禁欲生活
小雪はスマホの画面をぼんやり見つめて、小さくため息をこぼす。
「ついこの間まで、みんな同じ学校に通っていたのに……離ればなれになっちゃって寂しいわ」
「ま、こればっかりは仕方ないって」
出会いもあれば別れもある。しごく当然の道理だが、できたばかりの友達たちと離れるのは小雪にとって慣れないことらしい。
しょぼくれる小雪の頭をぽんぽんしつつ、直哉は笑いかける。
「永遠に会えなくなるわけじゃないんだしさ。そのかわり、あいつらと会えるときは思いっきり楽しもうな」
「ふん、当然よ。女子旅もしっかり企画中なんだから!」
小雪は気丈に意気込みつつ、真剣な顔でスマホを睨む。
「それで今度、朔夜もこっちに遊びに来たいって言ってるんだけど……どこを案内したらいいと思う?」
「うーん、この辺りはただの住宅街だしなあ。ちょっと先の市街地なら、遊べるところもあるんじゃないか?」
「あっちの方かー……まだ二、三回しか行ってないから何があるのか分からないのよね。偵察したいから、今度付き合ってくれる?」
「もちろん。かわいい義妹のためだからな」
直哉はどんっと胸を叩いてみせた。
環境はがらっと変わったが、自分たちの関係は相変わらずだ。
◇
こうして次の休みの予定を立てて、夕飯を一緒に作って食べた。
夜になって小雪を家まで送っていったあと。
『で……?』
直哉のスマホのスピーカーから、地の底から響くような不気味な声が聞こえてくる。
怪奇現象ではない。巽から久々に電話がかかってきたのだ。
簡単な近況を聞いて、こちらもお返しに話をした。
その反応がこれだった。
巽は盛大なため息をこぼしてから、ぐちぐちとくだを巻く。
『その新婚めいたウキウキライフを俺に聞かせて何がしたいんだ? 嫌味か? あぁ?』
「いやその……ごめん」
直哉はもごもごと口ごもってから、素直に謝罪した。
たしかに遠距離恋愛中の友人に聞かせる内容ではなかったと反省したのだ。
(でもなあ……近況なんかどう喋ったところで、全部もれなく惚気になるんだよな)
また顰蹙を買うのが分かっていたので、それは口に出さなかった。
小雪は勉強に忙しいので、毎日デートしているわけでもない。
それでも毎日のように会ってご飯を食べているので、自慢に聞こえるのも不思議ではなかった。
その意見に直哉は何の異論もない。実際、かなり恵まれているとは感じている。
しかしだからといって、不満がないわけでもないのだが。
『かーっ、おまえは幸せ者だよなあ。高校からの彼女と同じ大学に進学して、近所に住んで、半同棲生活を送って……って。どう考えても勝ち組じゃねーか! ……うん?』
通話口の向こうでますます巽はヒートアップしていく。
しかしそこでふと言葉が途切れた。
重大な事実に気付いてしまったとばかりのその反応に、直哉は眉をひそめる。
「何が言いたいかは分かるけど、一応聞いとくぞ。なんだよ」
『いや……その』
巽はごくりと喉を鳴らす。
彼にしては珍しく慎重な声色で、恐る恐る続けることには――。
『つまりおまえたちって、もうオトナの階段を上ってたりして?』
「してません」
それを直哉はきっぱりと否定した。
オトナの階段――つまり、キスの先に待つあれやこれやだ。
いい雰囲気になりかけたことは何度もあるが、そんな経験は一度もない。もちろんこちらに引っ越して新生活が始まってからも、それは変わっていなかった。
小雪とはどこまでも高校時代の関係が続いているのだ。
そんなことを簡潔に告げると、巽は完全に言葉を失ってしまった。音声のみの通話なので顔は見えないが、さぞかしあんぐり口を開けて固まっているのだろうと分かる。
それでも巽はおずおずと尋ねてくる。
『え、おまえ性欲ってものがないのか……? 病院に行った方がいいんじゃねえの?』
「失礼だな。なんでそうなるんだよ」
『逆になんで手を出さないんだよ』
巽は盛大なため息を吐いてまくし立てる。
『親元を離れて半同棲……絶対に邪魔されない最強の環境に彼女を連れ込めるってのに、これで手を出さない方がおかしいだろうが!』
「おまえはそう言うけどな。まだ学生だし、何かあったら責任を取れないだろ」
直哉は毅然としてノーを突きつけた。
小雪はすっかり無防備で、おまけに今の季節は夏。
薄着のため、少し動くだけで普段は見えない脇だったり、お腹だったりがちらりと見える。
さらに小雪は「ちょっと寒くなってきたかも」と言ってクーラーのリモコンに手を伸ばすことなく、甘えて直哉の方に身を寄せてきたりもする。
誘惑に次ぐ誘惑。
そうなってくると当然、もっと先まで進んでみたいという欲求がむくむくとと湧き上がってくる。しかしそれを直哉は鉄の意志で押し止めていた。
「小雪は勉強を頑張らなきゃいけない時期だろ。邪魔になりたくないんだよ」
『いやあ、それはちょっと考えすぎじゃね……? そこまで思い詰めなくても別に――』
「あと、実家に帰ったときに親父に勘付かれるのが死ぬほど嫌だ」
『ああ……それはさすがに同情するな』
否定しかけた巽だが、途端に納得モードに入った。
直哉の父、法介は相変わらず国内外を飛び回る生活を送っている。
だからと言って大学生活の四年間で顔を合わせない保証はどこにもなく……万が一にも小雪に手を出して、それを察されてしまったら。
そのときの生温かい反応を想像するだけで、直哉は胃に穴が空きそうだった。
ため息をこぼしつつ決意を口にする。
「そういうわけだから、大学在学中は小雪に手を出さない。っつーか出せない。そういうのは就職が決まってからか、結婚後だな」
『つまり最低四年間は禁欲の生殺し状態ってことか……全然羨ましくないな』
巽はドン引きの様子でぼやく。
それでも先ほどと比べてずいぶん声が明るくなっていた。『遠距離の俺たちのがまだ健全じゃね?』と思い至って心に余裕が生まれたらしい。
そのまま巽は揶揄するように低く笑う。
『でもそれ、おまえの意志次第だろ? もし白金さんに迫られでもしたら……あっさり理性崩壊ってならないか?』
「ないない。だって小雪だぞ? 迫ってきてもグダグダになるだけだって」
他人の交際具合を聞いたりして『なんで手を出してこないのかしら、このひと……』と不安になる可能性は大いにある。
だがしかし、誘惑しようとしても小雪のこと。
きっと途中で恥ずかしくなって怒り出すに違いなかった。
直哉はそれまで耐えればいいだけの話である。
「それで、そのときはそのときできっちり説明するよ。大事にしたいから手は出さないって」
『はあ、どこまでも縛りプレイで行く気なんだな』
巽は呆れたように唸る。
ぽりぽり頭をかいて、純粋な疑問とばかりに口に出すのは――。
『果たしてそううまくいくのかね? こういうのはアクシデントが付きものだろ』
「おまえなあ……全力で楽しんでるだろ」
『当たり前じゃねーか。そのためにわざわざ電話したんだからな』
直哉のツッコミに、巽はせせら笑うばかりだった。
友人が苦しみ悶える様が愉快で堪らないという野次馬根性がひしひしと感じられた。
環境が変わっても悪友は相変わらずらしい。
その変わらなさにイラッとしたような、安堵したような。
複雑な思いで直哉はため息をこぼす。
「ったく、暇なやつめ。そろそろ切っても……うん?」
そこで直哉はふと顔を上げ、カーテンを引いた窓を見やった。
このあたりは住宅街でコンビニも少し離れた場所にある。そのため、夜にもなるとかなり静かだ。通る人もまばらで、滅多に物音もしない。
しかしたった今、聞き慣れた足音がした。
『ああ? どうかしたか?』
「いや、アパートの表で小雪の足音がしたんだよ。ちょっと見てくる」
『聞き分けられるのかよ……武道の達人か、おまえ』
若干引いたような巽は放置して、直哉は急いで玄関へ向かう。
鍵を開けて、ドアを開こうとしたその瞬間。
「直哉くううううん!」
「うわっ!?」
ドアを蹴破るようにして、涙目の小雪が転がり込んできた。
予想していたので無事に受け止めることができたものの、小雪は昼間よりも薄着だ。身に纏うのはタンクトップとハーフパンツ、おまけにノーブラである。
そんな恋人と密着して、平常心を保てる男などいるはずがない。直哉は息もできず、真っ赤な顔で凍り付くばかりだ。外気以上に、小雪の体が熱く感じた。
スピーカーから、巽が膝を打つ音が聞こえてくる。
『おっ、言ったそばから夜這いか? そんじゃお幸せになー』
「ちょっ……違う!」
抗議の声を上げるが、相手は宣言通りに電話を切ってしまう。
人の気も知らないで……と苛立つが、おかげですこし平静を取り戻すことができた。
ひとまず小雪を部屋に入れて、直哉はその顔をそっと覗き込む。
「ま、待て小雪。落ち着けって」
「だ、だってぇ……出たの! 出たんだから……!」
「はあ……」
小雪はしゃくり上げながら、懸命に訴えかけてくる。
それに直哉は生返事をするしかなかった。何しろたった今、展開が読めたので。
ますます落ち着き払う直哉に反し、小雪は真っ青な顔で叫ぶ。
「私の部屋に、おばけが出たのよぉ!」
続きは明日更新。