07
その姿は突然視界の中に入ってきた。キャップの上にフードを被った横顔がリングを取り囲む観衆の中にチラッと見えた。それは一瞬の出来事だったが、僕はそれが見間違いじゃないという確信がなぜかあった。フードから伸びたマズルがユウとそっくりだった。今すぐにでも追いかけたい。観衆の中をかき分けて声を掛けないと。
フードを被った姿を目で追っていたせいで、鳩尾にパンチを思いっきりもらってしまった。不意に食らった一撃はいつもよりも痛く感じた。
僕はいまリングの中。すぐに追いかけられない。
腹を抱えて咳き込んでいる間にヒロらしき姿は見失ってしまった。結局その試合はその時を起点に負けてしまった。
医務室で手当をしてもらって意識を取り戻してすぐ、寝かされているベッドから飛び起きて部屋を出た。手当をしてもらっていた鳥人の女性が驚いた顔をしていたが気にしなかった。薄暗い廊下を走って明るい競技場へ飛び出したものの、あれから時間が経っていたのか、試合は終わっていて観衆もまばらだった。部屋を見渡して彼がいないことを確認すると地上に向かう階段を駆け上がった。途中で体の大きな虎人と壁の隙間をすり抜け、象人の足の間を通り抜けた。地上のバーにもその姿はなかった。店を飛び出し通りを見渡すも、やっぱりもういなかった。ここまで来るとここの性質上、もう後を追うことはかなわない。
僕は追いかけることをあきらめて店の中に戻った。もしかしたら彼と会った、もしくは喋った人がまだ中にいるかもしれない。そう思って地下に続く階段を降りようと思っていたら「そこの猫さん。何か飲むかい?」とバーカウンターの向こうから男に声をかけられた。
「……ルーイ、さん?」
僕に声をかけてきたのはスーツでビシッと決めたツノが立派な鹿人だった。
「呼び捨てでいいよ。シュトレン君」
彼は程よい笑顔で言った。これが俗にいう営業スマイルか。彼は僕の返答も待たずに、丸く削った氷が入ったグラスにオレンジ色の液体を注いでいた。
確かに喉は乾いていた。ここについてから今まで水分は一滴もとっていない。
僕はその涼しげな音に誘われるように、バーカウンターの高い椅子に腰かけた。
「まさか君がここに通うようになるとは思わなかったよ」
ルーイはグラスに緑色の葉っぱを一欠片浮かべて僕の前に出した。
「僕も、思いませんでした」
差し出されたグラスを受け取って僕はオレンジジュースを口に含んだ。程よく冷やされた液体は乾いた喉によく染みた。
「ねぇ、ルーイ。帽子にフード姿の犬人って見なかった?」
「帽子にフード姿?うーん、どうだろう。ここを通る時は顔がわかるようにしてもらうのが決まりだから、なんとも言えないな」
ルーイは洗ったグラスを磨きながら言った。
「……じゃあ、ヒロ・ドーベルって名前に聞き覚えない?」
僕がそう質問するとルーイはグラスを照明に照らしていた手を止めて「さぁ?聞き覚えはないなぁ」と言った。そしてまたグラスを磨く作業に戻った。
「本当に?ここを通る時に名前訊かれるけど、名簿とかに書かれてたりしない?」
今度の僕の質問には特に反応もせず「ないねえ」と言った。
「なんで確認もしないで分かるんですか?」
「まぁ、そうだね。ここを通る時に名乗る名前。出場誓約書に書く名前。本名で通る人なんて、君くらいだからね……」
「……へぇ」
僕はグラスに残っていたジュースを一気に飲み干した。
「ホントに?」
「ほんとに」
「なんで今まで言ってくれなかったんですか!」
ルーイは店内の雰囲気に似つかわしくない程の大きさで笑った。
「ハハハ。いやー、意地悪してごめんね。君を見ているとあまりにも初々しくて、ついね」
店内の視線を一瞬にして全て背中で受けた僕はものすごく居心地が悪くなった。そんな事は気にもしないルーイは、その数秒後には何もなかったかのようにグラスを磨いていた。
「そんなムスッとしないで、ほら、笑って笑って」
ムスッとしていたつもりはないが、ルーイにそう言われても笑う気にはならなかった。
「……君、ほんとに見習いって感じだねぇ」
僕が『ムスッと』を意図的に続けているとルーイが呟いた。
「……どこがですか?」
「そうだねぇ、例えば、ヒロ・ドーベルについてなぜ調べているのかは知らないけど、あんまり直接聞くのは良くないかな」
「どういうことですか?」
「じゃあ、君。見ず知らずの人に、いきなりルーヴさんについて知ってるかって訊かれたらどう思う?」
「……不審に思う、かもしれない」
「そういうことだね」
ルーイはグラスを照明に照らした。曇りのないグラスは光を透過してキラキラ輝いていた。
「相手に何か違和感を抱かれたら、聞きだせる情報も聞き出せなくなるかもしれない」
僕は素直に「なるほど」と思った。
「多分、ルーヴさんだったら何気ない会話とかから入っていくんじゃないかな?噂話とか交えながら」
ルーイの話に軽い衝撃を受けていると彼が突然「君、剣道も見習いじゃない?」と言った。
「え、なんで?」
僕はびっくりした。道着も竹刀も持ってないのになんで分かるんだ、と。
「なんで、ってことは当たりかな?実は君の試合、ちらっとだけ見たんだ。僕も小さい頃に剣道習ってたんだけど、君の足の動かし方が剣道のそれに見えてね」
「……まだ始めて一週間くらいです」
「ふふ、やっぱりね」
ルーイは得意げに笑った。
僕は純粋にすごいなぁと思っていた。
「やめちゃったんですか?剣道」
「うん、中学校入る前にやめちゃった」
「どうしてですか?」
僕が訊くと彼は頭の方を指差した。
「面が入らなくなって」
確かにその立派なツノがあっては面は被れない。
僕なんかよりよっぽど探偵なバーテンダーはさっきよりは小さめに笑った。
「……ありがとう。いい話が聞けた気がする」
「どういたしまして。僕にできることなら協力するよ」
彼はそう言うとカウンターから少し身体を乗り出して僕の耳元で囁いた。「彼は最近あまりここに足を運ばなくなった」と
「……ありがとう」
「どうも。頑張ってね」
ルーイはそう言った後「ああ、それと」とニコッと笑って付け加えた。
「オレンジジュース代」そう言って彼は五本指を立てた。
「……高くないですか」
「情報料込みだから安いもんだよ」
そう言われては払わざるを得ない。僕は仕方なくボッタクリなジュース代を支払うと、店を後にした。
「ありがとうございましたー」とルーイが営業スマイルで手を振ってくれた。
♢
「この部屋の一番右奥ですね。」
寝不足なのだろうか。開いているのか閉じているのかわからない細い目をこすりながら、僕をここまで案内してくれた狐人の看護師は小さく欠伸をした。
「用が済んだら適当に帰ってください。ここ、普段から鍵はかけてないので」
看護師はそう言うと背中を丸めて、今しがた来た廊下を戻っていった。
白で統一された部屋を、窓から差し込む夕日がオレンジ色に染めていた。少ししか開かない窓の向こうから子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。シミひとつない真っ白なカーテンが風にそよいで大きく膨らんだ。
窓辺に寄ってみると、中央に大きな木がそびえ立つ中庭が見えた。子供達が元気に走り回っているが、その腕にはギプスがはめられていたり、頭に包帯が巻かれていた。中には松葉杖をついている子もいた。
少し離れたところから白衣を着たさっきの狐人の看護師が、子供たちに向かって何か叫んでいた。それを聞いた子供たちは看護師の気も知らず、駆け回りながら建物の中に入って行った。背中を丸めた看護師はこちらを一瞥したものの、また眠たそうに、今度は大きな欠伸をした。
僕は窓を閉じて鍵を閉めた。外から聞こえていた風の音や、近くを走っている電車の走行音が遮断された。まるでここだけ世界から切り離されたように静かになった。
誰も寝ていない、よく整えられたベッドの横に置かれていた丸椅子に僕は腰を下ろした。棚に置かれたガラスの花瓶に花は生けられていない。
「……はぁ」
自然とため息が出た。
何かわかるかもしれない。そう思ってユウが入院していたこの病院にまで足を運んだものの、特に有益な情報は得られなかった。
よくよく考えれば当たり前だ。僕はユウの親族でもなければ警察でもない。ただの知り合いに教えてもらえたのは病室の場所だけだった。
僕はずっと疑問に思っていた。なぜユウは殺されなければいけなかったのか。僕の知る限り彼は誰かの恨みを買うような人ではない。短い付き合いだったが僕はそう思う。まして人生の大半をこの病院の中で過ごしていたのだ。殺意を抱かせる方が難しい。ただ、もし万が一彼に何か恨みを持つ人がいたとしたら、きっとこの病院の中。闘病生活中ということになる。
僕がここで調べ物をするには限界があった。ユウがここにいたこと以外知らない。担当の医師も親しかった人物さえも。
手当たり次第に聞いて回る事も考えた。そして同時に、不審者としてつまみ出される自分を想像した。
せっかく来たんだ。どんな些細な事でもいい。何か手がかりはないかと椅子に座ったまま部屋を見渡した。
しかし、当然だが入院患者のいなくなったベッドには毛一つ残ってない。綺麗に洗濯されて皺にならないようピッチリ整えられている。花瓶が置かれた台の引き出しも、花瓶同様中は空っぽだった。埃すら溜まってない。引き出しを元に戻すと木材同士が擦れる音がした。
ふと、どこからか視線を感じた。
顔を上げるとその視線とぶつかった。白のパーテーションの隙間からこちらを覗く赤い目玉が二つ、こちらをじっと見ていた。
僕はあの、黒くテカる羽を持ったカサカサ動く衛生害虫を不意に見つけてしまった時のように、その目を見つけて身体をビクッとさせて硬直した。全身の毛が一気に逆立った。
しかし何かの見間違えじゃないかともう一度、晒した視線を元に戻すとそこにはもう赤い目玉は無かった。
アイツだと思ったら、ただの黒ズミだったり、黒く変色した野菜クズだったりする事はたまにある。でも本当に見間違えだったのだろうか……。
「見間違いじゃなかよ。儂はずっとここにおる」
内心ホッと胸をなでおろしていた僕は、またびっくりして今度は椅子から立ち上がった。椅子に足が引っかかって、やかましい音を立てた。
流石に今のは聞き間違うはずが無いと、僕は恐る恐るパーテーションの向こうを覗き見た。
「君はなかなか面白い反応をするのぅ。儂をなにかと間違えてないかい?儂はずっとここに『居る』」
僕が勝手に誰もいないと思っていたこの病室に、その老人はいた。
「まぁ、気づかなかったのも無理はない。ここでは儂はカメレオンじゃ」
ホッホッホッと笑う老人の布団から出ている上半身は、一点の曇りもない真っ白な毛皮に覆われていた。垂れた瞼の下から覗く目は赤く、雪の中に実る南天の実を彷彿とさせた。
「……アルビノ」
「そうじゃ。儂は生まれてからずーっとアルビノ。本物を見るのは初めてかの?」
彼は愉快そうに嘴を鳴らしながら話した。片側しかない角を揺らし垂れた耳を振った。
遺伝情報の欠損によるメラニンの欠乏症。生まれつきの症状で色素を作り出せず、頭の先から尻尾の先まで真っ白になってしまう。いま目の前にいるお爺さんも、嘴から耳の先、角の先まで真っ白だ。瞳だけは血管の色が透けて赤くなっている。
全身真っ白な孔雀を見て、なんて神秘的な生き物がいるんだろうと感動を覚えたことがある。それでさえテレビの中の出来事だ。アルビノをテレビや教科書で見たことはあるが実際にこの目で見たのは初めてだ。それも人のアルビノなんて珍しいんじゃないだろうか。
「すみません。気が付かなくて……」
「まあまあ、生まれてからずっとこうなんじゃ。白い空間にいると人は皆、わしのことが見えなくなるようでの。ここでは儂はカメレオンじゃ」
「はぁ……」
ついさっきも聞いたフレーズだな。と思いながら改めてお爺さんを見ると、その風貌には違和感しか覚えない。一体、何人なんだ?アルビノで体が白くなっていても。猫人は猫人、犬人は犬人。鳥人は鳥人の姿のままだ。姿形が変わることはない……はずだ。それなのに、このお爺さんには嘴があれば毛皮もある。犬人のような垂れた耳の根元からは鹿人のような角も生えている。
お爺さんは何人?と少し不躾な質問が僕の口から出る前に、先にお爺さんがもっと気になることを口にした。
「君は、ユウ君の友達かい?」
お爺さんの口からユウの名前が出てきたことで、このお爺さんが何人なのかなんて疑問はどこかへぶっ飛んでいった。
「はい、そうです!お爺さん、ユウを知ってるんですか?」
「あぁ、知っているとも。あんな元気な子を忘れる訳がない」
お爺さんの話によるとユウがここに来てから、ずっと一緒の病室だったそうだ。
「あの子が初めてここに来た時のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。まるで向日葵のような子じゃったよ」
あの子は元気かの?
「……」
その問いに胸は締め付けられた。僕はどう答えたものかと戸惑った。お爺さんはユウがもういないことを知らないようだ。
「……はい、元気にしてますよ。今日はちょっと彼の忘れ物を僕が取りに……」
僕はまた嘘をついた。探偵の見習いになってから嘘をつく回数が多くなった気がする。でも真実を知ってこのお爺さんが悲しむことを考えたら、どうってことない。
「ほお、そうかそうか。なら良かった。して、忘れ物とはもしかして紙飛行機じゃないかの?」
「紙飛行機……、はい、そうです」
また嘘をついた。でも、何で紙飛行機なんだ?
「ほっほっほ。当たりじゃな」
お爺さんは伸びた髭を撫でながら嬉しそうに言った。
「……何で紙飛行機なんでしょう」
僕はお爺さんのベッドのわきに置いていた丸椅子に腰かけた。もしかしたらもっといろんな情報を引き出せるかもしれない。
「なんじゃ、任されたのに知らんのか」
お爺さんは、ふふっと口元に笑みを浮かべると「ふみじゃよ、ふみ」と言った。
「ふみ?」
文?手紙?お爺さんの発した「ふみ」という言葉が頭の中で変換された。
「え、誰に書いてたんですか?しかも紙飛行機で」
お爺さんはその赤い目で、この部屋の左奥のベッドの方を見た。ユウの居たベッドの向かい側だ。
「君のような猫人の女の子じゃよ」
「女の子?」
「かわいい子じゃった」
その子のことを思い出しているのか、空中を眺めていた。
「……その子は今どこに?」
ユウと同じ時期に入院していたのなら、何か知っているかもしれない。手紙の交換もしていたならなおさらだ。
「その子は今……」
「今?」
「知らん」
「……知らんですか」
期待していた分少し落胆した。一瞬見えた光が瞬く間に消えた。だがユウのことを知っている人がいることは分かった。これだけでも十分な収穫だ。
「すまんの。あまりにも急じゃったからの」
「急?」
急、と聞いて、僕は最悪を想像した。まさか彼女ももうこの世にいないなんてことがあるんじゃないだろうか、と頭をよぎったがそうではなかった。
「うむ、ユウ君が退院する少し前かの?なんの前触れもなく退院してしまいよった」
「そうですか……」
ある日突然の退院か。僕は生まれてこの方、入院したことが無いから人の入院事情なんて知らなかった。だからそれが変なことなのかはわからなかったが、後で看護師さんに訊いてみよう。
「ああ、そうじゃ思い出した」
布団の上でお爺さんは手をポンと鳴らした。
「何ですか?」
「手紙じゃ手紙。ここからじゃとあの子が手紙をどこにしまっていたのかが見えるんじゃ」
「何処です?」
僕は椅子から身を乗り出してお爺さんの後ろに回った。
「ほら、あそこじゃ。あの引き出しの中に入れとった。看護師さんが片付けてさすがにもうないかもしれんが……」
お爺さんの指さした方を見ると、ユウのベッドの横にもあった引き出しと同じものがあった。
お爺さんの言う通り看護師さんがもう片付けてしまっているかもしれない。でも僕は確かめられずにはいられなかった。僕は猫人の女の子がいたというベッドの横の引き出しを開けた。
「あ、」
期待していなかった分、その衝撃は大きくて思考が停止した。
開けた引き出しの中には折り目のついた紙が数枚、無造作に入っていた。
「お爺さん、これ!」
僕は引き出しの中に入っていた紙をつかんでお爺さんに見せた。
「……お爺さん?」
振り向いた先にはおかしな光景が広がっていた。さっきまでお爺さんがいたはずのベッドに、誰もいなかった。
そんなはずはないとベッドに駆け寄って布団の中に手を入れてみた。
「……冷たい」
さっきまで人がここにいたなら、少なからず体温が残っているはずだ。なのに布団は冷たかった。
パチっと音がして部屋の電気がつけられた。部屋の出入り口のところにあの狐人の看護師が立っていた。相変わらず眠そうにしている。
「君ね、何時間いるつもりなの?いくら何でも長すぎだよ、もう外真っ暗なんだけど…………君、大丈夫?」
僕の思考は完全に停止した。
がこん。
誰もいない待合室は必要最低限の灯りしかつけられておらず、もの寂しい雰囲気を醸し出していた。普段は聞こえることのない自動販売機の駆動音がよく聞こえた。
「ほら、飲みなさい。微糖で大丈夫だったかな?」
「……ありがとうございます」
擦れて色落ちしたソファに座らされた僕は、狐人の看護師から缶コーヒーを受け取った。
看護師は僕の二つ隣の席に腰かけた。真っ黒な缶のプルタブを開けて中身を一気に飲み干すと、鼻から大きく息を吐き出した。空になったアルミ缶をごみ箱に向かって放り投げると、その缶は吸い込まれるようにしてごみ箱の中に納まった。
彼は白衣の下からアルミのケースを取り出すと、そこからタバコを一本取り出してライターで火をつけた。
「ここ病院ですよ。禁煙じゃないんですか?」
僕の放った言葉は見えない壁にでも当たったのか、看護師の耳には届いていないようだった。鼻にツンとくる匂いがする。吸い込んだ煙を口から吐き出して、携帯用の灰皿にタバコの灰を落とした。
「君が出会ったのは『ダレカさん』だろう」
「無視ですか」
僕の言葉はタバコの煙のように空中に漂って消えた。どうやらこの人はだいぶマイペースなようだ。こういう時は黙って聞いているに限る。
「この病院では時々『出る』んだ。昼夜問わず、ある日突然現れる。その姿は様々だ。君が見た『ダレカさん』はどんな姿をしていた?」
「……姿」
僕は少し前まで話していた老人の姿を思い出した。全身白い毛並みに嘴と角、それから赤い瞳を。
「……なんというか、チグハグな姿でした。いろんな種族の特徴を持ったお爺さん」
「そうか、お爺さんだったか。俺が出会ったのは小学生くらいの狐人の子供の『ダレカさん』だった」
看護師はタバコを吸った。タバコの先端が赤く燃えて灰になる。彼は煙を口から吐き出した。
「『ダレカさん』が一体何者なのかは全く分かっていない。ある人は幻覚や幻聴だと言い、ある人は守護霊、幽霊、この世ならざる者の精神だと言う。いつかの患者さんはメアリー・スーだと言ったかな」
「メアリー・スー?何ですかそれ?」
「説明するとなるとなかなか難しいんだ。自分で調べてみるといい。俺にはそれが一番しっくりきたかな。まあ、『彼ら』は存在することは確かだが、今まで害を与えられたとか被害を被ったと言う報告はないから心配する必要もないだろう。この病院の若い奴らの中では、出会ったら幸運が訪れるとも言われるくらいだ」
さて、と彼はタバコの火を消して吸い殻入れに入れた。
「今日は俺も家に帰る。送ってやろう」
僕はその申し出に一瞬迷ったが時間もかなり遅かったし、精神的にも少しくたびれていたので送ってもらうことにした。昔から知らない人にはついて行くなと散々言われて来たが、もう大丈夫だろう。それぐらいの分別はつくようになった。この人は『日々の仕事に疲れた、ダレカさんを見たことのある狐人のお兄さん』だ。
「じゃあ、お願いします」
「よし、分かった。悪いが荷物を取ってくるから先に駐車場で待っていてくれ」
彼はそう言うと明かりのついていない廊下の方へ歩いて行った。
僕は言われた通り従業員用の駐車場がある建物の裏手に回った。
そして僕は今判断に迷う二択に迫られていた。
駐車場には車が二台停められていた。高級車と型の古い軽自動車。
……どっちだ、これ。
「どうした?腹でも壊したか?」
少し経ってスーツを少し着崩した看護師が現れた。見た目は完全に、業務に疲れたサラリーマンだ。
「……別に、ただ立っているのが疲れただけです」
僕は病院の裏口から一番近い、駐車場の入り口の車止めに座っていた。散々迷った挙句、僕は選ばないことを選択した。
「情けないなぁ。若い奴が何言ってんだ」
「……そういえばお幾つなんですか?さっきも若い奴って言ってましたけど、そんなに年取ってないでしょう?」
「まぁそうだね、上のジジイ達に比べたら俺なんてまだ若造だけど、君なんかよりは全然歳食ってるかな。さ、どうぞ」
そう言って看護師が開けた車のドアは軽自動車の方だった。
「……ごめんね、医者って儲からないんだ。まだ見習いみたいなものだし」
「いや、まだ何も言ってませんけど。そういえば医者と看護師の違いってなんですか?」
「……君、もしかして何か勘違いしてた?」
「いいえ、してません」
「そうか、それならいいや」
僕は車の助手席に乗り込んだ。
車の中はほんのりとタバコの匂いがした。
エンジンがかかるまで三回くらいかかったが無事に病院の敷地内から出て街に出た。道は空いていたがある程度車通りはあった。まだこの時間でも街中は明るい。
車中でいろんな話を聞いた。主に愚痴を聞いているだけだったが、普段聞けることのない医者の裏側は興味深かった。
「医者ほど業の深い生き物はいないよ」
彼はタバコを咥えながら細い目をより一層細くしてボソッと呟いた。
「……そうですか」
僕はそれについては深く訊かない事にした。彼も訊かれたくて言ったわけではないだろう。
車は市街地を抜け、田舎道に通じる道路を走っていた。ここまで来るとほとんど他の車とはすれ違わなくなった。
止まる必要のなさそうな赤信号に捕まっていると、何処からか視線を感じた。車内には二人しかいない訳だからその視線の出所はすぐにわかった。隣を見ると片手をハンドルから離して、ドアに頬杖をついた狐が細い目でこちらを見ていた。
「……なんですか、そんなに見ても何も出ませんよ?」
「そうか。それは残念」
彼はククッと笑った。僕は一瞬この車に乗ったのは間違いだったんじゃないかと思ったが、その懸念は稀有に終わった。
「まぁ、冗談はさておきだ。病室にいる君を中庭から見上げた時、ふと昔のことを思い出したんだ」
「昔のこと?」
「ああ、昔と言ってもつい半年くらい前のことだが、君によく似た白い子があの病室に出入りしてたんだ」
「……それなら知ってます。『ダレカさん』から聞きました。ユウの向かいのベッドの女の子が僕に似た猫人だったって」
「ん?ああ、そう言えばそんな子もいたな。でも俺が思い出したのは普通の猫だ。人の方じゃない」
「……それってどういう」
会話の中に違和感を覚えた直後、後ろの車からクラクションを鳴らされた。いつの間にか信号は青に変わっていた。
「おっと」
ニュートラルに入っていたギアを切り替えて車は動き出した。
「……君が言うその子が退院してからかな。見かけるようになったのは。なぜかは知らないがよくあの病室を訪れていたよ。病室は三階なのに器用に登って窓から入っていた」
「……」
僕に似た猫人と猫。白い猫なんて探せばいくらでもいる。偶然だろうか。関係のないことかもしれないが、僕は一応頭の片隅にしまっておく事にした。
「さ、着いたぞ」
色々考えているうちに、いつのまにか家の前まで送ってもらっていた。
「ありがとうございました。えっと……」
僕はお礼を言って初めて気づいたがこの人の名前を知らなかった。
「別にお礼なんかいいよ。まあ、『ダレカさん』に出会ったもの同士何かの縁だ」
はい、とくたびれた財布から一枚名刺を取り出して僕に渡した。
「……医者って名刺とかあったんですね」
「普段は学会で会った人しか渡さないんだけど、そんな機会もそうないから有り余っててね。何かあったらそこに連絡でもしてくれ。探偵の見習いさん」
「……はい」
受け取った名刺には病院と名前と連絡先が書いてあるだけのシンプルなものだった。
車を降りてドアを閉め、改めてお礼を言った。
「俺が悪い狐じゃなくて良かったな。最近は男でも注意した方がいいぞ」
「あはは……気を付けます」
じゃあな。と片手をあげると彼は車のエンジンをふかせて車を走り出させた。
誰も乗せていなかったはずの後部座席に真っ白な狐人の子供が乗っていた。その子は無邪気な笑顔を僕に見せると「バイバイ」と手を振った。
赤いテールランプが丘を遠ざかって行った。
車が見えなくなるまで見送るとポケットの中を確認した。手に触れたのはノートを切り取ったような紙が数枚。
『ダレカさん』出会った人には幸運が訪れる。そのジンクスをどこまで信じていいんだろうか。この紙切れに少し希望を抱きながら、まだ灯りのついていた玄関を開けて家の中に入った。
「ただいま」
「……おかえり」
歯ブラシを咥えて腕組をしたシオリが眉間に皺を寄せて玄関に立っていた。




