第1話 見覚えのある世界
最初に思ったのは、ここはどこだ、だった。
次に思ったのは、どうして俺はこんなところにいるんだ、だった。
「……意味が分からん」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は立ち上がった。
周囲には木が生い茂っている。見渡す限りの森だった。地面には背の低い草が広がり、その間から湿った黒い土が覗いている。頭上では枝葉が重なり、その隙間から差し込んだ陽光がところどころ地面を照らしていた。
少なくとも、俺がさっきまでいた場所ではない。
そこまでは分かる。
問題は、なぜこんな場所にいるのかだ。
俺は直前まで自宅にいた。仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませ、いつものようにパソコンの前に座っていた。
起動していたのは、何年も遊んでいるMMORPG。
特別珍しいことをしていたわけでもない。日課を片付け、倉庫を整理し、明日にでも続きをやろうと思っていた。
そこから先の記憶がない。
「寝落ち……なわけないよな」
仮に寝落ちしたとして、目が覚めたら森の中というのはおかしい。
誰かに運ばれた可能性も一瞬考えたが、それも現実的ではない。そもそも俺を眠っている間に森まで運ぶような知り合いはいないし、そんな悪質な悪戯をする理由もない。
スマートフォンを探そうとして、そこでようやく自分の格好がおかしいことに気づいた。
「……なんだ、これ」
着ていたのは部屋着ではなかった。
革を中心に作られた軽装。腰には短剣。背中には小さな鞄まである。
見覚えがある。
ありすぎる。
「いやいやいや」
嫌な予感がした。
というより、あまりにも馬鹿馬鹿しい予感だった。
俺は腰の短剣を抜いてみた。
軽い。刃は鈍い鉄色で、柄には黒い革が巻かれている。
これも知っている。
「初心者用ショートソード……?」
ゲーム開始直後に支給される装備だ。
名前こそショートソードだが、見た目はほとんど大振りの短剣に近い。性能も最低クラスで、少し進めればすぐに店売り装備へ交換する程度のものだった。
もちろん、似ているだけかもしれない。
現実の武器について詳しいわけではないし、単なる短剣を見てゲームのアイテムだと思い込んでいる可能性もある。
だが、服装まで含めると偶然にしては出来すぎている。
「まさかな……」
俺は周囲を見回した。
森。
木々。
草。
そして少し離れたところに、青い花が咲いている。
そこで足が止まった。
「ブルーフラワー?」
ゲームでは最序盤から採取できる薬草素材だ。
正式名称はもう少し長かったはずだが、プレイヤーの間では単にブルーフラワーと呼ばれていた。序盤の回復薬を作るために使う、ごくありふれた素材である。
近づいてしゃがみ込む。
青い花弁が五枚。葉は細長く、茎には小さな白い斑点がある。
ゲームのグラフィックとは当然違う。目の前にあるものはどう見ても本物の植物で、風に揺れれば葉が擦れ、触れば柔らかな感触が指先に伝わってくる。
それでも特徴は一致していた。
「……似てるな」
摘んでみる。
何か表示が出ることを少し期待したが、空中にアイテム名が浮かんだりはしなかった。
普通の植物だ。
いや、普通なのかどうかも分からない。
俺は青い花を鞄へ入れ、森を歩き始めた。
ここに留まっていても仕方がない。人を探すにしても、まずは森を抜ける必要がある。
歩きながら、頭の中で状況を整理する。
知らない森に突然いる。
服装はゲーム開始時の装備によく似ている。
ゲームに登場する植物と酷似したものまで生えている。
これだけなら、まだ偶然で説明できなくもない。
俺自身、ゲームをやりすぎている自覚はあった。長く遊んだゲームだから、現実の植物を見ても似たものを連想してしまうのかもしれない。
そう思いながら十分ほど歩いたところで、今度こそ俺は立ち止まった。
「……これも?」
木の根元に、小さな赤い実がなっていた。
赤というより朱色に近い。表面には黒い筋が一本入っている。
ゲーム内では毒消しの材料になるレッドベリー。
さらに少し先には、回復薬の素材になる緑色の草。
その向こうには、序盤のクエストで納品を要求される黄色いキノコ。
「ちょっと待て」
偶然にしては多すぎる。
俺は周囲を改めて見た。
そう意識した瞬間、森そのものにも既視感があることに気づいた。
木の種類ではない。
地形だ。
正面には緩やかな下り坂があり、右側は岩壁になっている。左へ進むと少し開けた場所に出るはずだ。
その先には小川がある。
さらに小川に沿って北へ進めば、古い石橋がある。
「……いや、そんなわけないだろ」
思わず笑った。
さすがにそこまで一致するはずがない。
だが、確認しないままでは気持ちが悪い。
俺は左へ進んだ。
数分後、森が途切れた。
目の前には小さな草原が広がっていた。
「あるじゃん」
草原の端を、小川が流れている。
嫌な予感が、急速に現実味を帯び始めた。
俺は小川へ近づいた。
水は驚くほど澄んでいる。底の小石まで見えるほどだった。流れは緩やかで、幅は三メートルほど。
ゲームでは、この川には名前すらなかった。
ただの背景だ。
プレイヤーは何の感慨もなく飛び越えたり、水の中を走ったりしていた。
しかし目の前の川には流れがあり、水音があり、小さな魚まで泳いでいる。
俺はしゃがみ込み、水に触れた。
冷たい。
「……本物だよな」
当然の感想だった。
ゲームなら、こんな感触はない。
俺が遊んでいたのは普通のパソコン用MMORPGだ。フルダイブ型のVRゲームでも何でもない。
水を掬って匂いを確認する。
変な臭いはしない。
少し迷ってから口に含むと、ごく普通の水だった。
「夢にしてはリアルすぎるしな」
頬をつねるような真似はしなかった。
これだけ感覚が明瞭なら、夢かどうかを確認する意味もない。仮に夢だとしても、自分で覚められない以上は現実と同じように対処するしかない。
問題は、ここがどこなのかだ。
俺は小川に沿って歩き始めた。
頭の中には、ゲームのマップが浮かんでいる。
もし俺の予想が正しいなら、この先に石橋がある。
その石橋はかなり特徴的だった。
昔、この地域を治めていた領主が造ったという設定で、橋の中央に狼を模した石像が二体置かれている。
ゲームでは単なるランドマークだった。
あれまで存在するなら、さすがに偶然では済まない。
十分ほど歩いた。
木々の向こうに灰色のものが見えた。
「……マジか」
石橋だった。
古びた橋が、小川をまたぐように架かっている。
そして橋の中央には二体の石像。
狼。
俺はしばらくその場から動けなかった。
形まで覚えている。
右側の狼は口を開き、左側の狼は閉じている。
ゲームを始めたばかりの頃、何か仕掛けがあるのではないかと疑って散々調べた場所だ。結局、何もなかった。
近づいて石像へ触れる。
ざらついた石の感触。
長い年月のせいか、ところどころ苔まで生えている。
「ここ……アルネの森か?」
ゲーム序盤に訪れる地域の一つ。
王都からかなり離れた地方で、初心者向けの魔物が多く出現する。
もしそうなら、橋を渡って街道へ出れば、その先に小さな町がある。
だが、まだ確信するのは早い。
似た世界という可能性もある。
俺は橋を渡った。
そこで、草むらから音がした。
反射的に短剣へ手を伸ばす。
何かが飛び出してきた。
「うおっ!」
緑色の小さな生き物だった。
身長は俺の腰にも届かない。痩せた人間のような体型をしているが、耳は長く尖り、手には粗末な木の棒を持っている。
見間違えるはずがない。
「ゴブリン……」
ゲーム序盤の定番モンスター。
弱い。
少なくとも、ゲームでは。
だが、画面越しに見るのと実際に目の前にいるのとでは、まるで違った。
臭い。
汚い。
そして何より、生きている。
ゴブリンが奇声を上げながら棒を振り上げた。
「ちょ、待て!」
待つわけがない。
俺は慌てて横へ避けた。
棒が地面を叩く。
思ったより遅い。
というより、避けられたことに自分自身が驚いた。
ゲームなら最弱クラスの敵だ。しかし現実にこんなものと戦った経験などない。
怖くないわけではなかった。
それでも身体は妙に動いた。
もう一度振られた棒を避け、その勢いのまま短剣を突き出す。
刃がゴブリンの胸に入った。
嫌な感触が手に伝わる。
「……っ!」
反射的に手を離しそうになった。
ゴブリンが悲鳴を上げ、俺から離れる。
胸から赤い血が流れていた。
ゲームのようにHPバーが表示されるわけでもない。
俺は一瞬迷った。
だが、ゴブリンは逃げなかった。
再び棒を構える。
「……仕方ないか」
俺は短剣を握り直した。
二度目は、最初より冷静に動けた。
攻撃を避け、首元を狙う。
ゴブリンが倒れた。
しばらく待ったが、起き上がらない。
「……死んだ、よな」
近づいて確認する。
呼吸はない。
当然ながら、死体が光になって消えることもなかった。
「そういうところはゲームじゃないのかよ」
少しだけ安心した。
いや、安心するところではないかもしれない。
だが、目の前の世界が完全にゲームそのものではないことは分かった。
少なくとも、敵を倒したら死体が消えてアイテムだけ残るような世界ではないらしい。
俺は短剣についた血を草で拭った。
手が少し震えていた。
初めて生き物を殺した。
相手が人間ではないとはいえ、気分がいいものではない。
「これ、慣れたくはないな……」
できれば戦闘そのものを避けたい。
もっとも、この世界が本当にあのゲームと同じなら、そんなことを言っている場合ではないだろう。
魔物はいる。
盗賊もいる。
戦争もある。
そしてゲーム後半には、ゴブリンなど比較にもならない化け物が大量に出てくる。
俺は立ち上がった。
まだ確認したいことがある。
ここが本当にアルネの森なら、この橋からそう遠くない場所に、ゲーム序盤では少し有名だった隠しアイテムがある。
攻略サイトにも載っていたが、普通に進めていればまず見つからない場所だ。
橋から南西へ。
街道を外れて森へ入る。
倒れた大木。
その先にある岩壁。
岩壁に沿って進むと、蔦に隠された小さな洞窟がある。
その奥に古びた宝箱。
中身は序盤としてはかなり優秀な指輪だった。
ゲームを何周もした俺なら、場所は覚えている。
「……行ってみるか」
もし何もなければ、それでいい。
似た世界だったというだけだ。
だが、もし本当にそこにあるなら。
地形だけではない。
植物だけでもない。
魔物だけでもない。
ゲームで隠されていたアイテムまで同じ場所に存在するなら、話は変わる。
俺は短剣を鞘へ戻した。
そして、記憶の中にあるルートを頼りに森へ入っていく。
この時点ではまだ、半信半疑だった。
ただ一つだけ確かなことがある。
もし俺の予想が当たっているなら――。
俺は、この世界について現地の人間より遥かに多くのことを知っている。




