ふたりきりの新生活
じわっとした熱気に包まれたその日、昼からの授業が突然の休講となった。
他に用事もなかったし、バイトも今日は休みだ。そのため直哉はまっすぐ自宅へと戻った。
大学から十分ほど歩けばなんの変哲もない住宅街にたどり着き、やがて三階建てのアパートが見えてくる。建物の築年数はそれなりで、外壁は日に焼けてくすんでいる。
ワンルームの学生用アパートだ。
手狭ではあるものの家賃も安いしスーパーも近いしで、わりかし掘り出し物の物件だった。このあたりは静かな環境だし、ますます言うことがない。
「ただ、めちゃくちゃ暑いんだよなあ……」
直哉はがっくりと肩を落としつつ、アスファルトの階段を上がる。
実家から特急で二時間という隣県だが、こちらは盆地のせいか湿気と熱気が段違いに感じられた。大学から歩いてきただけでTシャツは汗でぐっしょり濡れている。
自分の部屋の鍵を開けて、直哉はひと声かける。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
ひとり暮らしの虚しい独り言。
それに、当たり前のように返事がかえってきた。
部屋の間取りは玄関を開けてすぐ右手に小さめのキッチン。左手にバストイレ。そこからまっすぐ進めば扉があって、それを開けば居住スペースとなっている。
直哉は靴を脱いで中扉を開く。
すると、六畳ほどの小さな部屋が出迎えてくれた。
家具はベッドにテレビ、こたつ机。あとは小さなカラーボックスくらいのものだ。カーテンやラグは量販店のものだし、面白みのない光景である。
ただしクーラーが全力稼働中で、灼熱地獄のような屋外と比べれば天国のようだった。
おまけにもうひとつ、部屋をぱっと明るくしてくれる存在がいた。
小雪である。
「何よ、授業があるんじゃなかったの?」
机に向かいつつ、家主であるはずの直哉へと鋭い視線を向けてくる。
夏らしくホットパンツにシャツというラフな格好で、髪をひとつにまとめてアップにしていた。すらりと伸びた手足とうなじの白さがまぶしい。
思わず直哉はごくりと喉を鳴らしてしまう。
そんなことにも気付かずに、小雪はちくちくとお小言を続けた。
「入学してまだ三ヶ月しか経っていないのにもうサボり? 単位を落としても面倒を見てあげないんだからね」
「違うって。次の授業が休講になったんだよ」
「あら、そうだったの?」
小雪は少しばかり目を丸くして、肩をすくめてみせる。
「だったら災難ね、せっかく大学に行ったのに」
「まったくだ。とりあえず汗だくだし、着替えてくるよ」
「はいはい。ああ、さっき買い物してきたから。冷蔵庫の中身を見ておいて」
「助かるよ。お金は――」
「このくらい出させてちょうだい。クーラーも使わせてもらってるしね」
ひらりと手を振って、小雪はシャーペンを手に取る。
こたつ机の上には本とノートが広げられていた。どうやら真面目に勉強中だったらしい。
本に視線を落としつつ、小雪はこともなげに言う。
「麦茶も冷やしておいたから飲みなさいよね。熱中症になるわよ」
「……ありがと」
直哉はそれに素直にうなずいた。
キッチン側に移動して、冷蔵庫を開く。
出ていく前にはほとんどすっからかんだったその中には、野菜や肉などが詰め込まれていた。
おまけに流しを見れば、ピカピカになった皿が水切りに立てかけられていた。昼にふたりで焼きそばを食べて、直哉は授業があるからとそれを放置して出たはずだった。
はー……と大きく息を吐き、直哉はぽつりとこぼす。
「ほぼほぼ同棲なんだよなあ……」
「何か言ったー?」
「いいや何にも。夜も食ってくか?」
「いいわね。カレーでも作ってあげましょうか?」
小雪は机からそっと顔を上げ、ふんわりと笑った。
高校三年の一年間はあっという間に過ぎ去った。
朔夜と話したとおり、直哉たちは夏あたりから受験勉強に精を出すこととなり、本試験までめまぐるしい日々を送った。毎日毎日勉強に次ぐ勉強で、そのくせ勉強すればするほど力不足を痛感して不安に胃を痛めることになったりと……ともかくいろいろ大変だった。
それでもその結果、小雪は志望大学にトップ合格。
直哉はなんとか滑り込みで、同じ大学に合格することができた。
まさに大勝利と言っても過言でない成果とともに、高校を卒業したのがつい先日。
そこから引っ越しと大学入学などでバタバタして……春から夏に季節が移ろう今ごろになって、ようやくこの生活に慣れてきたのだった。
着替えてから直哉はどさっと小雪の正面に腰を落とす。
ボトルからふたり分のグラスに麦茶を注ぎつつ、改めて部屋を見回す。
「小雪のマンション近くって条件で探したけど、やっぱりちょっと手狭かなあ」
「いやいや、広ければいいってものじゃないわよ」
小雪は本を広げたまま、ため息をこぼしてみせる。
彼女が住むのは、ここの窓からも見えるような大きなマンションだ。
もちろんオートロックで防犯対策はバッチリ。
女子大生のひとり暮らしには安全安心ということで、ハワードが激推ししたらしい。直哉の住むワンルームと違って1LDKだし、風呂トイレ別。収納も大きくて日当たりも最高ときた。
それなのに小雪は不満を露わに、口を尖らせるのだ。
「私の部屋は妙に広くて落ち着かないのよね。ここくらいがちょうどいいわ」
「ま、クーラーがすぐ冷えるのはありがたいけどさ」
ひとり暮らしの経験があった直哉はともかくとして、こちらでの生活を始めた当初、小雪はかなりいっぱいいっぱいだった。新しい環境と家事と勉強と……パンクしかけた小雪に、直哉はいろいろな気晴らしを持ちかけた。
一緒に食事を取ったり、近隣をぶらっと散歩してみたり。
そうやってまったり過ごす内に小雪も新生活に慣れて、だんだんとここに入り浸るようになったのだ。
直哉が小雪の部屋を訪れることもあるが、ここで過ごす時間の方が圧倒的に長い。
小雪の言葉通り、適度な狭さが落ち着くようだ。
実際、今も自宅レベルにくつろいでいる。麦茶をちびちび飲みながら足をぱたぱたさせる様は、大学生女子というより幼女だ。
和む直哉をよそに、小雪はスマホを取り出して操作する。
「そういえば今度の夏休み、結衣ちゃんたちも実家に戻るんですって。日程を決めて、みんなで集まろうかって話になってるんだけど」
「ああ、そんな機会でもないと滅多に会えないしな」
結衣は県外の大学に、巽は県内の大学へとそれぞれ進学することになった。
いわゆる遠距離恋愛だ。
自然消滅の可能性もある極めて危険な道ではあるが、あのふたりには何の障害にもならないらしい。小雪はいたずらっぽく笑い、声をひそめてコソコソと言う。
「知ってる? あのふたり、今でも毎日電話してラブラブみたいよ」
「だろうな。ま、あいつらなら問題ないよ」
それに直哉はあっさりとうなずく。
卒業したら即、同棲するだろうと見ている。
恵美佳は少し遠い大学に進学することになった。
奇遇にもその獣医学部に竜太が合格したので、今後もふたりはじわじわと距離を縮めることだろう。
そしてアーサーとクレアは母国に帰っていった。
アーサーが夏の間にあちらの大学に合格したので、クレアがそれをまた追いかけていった形になる。それでも彼らは『いつかまた日本に戻ってくるからな!』と宣言していた。努力家でまっすぐなふたりのこと、そう遠くない未来に実現するはずだ。
こうして高校時代の同級生は、みなそれぞれの道を進み始めたのだった。
続きは明日更新。