海を掴んだ瞬間
黎が莉亜の描いた漫画を初めて読んだのは、大学一年の文化祭だった。
その時、黎は映画研究部に所属していて、映画の評論をテーマごとにまとめた冊子を売っていた。
店の場所はメインストリートからかなり外れた奥まったエリア。
園芸部の鉢植えで賑わうエリアのさらに奥で、文化系のサークルが勝手にまとめられていた。
ただでさえほとんど客が来ないというのに店番の時間はちょうど昼時で。客はほとんどが飲食店と園芸部に取られて暇を持て余し、黎はスマホに落とした映画を観ていた。当時、映画観賞は食事くらいに生きていくのに必要なものだった。
流して観るにはちょうどいい、古いヒーローものだったと思う。ヒロインがあまり可愛くないなと頭の中で毒づいていたとき、頭上から柔らかい声が降ってきて驚いた。
「あの、よかったら交換して読みませんか?」
小柄で、可愛らしい子だった。小花柄のワンピースがとても似合っていた。
黎は一見するととてもとっつきにくいらしく、映画を観ている時などは特にひどいらしい。つまり女子になど話しかけられたことがほとんどなく、かなり動揺した。
「いいですけど……」
と答えた後に、テーブルの上に並べられているのがオリジナルの同人誌やグッズだと知り、隣のブースが漫研だとはじめて気付いた。
彼女が漫画を描いているようには見えなかったので驚いた。高校までは漫画を描いているのは、隠キャなどと呼ばれるタイプが多かったのだ。
だから客引きかと思って失礼にも聞いた。
「店番?」
「いえ、わたしが描いたんです……けど」
彼女は苦笑いをした。どこか慣れている反応だった。
「なんでおれ?」
「さっきこれ読ませてもらったんです。もしかしたらあなたが書いたのかなって思って」
彼女は黎の書いた評論を掲げた。買って読んでくれていたようだった。
それが存外に嬉しかったのもあって、代わりに黎は彼女の描いた漫画を読んだ。
正直にいうと、絵もストーリー構成も結構酷かったのだけれど遠慮して当たり障りのない感想を言った。だがそれはすぐにお世辞だとバレた。
「率直な感想の方が嬉しい、かなあ」
苦笑いを浮かべた彼女の目は真剣だった。だから黎は居住まいをただし、ダメ出しをした。いつも映画にするのと同じように、率直に、だけど作品への愛を持って。すると彼女はひどく喜んで、
「また読んでもらえますか? わたし、上手くなりたいんです」
と言った。そして名乗った。「鹿島莉亜」だと。それが彼女との最初の出会いだった。
それから彼女は度々原稿を持って黎のいる映画研究会に顔をだし、まるで部員のように居座った。
正直に言うと彼女の漫画はあまり上手くなかったけれど、彼女の創作プロセスを聞くことで、映画の制作者の意図に気づくことがあったり、別の視点も持てるようになったりで有意義だった。
なにより……単純に彼女との忌憚のない会話はとても楽しかったのだ。
莉亜は貪欲に感想を求めたし、お世辞などを言おうものなら機嫌を損ねた。向上心の塊で、その姿勢は好感度がすごく高かった。
ただ、彼女の描く漫画のヒーローだけはどうしてもいただけなかった。
大体が顔と権力だけしか取り柄がなく、ヒロインに都合の良いように動く中身のない『くず』なのだ。
こんな男が好みなのかと思うたびに、男の趣味が悪いと幻滅した。――そして大きく外れた自分を思って鬱屈した気分になったことは数知れず。
「だからいつまで経ってもアマチュアなんだよ」
その日、思わず漏れた言葉に莉亜はいきり立った。
「なんですって!?」
黎は原稿に目を落とすとため息をついた。
今回に限ったことではないけれど、このヒーローは特にダメだと思っていた。
それに加えてヒロインの名前が気に食わない。マリア。彼女の名前からつけられたと思われる人物は、外見をとっても性格をとっても、彼女自身を投影したものにしか思えなかった。つまり彼女の願望を強く表したものだと思ったのだ。
だから黎は機嫌の悪さを隠せなかった。
「ヒーローの造形がうすっぺらすぎ。なに? 王子で、武術に長けてて、魔力も強くてそれから美形? スペックとか盛りに盛ってるけど、中身空っぽだろこの男」
いつにないトゲトゲしい批評に莉亜は反論した。
「だって少女漫画だからスペックが一番重要なのよ!」
「一番大事? それって現実でも? 男は顔か?」
『――そりゃあもちろん!』
黎はそう返ってくるのだろうと構えていた。毎回、莉亜がそう言い切るたびに落ち込んだものだ。だけどそのときの莉亜は違った。
「……さすがにそんなことないわよ」
莉亜は逡巡したあと、囁くような声で言った。
「誠実なのが一番……だと思う」
その目が黎の目を、黎の心を射抜いたのを覚えている。
彼女はよく言っていた。「黎って、ほんと物語に対して『誠実』だよね」と。
思い出したとたん、誘われるように口が動いた。今言わねば、きっと言えないだろうと思った。
「たとえば? 莉亜ってさ……好きなやつ、いるの?」
莉亜の目が「言って」と言っていた。黎はその言葉を聞いた気がした。
臆病な彼の背を押したのは彼女のその眼差しだった。
「おれ、とかはどう? おまえのヒーローにはなれない?」
*
彼女はうなずき、その時を境に黎と莉亜は付き合い始めた。
だからといって特に何かが急激に変化すると言うことはなく。
今までの付き合いの延長線上にいた。
それは黎が彼女を大事にしたいと思ったから――などというご立派な理由ではなく、単純に嫌われたら怖かっただけ。意気地がないだけのことだった。
そんな黎を莉亜はよく理解していたのか、告白を引き出した時のように、ゆっくりじっくりと黎の希望を引き出し叶えていった。背中を押すのはいつも彼女だった気がする。
あの夏休みの旅だってそうだった。
付き合い始めて一年。周囲のカップルが関係を深めていく中、あいも変わらず友人の延長線の関係だった。というのも黎も莉亜も実家ぐらし。
莉亜にいたっては一人娘で箱入り娘。となると、なかなか一線を越えることができなかった。
健全な男子学生であった黎だったが、なんとなく彼女の親の心象を悪くしてまで関係を深めるのは避けたいと思っていた。
つまり、莉亜との将来を真剣に考え始めていたのだ。きちんとしたい。そう思って触れたいという望みを押し込めていた。
だが、莉亜はそんな彼の背中を押した。
「漫研って夏合宿があるんだけど」
映画雑誌をめくりながら、へえ、となんとなく聞き流した黎に莉亜は続けた。
「映研はないの?」
「あー? あるにはあるけど、別に強制じゃないし」
「漫研ももちろん強制じゃないんだけど、だけど今年は参加するって親に言ったんだよね」
じゃあその期間は遊べないのか。残念に思ったけれどもこういう話をするということは、つまり行くと決めているということだろう。そう理解してなんともなしに「ふうん」と相槌を打つと、莉亜はもう一度言った。
「強制じゃないの。だから、参加しなくてもいい」
そこまで言われて黎はようやく気がついた。
雑誌から顔を上げると、莉亜と目があった。
真剣なまなざし。
彼女は彼の言葉を待っているようだった。彼女の目はやはり言っていた。『怖がらないで言って』と。
喉からは干からびた声が出た。
「じゃあ、俺と、どこか、行く?」
行き先は海になった。
本州の西の果て。砂浜のきれいな海だった。ただ、その日は少し風があり、波も高かった。
だから泳ぐのは諦めて、浅瀬を歩いた。
夜の事が頭をかすめるのをごまかすように黎ははしゃぎ、莉亜も同じようにはしゃいだ。
だけど、それは一瞬だった。
突然現れた高波が莉亜をさらい、黎は泳ぐこともできないくせに彼女を追った。
黎が覚えているのは、彼女の手を掴みそこね、海水と絶望を掴んだその瞬間までだった。




