第1章 北の城下町
慶応四年、秋の松前。
黒い鞘の古刀「潮断ち」を持つ若侍・黒瀬迅之介は、港で奇妙な木箱と黒い水の跡を目にする。
そして夜、海の向こうから聞こえてきたのは、二十年前に消えた父の声だった。
その夜、黒瀬迅之介は、二十年前に海で消えた父の声を聞いた。
声は、松前の海の向こうから来た。
だが、その日の朝、城下はまだ何も知らなかった。
松前の秋は、海の色から変わる。
夏の青は遠く退き、津軽海峡には鉛を溶かしたような光が沈む。
朝の港には潮と魚の匂いが満ち、干し場に並んだ昆布が風に鳴り、坂の上では松前城の白壁が薄い陽を受けていた。
慶応四年。
戦の噂は、津軽海峡を越えて松前にも届いていた。
米は高くなり、港には火薬の匂いが混じり、酒場では見慣れぬ男たちが声を潜める。
新しい世が来るのか、古い世が残るのか。
城下の者に分かるはずもなかった。
それでも昼の港には、人の熱があった。
大きな帆をたたんだ北前船が波を割って近づくと、港の者たちは一斉に動き出した。
水夫が綱を投げ、荷揚げ人足が肩を入れ、商人たちが帳面を片手に声を張る。
昆布、干し鮑、鰊粕、反物、酒樽。
船腹から降ろされる荷は、城下に冬を越す力を運んでくる。
そのざわめきを、坂の途中から見下ろしている若侍がいた。
黒瀬迅之介。
二十を少し越えたばかりの、松前藩の下級武士だった。
城勤めの合間に町廻りも担う。
背は高く、顔にはまだ若さが残る。
静かな目をしているが、笑うことだけは昔から下手だった。
腰には一本の刀がある。
黒い鞘の古刀。
名を、潮断ちという。
父が海へ消えた日から、その名は迅之介にとって、誇りであると同時に棘でもあった。
父を尊敬していた。
だからこそ、何も告げずに自分だけを置いていったことが、どうしても許せなかった。
迅之介は港を見ながら、鞘に指を添えた。
今朝から、刀が重い。
重さが増したわけではない。
腰にあるだけで、海の底から引かれているような感覚があった。
「黒瀬様」
背後から声がした。
町役の老人が小走りに近づいてくる。
手にした紙束が、風にあおられて震えていた。
「港で揉め事です。積み荷を巡って、蔵元と船方が言い合いに」
「船は」
「宝寿丸です」
宝寿丸。
迅之介は港へ目を戻した。
船頭は源蔵という。
荒れる日には誰より早く帆を下ろし、凪の日には誰より遠くを見た。
無愛想だが、嘘の少ない男だった。
「源蔵が揉めているのか」
「ええ。珍しく、声を荒らげております」
迅之介は坂を下りた。
港へ近づくほど、匂いが濃くなる。
潮、魚、濡れた木、馬の汗、そして火薬。
人の声にまぎれて、金具の鳴る音が聞こえた。
港の端には、旅装の男が数人立っていた。
藩士ではない。
商人にも見えない。
その中に、腰へ短筒を差した白髪の男が一人いた。
群れから少し離れ、荷揚げの様子を冷めた目で見ている。
迅之介と目が合った。
男は軽く顎を引き、すぐ視線を外した。
挨拶とも挑発とも取れぬ仕草だった。
宝寿丸のそばでは、源蔵が太い腕を組んで立っていた。
日に焼けた肌は、潮風に削られた古木のようだった。
「源蔵」
迅之介が呼ぶと、源蔵は横目を向けた。
「黒瀬の若様か」
「揉めていると聞いた」
「揉めているんじゃねえ。押しつけられている」
源蔵は顎で船腹の方を示した。
荷の間に、小さな木箱があった。
人ひとりで抱えられるほどの大きさで、縄が厳重に巻かれている。
箱は古びているのに、縄だけが妙に新しい。
「誰の荷だ」
「城下の商人が預けてきた。大坂まで運べと」
「中身は」
「聞くなと言われた」
源蔵の目が細くなる。
「おかしな話だろう。聞かずに運べる荷なんざ、海にはねえ」
迅之介は木箱へ近づいた。
箱の板目は黒ずんでいた。
濡れているわけではない。
焦げているわけでもない。
木目の奥に、墨を吸わせたような暗さがある。
潮断ちが、鞘の中でかすかに鳴った。
ちり、と。
耳ではなく、骨に触れる音だった。
迅之介は足を止める。
「今の音、聞いたか」
源蔵が眉をひそめた。
「音?」
周りの者は誰も気づいていない。
人足は荷を担ぎ、商人は帳面をめくり、水夫は綱を巻いている。
迅之介は箱に手を伸ばしかけた。
「触れるな」
源蔵が言った。
「そいつは、触らねえ方がいい」
「なら、積むな」
「積ませるなと言った。だが、城下の蔵にも置くなと上から言われている。船に戻せ。明朝出せ。そういう話だ」
「上とは誰だ」
源蔵は答えなかった。
代わりに、蔵の陰へ目を向ける。
上等な羽織を着た商人が一人、そこに立っていた。
口元には薄い笑みがある。
男が袖を直した瞬間、左の手首に黒い印が見えた。
丸にも、波にも、目にも見える。
迅之介が見た時には、もう袖の中へ隠れていた。
「名は」
「鴻池屋と名乗っていた」
「名乗っていた?」
「あれは名じゃねえ。隠れ蓑だ」
源蔵は苦く吐き捨てた。
その時、港の奥で子どもの泣き声がした。
荷車の脇で、小さな女の子が海を指さしている。
母親が慌てて手を引いた。
「見ちゃいけません」
女の子は泣きながら言った。
「海に人がいる」
迅之介は海を見た。
人の姿はない。
波が揺れているだけだった。
それでも、船と船の間を黒い水の筋が走った。
潮の流れとは逆に、港の奥から外海へ、細く伸びていく。
その先に、古い鳥居の立つ浜があった。
「源蔵。今夜、船を離れるな」
「若様も、あの鳥居には近づくな」
源蔵の目は、海ではなく迅之介の腰を見ていた。
「その刀、今日だけは抜くな」
「なぜだ」
「分からん」
源蔵は顔をしかめる。
「分からんが、海が見ている」
夕刻。
魚屋が戸板をしまい、酒場には灯が入り、寺町の鐘が低く鳴った。
港のにぎわいは薄れ、北前船の帆柱だけが暮れ残りの空を細く切っている。
迅之介はもう一度、蔵の陰を見た。
鴻池屋と名乗った男は消えていた。
そこには黒い水の跡だけが残っていた。
雨も降っていないのに、土の上に細く、蛇のように。
迅之介は屋敷へ戻った。
黒瀬家の屋敷は、城下の外れにある。
武家屋敷と呼ぶには小さく、庭の石灯籠にも苔が深い。
父がいなくなってから、家は静かになった。
父は二十年前、海で消えた。
死んだと言われれば、まだ諦めることもできたのかもしれない。
だが父は、死んだとも、生きているとも告げず、ただ海の向こうへ消えた。
迅之介の中では、会いたいという思いと、帰ってきても自分は何を言えばいいのかという問いが、二十年経っても解けないままでいた。
最後に残したのは、黒い水を見たという言葉だけだった。
誰も信じなかった。
海難として片づけられ、やがて母も病で逝った。
家に残ったのは、迅之介と、この刀だけだった。
潮断ち。
父が持って消えたはずの刀。
なぜ刀だけが戻ったのか、今も分からない。
迅之介は畳に座り、刀を前に置いた。
鞘は沈黙している。
昼間の震えが嘘のようだった。
「……また、海か」
その声は、部屋の暗がりへ吸われて消えた。
夜が落ちた。
松前の町から、人の声が消えていく。
代わりに、海の音が濃くなった。
波が遠くで砕けるたび、屋敷の障子がわずかに震える。
迅之介は眠れなかった。
源蔵の言葉が耳に残っている。
海が見ている。
ふいに、犬が吠えた。
一匹ではない。
城下のあちこちで、犬が一斉に吠え始めた。
続いて、港の方角から小さな悲鳴が上がる。
迅之介は立ち上がった。
潮断ちが鳴った。
鞘の中で刃が震え、低い音を発する。
まるで海の底から引きずるような音だった。
障子の向こうが、紫に光った。
迅之介は戸を開ける。
港の空が黒く染まっていた。
火が上がっている。
赤い火ではない。
紫を帯びた黒い炎が、海の上で揺れていた。
宝寿丸のある方角だった。
拍子木の音が乱れる。
火事を知らせる声が、途中で途切れた。
坂道の下から、誰かが転ぶように走ってくる。
若い水夫だった。
昼間、源蔵のそばにいた男である。
顔は泥と涙で汚れ、片方の草履は失われていた。
息を吸うたび、喉が壊れたような音を立てている。
「黒瀬様……」
水夫は門前で崩れ落ちた。
迅之介は駆け寄る。
「何があった」
「海が……」
「源蔵は」
水夫は答えようとして、声を詰まらせた。
その手には、小さな守り袋が握られていた。
濡れている。
海水ではない。
黒い水が、布の目に染み込んでいた。
迅之介が受け取ると、中から錆びた刀の鍔が転がり出た。
月明かりに、家紋が浮かぶ。
黒瀬家の紋だった。
迅之介の息が止まる。
「どこで、これを」
「巫女様が……源蔵船頭から……」
水夫は震える指で港の外れを指した。
「あの鳥居の下で、祠が開いて……海の向こうに、門が……」
迅之介の手の中で、錆びた鍔が冷たく鳴った。
同時に、潮断ちが鞘の中で震えた。
遠くの海から、声が聞こえた。
――かえせ。
水夫は耳をふさいだ。
迅之介だけは動かなかった。
その声の奥に、別の声が混じっていた。
聞き間違えるはずがない。
二十年前に海で消えた、父の声だった。
胸の奥で、何かがひび割れた。
会いたかった。
だが同じだけ、問い詰めたかった。
なぜ母を残した。
なぜ自分を残した。
なぜ、刀だけを帰した。
迅之介は潮断ちを掴んだ。
黒い刀は、まだ抜いてもいないのに、夜の底で濡れたように光っていた。
その光が、畳の隙間を照らす。
迅之介は眉をひそめた。
床板の下から、古い紙の端がのぞいている。
引き出すと、それは潮に焼けた海図だった。
松前の港、鳥居の浜、沖の岩礁。
そのすべてが、細かい筆致で書き込まれている。
父の字だった。
そして、鳥居の下にだけ、黒い墨で一つの文字がある。
門。
その瞬間、海から聞こえた父の声が、もう一度だけ低く響いた。
――来るな。
第1章をお読みいただきありがとうございます。
慶応四年、秋の松前。
黒瀬迅之介と、黒い鞘の古刀「潮断ち」。
そして、海の向こうに開く黒い門。
ここから物語が本格的に動き出します。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




