プロローグ
幕末の松前を舞台にした、和風歴史バトルファンタジーです。
すべての異変の始まりとなる、北の海辺の夜から物語は始まります。
慶応四年の秋、松前の海は、夜になると人の名を呼ぶようになった。
北前船「宝寿丸」の船頭、源蔵は、その声を最初に聞いた者のひとりだった。海辺の鳥居の下、風は止まっていた。波も静かだった。だが、足もとの砂だけが、呼吸するように黒く濡れていた。
源蔵は懐に入れた小さな木箱を握りしめた。箱の中には、松前藩の古い鍔が入っている。黒瀬家の紋が刻まれた鍔。二十年前、海で消えた男が、最後に船倉へ残していったものだ。
「返さねばならん」
源蔵はそうつぶやき、鳥居の向こうに立つ少女を見た。白銀の髪。白い小袖。赤い袴。神代白羽は、祠の前で弓を抱き、夜の海を見つめていた。
その瞬間、海面が裂けた。
波ではない。闇そのものが、縦に割れた。割れ目の向こうには、海より深い黒があった。そこから、いくつもの手のようなものが伸び、源蔵の足首をつかんだ。
「黒い門が、戻ってくる」
白羽の声は震えていなかった。だが、その瞳は、源蔵が見たどの海よりも悲しかった。
源蔵は木箱を投げた。白羽はそれを受け止めた。次の瞬間、黒い水が源蔵の腰まで這い上がる。声が聞こえた。置いていくな。帰してくれ。お前だけが陸へ上がるのか。
源蔵は答えなかった。答えれば、海に名を奪われると知っていた。
遠く、松前城下の一角で、若き藩士・黒瀬迅之介は眠りから跳ね起きた。床の間に置かれた古刀「潮断ち」が、抜いてもいないのに低く鳴っていた。
まるで、海の底から誰かが刃を叩いているようだった。
夜明け前、白羽は濡れた砂の上に膝をつき、木箱を開いた。黒瀬家の鍔は、淡く紫黒い光を帯びていた。
祠の奥で、古い石板がひび割れる。
松前の海は静かに見えた。
だがその奥で、黒い門は、確かに目を覚ましていた。
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次回、若き松前藩士・黒瀬迅之介が、黒い水の跡を追います。




