼白であった。

 「飼い犬に手を噛まれる」などとんだ検討違い。

 飼い主気取りで使っていた男は犬どころか規格外の猛獣であった。

 彼とて昔はボクサーであった。たとえその動きは見ることができなくとも格の違いはいやでも理解できる。

 鈍りきった彼の腕・・・いや、彼が今この瞬間全盛期の力を取り戻したとしても到底相手にはならない。それがまざまざと理解できたのだ。

 ましてや手下すらも失った今の彼では抗す術などあろう筈もない。

 腰を抜かしてへたり込み、ひたすら必死に言葉を紡ぐ。


「ま、待ってくれ。悪かった。俺が悪かった。」


 芳樹は答えない。


「金は払う!この家を狙うのもやめる!だから・・・」


 もはや目前。

 必死に言葉を紡ぎながらも次の瞬間訪れるであろう衝撃に恐怖しきつく目を瞑る。


 衝撃。


 衝撃が田鍋の額に奔る。

 が、痛いには痛いが予想よりはあきらかに小さな衝撃に思わず目を開ける。

 眼前には芳樹の手。

 それは拳ではなく開かれ、中指がピンと上を向いている。

 おそらくは額を指で弾いた・・・デコピンであったのだろう。

 呆然とする田鍋に芳樹が声をかける。


「行きな。あんたの興行を否定する気はねぇ。だが今後はあんまりアコギな真似はやめとくんだな。てめぇのせいで『ボクサー』を格好悪いものにされちゃあたまらねぇからな。」


 はたしてその言葉はちゃんと田鍋の耳に入っていたのか。

 彼は芳樹の言葉が終わるや一目散に逃げ出したのだった。

 そしてその光景を見るや、意識を取り戻した手下たちも一人また一人と逃げ去っていく。


 そしてついに鉄馬と芳樹を含めた三人だけがその場に取り残された。


「よかったんですか。」


 鉄馬が問う。

 芳樹の立場からすれば騙され良いように使われていたと言えなくもない。

 それなのにそのまま逃がしてよかったのかと問うたのだ。


「いいさ。入ったのは俺の意思だ。そこを恨むのは筋違いだ。それにまあ一時とはいえ夢を見させてもらったのは事実だからな。」


 芳樹は肩をすくめ少し笑いつつ答える。

 その笑みは鉄馬がよく知る人懐っこさを含んだ彼本来の笑みであった。


「そうですか。ならば結構です。」


「それよりこっちこそ迷惑かけちまったな。すまねぇ。」


「いいえ。それも筋違いです。先ほど言ったように今日の俺は押し売りと八つ当たりに来ただけですので。」


 鉄馬は相も変らぬ仏頂面。

 しかし、それこそが友人の常の表情であることを芳樹は知っていた。


「そうかい?」


「そうです。」


「ならいいや。じゃあそろそろ帰るとするか。」


「ええ。」


 少し前に殴り合いまでした二人の男。

 その二人がいまや肩を並べて帰っていく。

 片や笑みを浮かべ。

 片や仏頂面で。

 しかし、彼らが纏う空気は殴りあったことなどなかったかのように穏やかなものであった。


 この日、一人の男が怒りをぶつけ、それによって一人の男が自分の生き方を見つめ直した。

 こう表現すれば至極重要な日であったように感じられる。

 しかし事実を簡潔に述べるならば、


 男たちが自分の友人を取り戻した

 

 ただそれだけの日だったのかもしれない。




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