【日本昔ばなしクロスオーバー】昔話が語らなかった「なぜ」の終着点
おいてけ、おいてけ〜欲に憑かれた男は七夕の夜に堀に沈みました〜
天の川が高く昇る夜、錦糸堀は別の顔を持つ。
風が止み、虫も鳴かなくなる。水面だけが夜空を映して静まり返り、岸辺の笹がどういうわけか、風のないのに葉先を揺らす。
村の古老たちは口をそろえて言った。
今夜だけはあの堀に近づくなと。
天と地の境が薄くなる七夕の夜に、欲に目が眩んで足を踏み入れた者は、必ず置いてけぼりを食らうと。
魚屋の男は、それを笑っていた。
男は村でも並ぶ者のない強欲さで知られていた。
魚の目利きこそ天下一品であったが、その才を仲間のために振るうことは決してない。
経験の浅い漁師を言葉巧みに言いくるめては、獲物を安値で買い叩き、私腹を肥やすことだけに心血を注いでいたのだ。
家へ戻れば、内職の針仕事で目を腫らしている妻を罵倒する。彼女が日々の食事を削って貯めた僅かな銭を奪い取っては、翌朝には酒場と博打場で霧散させた。
妻の口数が減り、影のように静かになってからも、男の横暴が止むことはなかった。
沈黙を肯定と履き違え、悦に入っていたのである。
その七夕の夜、男は妻が笹の枝に結んだ小さな祈りに、露ほども気づいていなかった。
震える指先で綴られた一枚の短冊。
そこには夫への呪詛ではなく、
ただ「もう終わりにしてください」という切実な幕引きの願いが記されていた。
それは、天への純粋な祈りであったのか、あるいは絶望の果ての訣別であったのか、書いた本人にさえ分からなかった。
男は妻の背中も短冊も見ずに、禁足地へ向かった。
祭りで村人が岸を離れた今夜こそ、堀の主を独り占めにする好機だと、それだけを考えながら。
夜の錦糸堀は静かだった。
水面が夜空を鏡のように映していて、男はしばらく自分が地面に立っているのか空の上にいるのか分からなかった。
しかし美しいとは思わなかった。あの光の粒を掬い上げて宝石として売り飛ばせば、どれほどの財を成せるだろうかと、暗い欲望の計算に没頭するのみであった。
糸を垂らすと、すぐに重い手応えがあった。
引き上げた籠の中で跳ねていたのは、鱗が星砂のように輝く、見たことのない魚だった。
男の喉から、声にならない歓喜が漏れた。これさえあれば、と思った。
そして、頭を叩き潰そうと拳を上げた、その瞬間だった。
どこからとも知れない、低く湿った声が聞こえた。
――おいてけ。
男は冷笑を浮かべた。
「どこの馬鹿だか知らねえが、せっかくの獲物を渡すはずがなかろう」と吐き捨て、籠を強く抱え直した。
――おいてけ。
「黙れ、これは俺のものだ!」
男は立ち上がり、逃げるように背を向けた。
しかし、足は確かに地面を蹴っているはずなのに、景色が一向に背後へ流れていかない。
一歩踏み出すたびに、水面に映る星々が足元で嘲笑うように揺れるばかりで、対岸との距離は不気味に保たれたままである。
やがて笹の細い葉が、生き物のような執拗さで男の袖や足首に絡みつき、逃走を許さぬ檻となって彼を縛り上げた。
男は知る由もなかったが、錦糸堀は村人たちの情念を飲み込み続ける記憶の器であった。
短冊に託された祈りが雨に溶け、笹から零れ落ちた糸が泥に沈み、何十年分もの悲喜こもごもが沈殿して澱となっていたのだ。
そこへ、妻の「終わりにしたい」という願いが風に吹かれて舞い落ちた。
水はその切実な波動を正確に受け取り、男のこれまでの所業を清算するための引き金として、静かに牙を剥いたのである。
不意に、籠の中の魚が、視界を灼くほどの閃光を放った。
光は人の形になり、星砂の鱗を持つ女の姿になった。
彼女の瞳は夜空に輝く織女星そのものであり、そこには男への怒りも、憐れみすらも存在しない。
ただ、そこにあるべき天理を執行するだけの無機質な光が宿っていた。
男は女の腕を掴み、狂気じみた形相で叫んだ。
「離さない、俺のものだ」と。
女は抗うこともなく、ただ静かに男を見つめ返した。
ただ、男が握れば握るほど、光は指の間に染み込んでいった。手の甲が白くなり、腕が白くなり、それでも男は手を離さなかった。
離せなかったのではない。離さなかった。
手放すということが、この男にはどうしてもできなかった。
それが男の、生涯変わらなかった性だった。
――おいてけ。
最後の一声は、もはや外からではなく、男自身の喉の奥から響き渡った。
男が水面に倒れ込むとき、堀は一度だけ大きく揺れた。
やがて波紋は消え、水面は元の静けさを取り戻した。
翌朝、堀のほとりには主を失った着物と、中身の空っぽな籠だけが寂しく取り残されていた。
村人たちは「欲をかきすぎた魚屋が、ついに置いてけぼりに遭った」と噂し合ったが、その真相を深く探ろうとする者は誰一人としていなかった。
禁足地を穢した者への、至極妥当な報いであると皆が理解していたからである。
魚屋の家では、妻が夜明けの光の中で静かに座っていた。
ふと枕元に目をやると、夫に奪われ続けたはずの銭が、星屑のような淡い輝きを放ちながら、一文の狂いもなく揃って戻っていた。
彼女はそれを見つめたまま、ただ一度だけ深く息を吐き、涙を流すことさえしなかった。
それ以来、七夕の夜になると、錦糸堀の水底に動かない光が一つ沈んでいると言われるようになった。
男は最後まで手を離さなかった。それこそが彼を水底へ縛り付け、永遠に星を支える重石へと変えた唯一の理由である。
罰は天から降ってきたのではなく、彼が握りしめ続けた業そのものが、彼自身を飲み込んだのであった。
錦糸堀は今夜も、何も語らぬまま、七夕の星を映している。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
七夕の物語を綴るには少しばかり時期外れではありますが、人の欲と業というものは、暦に関係なく静かに底に積もっていくものだと思っています。
執着という名の重石を抱えて沈まぬよう、皆様もどうぞ、夜道と欲にはお気をつけて。
他の作品もお楽しみいただけると嬉しいです。




