12
「大丈夫かな?」
「大丈夫だろう、触ってみた感じ骨が折れている感じはないし、軽く切っただけだろう」
鼻から血を垂らしているジャックを居間の椅子に座らせフォト・フォードは救急箱を開いた。その古めかしい木箱からティッシュと綿棒、止血剤を取り出す。
「俺の事じゃなくてヒロとシュトレン君のことだよ」
「あ?あいつらか?」
ジャックの鼻についた血をティッシュで拭き取ると鮮血が染み込んだ。
綿棒を血の出ている方の鼻の中に入れて、まだ中に残っている血を綿棒に吸い取らせた。
「さあな、あいつら次第だろう」
引き抜いた綿棒は血と一緒に鼻水を絡めとり赤い糸を引いた。血の混じった鼻水をティッシュで拭き取る。
「……ヒロさ、なんか雰囲気が違うんだ」
「あぁ、あれは危ないな。そのうち暴力事件でも起こすんじゃないのか?」
「いや、なんて言うか、性格は前からあんなだけど。危ない危うさって言うの?不安定な感じがする」
「……不安定、か。ほら、顎あげて」
止血剤を綿棒の先に吹き付けた。白い粉がテーブルの上に少し飛んでしまった。粉をつけた綿棒をもう一度鼻の中に突っ込んで、鼻の中の壁面に塗っていく。
「ほういえわさ、」
「待て待て。塗り終わるまでしゃべるのは辛抱しろ。…………よし、これでいいぞ。ちょっとの間は鼻から息は吸うな。それでなんだ?」
「そういえばさ、」とジャックは治療したばかりの鼻の頭を触って言った。
「さっき部屋出るときに『怪我人』って言ってなかった?あの二人怪我してるようには見えなかったけど、怪我してるんなら手当してあげなくていいの?」
止血剤を塗った鼻に違和感があるのか、ジャックはその長い舌で鼻頭をしきりに舐めていた。その様子を見ていたフォードは散らかした救急箱を片付けると、小さくため息をついてその舌をつまんだ。
「舐めるな、雑菌が入る」
「んー」
ジャックは不服そうに眉間に皺を寄せた。
「何も骨が折れたり血が出ているだけが怪我じゃなんだよ。あいつらは『それ』だ」
「…………うん」
「『うん』ってなんだよ」
「いや、何でもない……ただ、僕ら……」
ジャックは言葉を濁して最後まで言わなかった。そして俺は思い出していた。目の前に座っている鼻を白くして舌を放っぽり出した犬人が警察官であるということを。指名手配中の同僚を家に匿うと決めた馬鹿なやつであることを。きっと濁した言葉の続きはこうだ。「手伝ってあげたい」「助けてあげたい」。
だが言葉にして出さなかったという事はジャックも分かっているんだろう。
「その怪我を治すには、あいつら自身がやらないといけない。私達は手を出すべきじゃない」
「……」
「分かったら歯磨いて寝ろ。お前も明日は朝早いんだろう?」
「……うん」
ジャックは静かに頷くと席を立って洗面所の方へ歩いて行った。
俺はポケットから煙草とライターを取り出すと台所の換気扇を回した。しかしライターのフリントを押し付けるが火花が散るだけで中々着火しない。「これだから安物は……」俺はコンロの火で煙草に火をつけると肺目一杯に煙を吸い込んだ。
目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。忘れることができないというのは何とも厄介なものだ。病院に勤めていれば嫌でも目に入る。身体から器具をすべて取り外し、静かに眠るだけの故人のベッドを取り囲んで悲しみに暮れる人たちの姿。
老衰ならまだいい。寿命だったと残された者たちも割り切ることができる。心にかかった負担も比較的少なくて済む。そのほとんどは時間が解決してくれる。目に見えない傷は、かすり傷のようにすぐには消えてくれない。えぐれた傷は元に戻ることはない。ゆっくり、ゆっくりとその傷がふさがり、えぐれた空間に何か詰め込むしかないのだ。そこに塗る薬も飲み薬もありはしない。ましてや俺たち医者の手術で治るはずもない。
だから彼等は自分たちの手でその傷を埋めなければいけない。俺たち他人が手を出してはいけないんだ。例え他人の力を借りて解決したとしてもその傷は埋まらない。永遠に傷を治す機会を失ってしまう。彼等の心に穴が開いてしまったままになってしまう。
肺に吸い込んだ煙を外に吐き出した。吸い込んだ量が多かったのか軽く咳き込んだ。
♢
「あ、また居た。君も諦め悪いね。そんなに気になるなら訊いちゃえば良いのに『あなた、浮気してませんか?』って」
「ユウ、そんなこと聞いて『はいそうです。浮気してます』だなんて言う浮気者が居ると思う?」
「……どうだろう。居ないかな?」
「多分ね。よっぽど能天気な奴か、浮気を浮気だとも思わない馬鹿なやつじゃない?」
「そうだね……、愛おしき馬鹿」
「よく考えて。全然愛おしくないよ。ただの馬鹿だよ。そんなことよりそれどうしたの?もう溶けてきてるけど……」
「あ、忘れてた。シュトレンどっちがいい?バニラかイチゴ」
「……どっちでもいい」
「ふふっ、そう言うと思った。じゃあ君はこっち」
「……」
「あれ?チョコがよかった?ごめん僕、あの犬人用のチョコの味ってあんまり好きじゃないんだよね。絶対あれチョコの味じゃないよ」
「いや、そういう事じゃないんだけど。何で僕にアイスなんかくれるの?」
「…………アイス、たべたいかなって。ほら、最近ずっと真夏日だし雨も降らないしいい天気だし」
「よし、言い方を変えよう。ユウは他にやりたいことないの?こんな公園のベンチで僕なんかとアイス食べるよりも、こう、どこか行きたかったとこに行くとか、おいしいもの食べに行きたいとか」
「……」
「……ごめん。僕が言うことじゃなかったね」
「………………ふふふ」
「何で笑ってるの」
「いやぁ、シュトレン自分で言っちゃうんだもん。僕はこうして友達と一緒に、なんでもない話をしながらアイスが食べたい」
「……」
「なに照れてるの?」
「照れてない」
「照れてるじゃん。ほら、目合わせてくれないし」
「…………照れてないってば」
♢
僕の名前を呼ぶ声がした。
そんな気がして、まだ重たい瞼を無理やりこじ開けた。寝転んだまま伸びをすると縮こまった身体が程よくほぐされる。
昨日の夜、寝床のない僕は仕方なくジャックさんの部屋の床で寝ることにした。予備の薄い布団だけジャックさんに借りて、それに包まって一晩明かした。当のジャックさんは何処で寝たのかは知らない。どこか他になれる場所でもあったんだろうか……。
僕は上半身だけ起こして、まだピントの合わない目をこすった。座った姿勢でまた伸びをした。背骨が、首の骨が小さな音を立てた。硬い床で寝たせいで体のあちこちが痛い。
「おい!猫!」
僕が大きな口を開けて欠伸をしているとベッドの方から乱暴に僕を呼ぶ声が聞こえた。
なんだ、気のせいじゃなかったのか。
「おい!聞こえてるだろ猫野郎!なんだこれ早く解け!」
その声の主はベッドの上に布団で簀巻きにされた上、ロープで縛られて身動きが取れない気性の荒い犬人だ。なぜ簀巻きにされているのかと言うと、起きてまた暴れられたら堪ったものでは無いと思って僕が縛った。
「聞こえてるのか?寝ぼけてるだけなら早く目を覚ませ!そしてこの紐を解け!」
ヒロは口調を荒くして僕に体を縛っているロープを解けと訴えていた。動かせる顔だけでもがく様子は、かなり切羽詰まった様子だった。
「僕は『おい』でも『猫野郎』でも無いんだけど」
「あぁ?今はどうでも良いだろう、早く解いてくれ」
「…………暴れない?」
「暴れねえよ!お前、俺をなんだと思ってるんだ、暴れ牛じゃねぇんだよ。あの狐野郎今度会ったらぶん殴ってやる」
そう言うヒロは牙をガチガチ音を立てて、油断したら今にも噛みつきに来そうだった。暴れ牛よりも危ないんじゃないだろうか。幸い縛ったのはフォードさんだと勘違いしてくれている。
「……似たようなものじゃない?それに、それが人にものを頼む言い方じゃないでしょ」
「……んあぁ!分かったよ!暴れないからこの縄を解いてくれ!頼む!」
言い方はかなり乱暴だったが、とりあえず僕は縄を解いてあげることにした。
「ちょっと待ってて」
僕は縛ったロープを解きにかかった。
「頼む!早くしてくれ」
「うん、だからちょっと待っててって」
僕は結び目に手を掛けて少し手間取っていた。
……固結びになってる。
僕が昨日の夜、このロープを縛った時は片方に輪っかを作ってすぐに解けるようにしていたはずだ。それが今やその輪っかは無くなり固く結ばれている。
「おいどうした?なんで手ェ止めてんだ」
「……昨日結んだ時より硬くなってる」
参ったな。爪も入りやしない。
結び目には爪が入る隙間もない程硬くなっていた。
「早くしてくれ!」
「だからちょっと待って、暴れたから結び目が硬くなってるんだよ。それよりなんでそんなに急いで……」
僕はロープの結び目に夢中になって気づかなかったが、ふとヒロの顔を見ると顔色がさっきよりも悪い。鼻先も乾いているように見えた。
「ねぇヒロ、なんか顔色悪くない?」
「だから……早くしろって言ってるだろ。解けないなら切れないのか?」
ヒロにそう言われて僕は何か切るものがないか探した。僕は机の上に置かれていたハサミを見つけた。しかしそれは工作用のハサミで、試すまでもなく縛っているロープを切れるとは思えなかった。
仕方ない。ちょっと危ない気がするけどこっちか。
僕はハサミ同様、机に転がっていたそいつを手に取った。
カチッと音がして先端から火が出ることを確認した。
「おい!なんだ今の音。まさかライターじゃないだろうな?」
「……あたり」
僕はロープと布団との間にできた隙間にライターを入れて点火した。火に炙られたロープから焦げ臭い匂いがした。
「……布団に火、付けるなよ。火達磨になって死ぬのは御免だからな」
「分かってるよ、だからちょっと待って」
僕はすでに布団の表面がライターの熱で溶けて来ている事は黙っておいた。
火のついたロープの繊維一本一本が焼け切れていく。
「よし、もうすぐ切れるよ」
ライターの火で炙るのをやめて僕はロープの両端を引っ張った。するとあれだけ頑丈だったロープはいとも簡単に千切れた。
「はい、切れた……」
よ。と言い終わる前にヒロがまだ布団に簀巻きになった状態でベッドから転がり落ちて来た。ベッド脇で膝立ちしていた僕は見事にその下敷きになった。
「ニャ!」
僕の上に転がり落ちて来た。ひとしきり僕の上で暴れた後、のしかかっていた体重がふっと消え、脱ぎ捨てられた布団が覆いかぶさるだけになった。それと同時にどたどたと部屋を出て行く足音が聞こえた。
あ、逃げられた。
咄嗟に僕はそう思って布団から抜け出した。
あんなに急いでどこに……。
僕が立ち上がって顔をあげると彼はすぐそこにいた。ドアに寄り捕まって立っていた。
「便所」
ヒロはそう一言呟いた。
「……べんじょ?」
「そうだよ便所!どこだ?」
「階段降りて、すぐのドア……」
聞き終わるか終わらないかでヒロは階段を駆け降りて行った。ぽかんとした僕を置き去りにして。
ああ、そうか。そういえば昨日病院でフォードさんに眠らされてからずっとトイレ行ってなかったのか。
「…………ふふっ」
なんだか急に笑いがこみあげてきた。
あれだけ大声でわめいて暴れていた男が血相を変えて「便所」だなんて。生理現象だから仕方ないとはいえ、僕のツボに引っかかった。
独り部屋の出入り口で立ちながら笑っている僕を現実に引き戻したのは焦げ臭いにおいだった。
その匂いで何が燃えているのかはすぐに予想がついた。床に落ちた布団から黒い煙が立ち上がっていた。僕は煙の立ち上がる場所めがけて床に転がっていたクッションを叩きつけた。数回叩きつけると赤く燃えていた日は消えて焦げたにおいが残るだけとなった。火の元を見つけてから消火に至るまでの速さは、消防士のそれと同じか早かったんじゃないかと思う。ただそれを見ていた人がいないのが残念だ。
後でジャックさんに謝らないとな……。
僕は消火に使ったクッションを見ながら思っていた。鳥の刺繍の入った表面に茶色く焦げた跡が残ってしまった。
「ふう、」
僕は床に座って今しがた火がついていた布団を眺めていた。
今思えば火事の一歩手前だったな。しかも人の家で。
僕が一息ついていると、しばらくしてヒロが帰ってきた。何も言わずに僕の姿を確認すると、スタスタと歩いて僕の横を通り際に頭を小突いた。
「痛!何すんだよ」
僕の声に一切反応することなく、ヒロはベッドの前に立つとそのまま倒れこんだ。ベッドが軋んでヒロの体重を受け止めた。
少しの間、なんでもない時間が流れた。開いた窓から鳥のさえずりと朝日が入り込んでいた。
「ねえ」
僕は時間を少し置いて倒れこんでいたヒロに声をかけた。きっと反応は帰ってこないだろうと思っていた。多分この人は自分の話したいことを自分の話したい時にしか話さない、かなりマイペースでめんどくさい性格だ。僕は似たような人物を一人知っている。こういう時はじっと待つしかない。こっちから何か言ったって虚しい思いをするだけだ。
僕はそう思って。まだ少し焦げ臭いクッションを抱きかかえていると、ヒロが尻尾を少し揺らして僕に話しかけてきた。
「シュトレンって言ったな。お前だろう、ロープで縛ったのは」
「……なんで?」
「『なんで』ってことはやっぱりそうか。最初はあの医者かと思ったが、ついさっきお前が『結んだ時より』って言っただろう」
「あぁ」
「ああ、じゃねえよ。だから探偵『ごっこ』なんだよ」
ヒロはそう言うと仰向けに転がった。
「それで、お前。訊きたいことがあるって言ってなかったか?」
ヒロは天井に向かって言った。僕はヒロがそんなことを覚えていたことが意外だった。てっきり聞き流されているものだと思っていた。
「なんだ、もういいのか?」
「ちょ、ちょっと待って」
僕は壁に立てかけていた鞄から二枚の紙が入った透明のファイルを取り出した。
「これ、なんだと思う?」
僕は寝ころんだままのヒロに向かってファイルを差し出したが、彼はそれをよこせと言わんばかりに手を差し出すだけだった。
僕は仕方なくファイルをその手の上に乗せた。
「……なんだこれは」
ヒロはファイルの中から折り目のついた紙を取り出して言った。いや、その紙に書かれていた文字を見て言ったのかもしれない。
「それは、ユウが入院していたベッドの向かいにいた彼女にあてた手紙……だと思う」
それを聞いたヒロは鼻から短く息を吐き、「この折線、紙飛行機か……」と呟いた。
「これをどこで見つけた」
ヒロは目線だけをこちらに向けた。
「……二日前に病院で。彼女が入院して居たベッドの引き出しの中に入っているのを僕が見つけた」
「そうか」
ヒロはそれだけ言うと僕にファイルごと紙を差し出した。
「その住所は、お前も分かるな」
「……うん」
僕はヒロの問いかけに頷くだけにした。「その住所」とは一枚の紙切れに書かれていた住所のことだ。僕はこの紙切れを手にしてから一番にこの場所を調べた。この住所は事件の起きた、その場所だった。もう一枚の紙には「助けて」の短い一文が書かれているだけだった。
「お前はこれからどうする?俺はもう一度あの病院に行ってその女のことを調べる。依頼のあった猫でも探すか?」
ヒロはベッドから起き上がった。
「僕は……」
もちろん昨日ハルさんから頼まれた猫探しをするつもりではあった。それがあの猫人の女性につながることは間違いなかった。
でも、その前にこの胸につっかえている何かを取り除きたかった。その為にはヒロの協力が必要不可欠だ。
「ヒロ、君の家に行きたい」
「あ、なんでだ?」
ヒロの鋭い目が少しだけ丸くなった。
「正確にはユウの部屋で調べたいものがある。……駄目かな?」
「……」
ヒロは少し考えた後、「駄目だ」と短く言い放ってベッドから立ち上がった。そしてそのまま何も言わずに部屋を出て行こうとする。
「待って!」
僕は咄嗟にヒロの服の裾を掴んだ。何も考えはなかったが、とにかく彼を引き留めないといけないと思った。
「……もしかして、避けてない?」
「……」
ヒロは何も言わなかったがドアノブに手をかけて立ち止まった。
「ジャックさんから聞いた。あの事件以来、家に帰ってないって。それってもしかしてユウの面影がまだ―――」
僕が言い終わる前にヒロの拳が僕の目の前の壁に突き立てられた。壁の一部がぱらぱらと床に落ちた。
「勝手にしろ」
ヒロはこちらを振り向くことなく部屋を出て行った。バタンと力強く扉が閉められた。ドアの向こうから聞こえて来る、階段を下りる音が段々と小さくなっていく。
今すぐに追いかければ多分追いつける。
でも手をかけたドアノブは回せなかったし、足も動かなかった。
ドアに額を打ち付けた。……痛い。
何をしてるんだ僕は……。引き留めるどころか逆に怒らせてしまった。きっとヒロの協力はもう仰げない。僕は目を閉じて考えた。
「勝手にしろ……か」
僕はポケットにしまっていた小瓶の感触をズボンの上から手で確認していた。