忘れられない海
弁当を綺麗に食べきって、それからふたりは浜辺を少し歩くことにした。
まだ電車の時間まで余裕があったからだ。
夏の日差しが照りつけて浜辺の砂はキラキラと輝き、潮騒の音だけが響く。電車の中からは犬の散歩をしている人が見えていたが、今はふたりの他に誰もいなかった。
静かな浜辺を貸し切りということもあってか、小雪のテンションは非常に高い。
「わあ! 見て見て、カニさん! カニさんがいるわ!」
「うん、そうだな、カニさんだな」
浜辺をちょこちょこ歩くカニを見つけて、小雪は声を弾ませる。
磯の生き物を見つけたり、貝殻を拾ったり、遠くの方に見える船に手を振ってみたり。
遊泳禁止だし、それほど大きな時間はないしで、ささやかな浜遊びしかできないが……そうしたささやかな積み重ねが、胸にじーんとしみた。
(いいなあ、こういうの……やっぱ、思い切って別行動してよかったかも)
小雪が売店に向かったとき、もちろん直哉はその意図に気付いていた。
団体行動から外れることを叱るべきだったし、みんなが心配することも分かっていた。
それでも直哉は小雪の誘いに乗ったのだ。
(その分、ちゃーんと無事に到着しないとなあ……親父と約束したし)
それが、見逃す条件に法介と約束したことだった。目線だけで契約を交わすくらいわけはない。
直哉がそんなことを考えているとも知らず、小雪はカニが砂にもぐったのを見届けて、沖合をぼんやりと眺めて言う。
「毎年夏はね、うちは家族四人で旅行するのが習慣なの」
「ああ、小雪の家は仲いいもんなあ。やっぱり海が多い?」
「そうね。国内の海もよく行くけど、イギリスのおじいちゃん家も海が近いの。だから夏の思い出って言ったら、ほとんどが海なのよ。クルーズ船に乗ったり、海辺でココナッツのジュースを飲んだり……」
「さ、さすがはお嬢様だな……」
そういえば、それなりに大きな貿易会社社長のご令嬢だった。
当人の庶民感覚が強いのですっかり忘れていた。
これまでの夏を過ごした海と比べれば、こんな寂れた砂浜など退屈だろう。
しかし小雪は薄くはにかんで、直哉の顔を見つめてくる。
「でも……こういう何にもない海っていうのも、悪くないかもね」
「『人生最高の海』だって?」
「は、はあ? 言ってないでしょ、そんなこと。まあ、庶民の直哉くんにはお似合いかもしれないけど」
小雪はつーんと澄まして言う。
いつもの照れ隠しだ。直哉が苦笑していると、小雪はごにょごにょと続ける。
「で、でも……直哉くんがこういう海が好きって言うのなら、付き合ってあげるわ」
伺うようにこちらを見て、真剣な顔で小雪は言う。
「また来年も、その次も……私を海に連れて来てくれる?」
「も、もちろん」
その大胆な告白に、直哉はぎこちなくうなずくことしかできなかった。
相手の心が読めたり、色んな事が先読みできたとしても、ドキドキするのはどうしようもない。
そのままふたりの会話は途切れ、ただ隣り合って沖合を見つめ続けた。
だがそれは決して気まずい時間ではなく……たしかに心が通い合っているのを感じた。
「う、うん?」
そんな甘酸っぱい思いに浸っていて、ふと直哉は空を見上げる。
そこでさーっと顔から血の気が引いていく。
「ま、マズい……!」
「マズいって何が……? 電車はまだ余裕でしょ」
「違うんだって! 急がなくっちゃ……」
「きゃっ、な、なに!?」
小雪の手を掴んで、スーツケースを置いてあるコンクリートの小道までひた走る。
その背中に、むくむくと育った雲から、いくつかの雨粒が落ちてきて――あっという間に足下が見えなくなるほどの大雨が降り出した。
「夕立だ!」
「きゃーーー!」
こうしてふたりは濡れ鼠になりながら駅までダッシュした。
これはこれで、悪くない思い出になったという。
続きは明日更新します。
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